鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

市川憲輔の動向

2024-01-14 16:47:18 | 市川氏
市川和泉守憲輔は越後守護上杉氏の重臣であり、延徳期から明応期にかけてその所見がある。その政治的立場は守護代長尾氏や八条上杉氏に比肩したとの指摘もあり、当時の政治体制において重要な役割を担った人物であったことは疑いない。今回は憲輔について整理してみたい。越後市川氏については片桐昭彦氏の研究に詳しい(*1、*2)。


1>憲輔の動向
文明末期成立の蒲原郡段銭帳(*3)には、「金津保之内御料所 市川和泉守方」「同庄(青海庄)小吉之条 代官市川」と市川氏が上杉氏御料所の代官であった事実が示される。文明末期成立の『越後検地帳』では「市川和泉守分」が記され、代官佐渡彦七の名が記載される。文明16年、19年の検地を経て、計15293束苅が記載される。これらの所見は和泉守定輔とその前代・和泉守憲輔の所見の境にあたる時期であり、どちらの人物を示すかは不明だが、和泉守系の所領としてその経済的基盤となっていたことが推測される。

[史料1]「上杉房定一門・被官交名」(『正智院文書』)
長尾信濃守平能景 廿八歳
 大安縫殿介源頼忠 卅五歳
市川和泉守憲輔 五十五歳
 物部越前守藤原房泰 五十七
 市川孫二郎藤原定輔 十六
 毛利左近将監大江定広 善根
 毛利弥五郎大江輔広 北条
 市川大和守藤原房宣
 平子平左衛門尉平朝政

(紙背)
 延徳三年辛亥記之
相模守房定 法名常泰 六十一
御子房能 九郎 十八歳
□□□顕定 四郎殿 三十八歳
十一月十四日、常泰御誕生日也、今日御日之所作ノ目録認進之、以次御信払ノ真言等奉授之了
 八条尾張守房孝

[史料1]より憲輔の実名、受領名、年齢が判明する。実名は越後上杉氏よりの偏諱であろう。年齢から逆算すると生年は永享9年となる。片桐氏は[史料1]において長尾能景と市川憲輔が他の守護年寄より明らかに別格上位に位置付けられており、憲輔が越後守護代と並ぶような地位にあったことを指摘している。

さらに憲輔は延徳4年に歌人・堯恵より『古今集延五記』を授与され、明応期には上杉房定、上条上杉房実らと共に『新撰菟玖波集』の作者としても登場するなど文化人として積極的な活動を見せる。これも彼が越後の政治中枢に深く関わっていることを示すものだろう。文明・明応期の文書である千坂実高書状(*4)には、千坂実高が刈羽郡善照寺から「不入之儀」について安堵を受けることを求められ市川憲輔と齋藤昌信に取り次いだことが記されている。

憲輔の政治的地位を示す文書として明応9年10月16日長尾能景宛平子朝政・斎藤珠泉連書状(*5)がある。これは揚北の本庄氏の反乱鎮圧のため派遣された守護方の軍勢から府中へ状況を伝える文書である。この中で以前の注進に対して「尾州次市川和泉守以添状被仰下候とあり」、府中から派遣軍への応答は八条上杉房孝と市川憲輔の副状からなされたことが森田真一氏(*6)によって明らかにされている。同氏により当時八条房孝は府中の守護所での活動が確認されるなど守護上杉氏と密接な関係にあったことが指摘されている。その八条房孝と並ぶ市川憲輔も守護権力内の宿老的存在として位置していたことが推測される。

また、この頃長尾輔景、北条輔広、飯沼輔泰、五十公野輔親など「輔」字を冠する人物が散見される。ここまで見てきた市川憲輔の政治的立場であれば、それは憲輔よりの偏諱である可能性もあろう。

以上憲輔の史料を確認したが、そこからは守護上杉房定のもと守護代長尾能景、有力一門八条房孝、そして市川憲輔が中心となって構成される当時の権力構造が透けて見える。八条上杉氏についても近年研究が進みやっとその存在が明らかとなりつつあるように当時の越後政治体制は不明な点多いが、憲輔を始めとする越後市川氏の存在が予想以上に大きなものである可能性が想定されている。


2>越後市川氏の一族
[史料1]にみえる当時16歳の市川孫二郎定輔は憲輔の後継者であろう。永正4年上杉定実知行宛行状(*7)で長尾房景へ古志郡石坂の「市川孫左衛門尉分」が宛がわれており、片桐氏はこの孫左衛門尉が孫二郎定輔の後身である可能性を指摘している。また同文書が越後市川氏の終見であり、片桐氏は永正の政変において市川氏が没落したと推測している。

憲輔の前世代としては文明12年10月黒川氏実から宮福丸への家督相続に関する書状に見える、市川伊賀守朝氏(*8)、市川和泉守定輔(*9)がいる。両者共に黒川氏実と贈呈品をやり取りし当時の周辺情勢について報告している。ちなみに、氏実は家督相続が認められた御礼を各所に進呈しており、その内容は守護上杉房定が馬と鳥目500疋、守護代長尾重景が太刀、馬と300疋、雲照寺妙瑚が200疋、市川朝氏、定輔は共に100疋となっている。市川氏がこの頃から既に権力中枢に関与していたことが窺えよう。

和泉守、「輔」字の共通性から和泉守定輔-和泉守憲輔-孫二郎定輔と系統が繋がっていると考えた方が自然だろう。それぞれ、父子関係やそれにごく近い関係であったことが推測される。

市川朝氏については詳細不明ながら定輔-憲輔の和泉守系統とは別の系統も上杉氏家臣として存在していたことを示す。[史料1]には別系統として市川大和守房宣が記載されており、片桐氏は和泉守系、伊賀守系と大和守系の3系統を想定している。ただ伊賀守朝氏と大和守房宣の所見は比較的離れており、房宣が朝氏の後継である可能性も想定されよう。また、「朝」、「定」、「憲」、「房」などは上杉氏からの偏諱と推測される。


ここまで市川憲輔を中心に越後市川氏について検討した。越後市川氏は永正の政変後姿を消すが、主に上杉房定の治世において大きな影響力を持ったと想定される。片桐氏は次のように言う、「越後の守護である上杉房定が、ここまで信濃北部の動向に執着し、積極的に介入する姿勢をみせていたのはなぜであろうか。それは越後守護上杉氏の基盤が、すでに中世前期から信濃越後両国にまたがる市川氏、中野氏、高梨氏、大熊氏などの領主たちが培ってきた基盤のもとに成立していたからではなかろうか。そして、とりわけ当時上杉家の有力な年寄として存在した市川氏の意向が反映したからではなかろうか。」。越後上杉氏、越後長尾氏を考える上で、非常に示唆に富む指摘といえよう。


*1) 片桐昭彦氏「越後守護上杉家と年寄の領主的展開」『新潟史学』63号
*2)片桐昭彦氏「十六世紀における上杉氏の分国支配体制と黒印状」『室町戦国近世初期の上杉氏史料の帰納的研究』
*3) 齋藤文書『新潟県史研究』19号、『新潟県史』資料編中世補遣一4450号
*4)『新潟県史』資料編5、2373号
*5) 同上、資料編4、1317号
*6) 森田真一氏「戦国期の越後守護所」『上杉謙信』高志書院
*7)『越佐史料』三巻、498頁
*8)同上、241頁
*9)同上、242頁


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