天花寺城
てんげじじょう
城主;薗大納言(薗の御所・平安時代)
久我三郎(鎌倉時代、12世紀)
久我修理太夫━久我主計介(かずえのすけ)(天花寺氏に改称)
天花寺広高、天花寺新左衛門
住所;松阪市嬉野天花寺町堀田
遺構;曲輪、土塁、堀切、空堀
位置づけ;伊勢平野の中央を流れる雲出川の支流・中村川の入口で平野部
に突き出た台地で睨みを効かす絶好の位置にある。西からの尾根を切る
空堀は大規模である。
経緯;父、久我修理太夫は堀之内城主・舟木光俊を攻めたが失敗し自殺す
る。以後堀之内が薗の御所と呼ばれることになる。
修理太夫の子・主計介は曽原城主も兼ね姓を天花寺に改称し北畠氏に
仕える。後、天花寺広高も居城とある。
他説①;正平年間(1346-1370)天花寺蔵人が居城し、応安3年伊賀・春
日部高宗に従い近江を攻め功績により曽原城を与えられる。
他説②;永禄年間(1558-1570)天花寺小次郎がおり、信長軍を拒み続
けて3か年にわたって城を守ったが元亀2年小次郎は討死して廃城した。
書籍「三重の山城ベスト50を歩く」では織田信長が伊勢侵攻の時籠城
戦の舞台であった、その様子も確認できたと記述されている。
感想;古く7世紀、8世紀からこの地は天花寺として崇められてきた。今未来
に向かって天花寺は更に営々と歴史を刻んでいくのだろうと想う。
ここより南西400mの所に支城の天花寺南城がある。
地図;
平成26年12月20日 天花寺南城は本城の南端の堀切であると解釈した。誤りとして訂正する。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます