鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

毛利北条氏の系譜

2021-04-17 18:15:26 | 毛利氏
大江姓越後毛利北条氏は越後国刈羽郡佐橋庄北条を中心に発展した一族である。戦国期には北条高広や景広が顕著な活動を見せる。今回は、同氏の系譜関係を中心に整理してみたい。

北条氏は大江広元の孫にあたる毛利経光の子基親の系統である。基親の子は時元である。ここでは時元から数代を経て、戦国期を迎えた頃の当主である北条広栄から具体的に検討していきたい。


1>広栄
広栄は康正3年に前年火事で書類を紛失した専称寺へ北条広栄が改めて安堵している文書に所見される(*1)。

この文書には「広称院」「其阿弥陀仏」の話題が出てくるが、これは『専称寺過去帳』(以下『過去帳』)に依れば北条氏7代当主「重広」のことである。

重広と広栄の関係であるが、丸島和洋氏(*2)は通字「広」が上に来ることから庶子、もしくは庶流からの入嗣の可能性を想定する。


2>輔広
大永3年北条輔広書状(*3)に自らの前々代が「広称院」=重広であると記されているから、『過去帳』にも記載のある通り、重広-広栄-輔広、という系譜が確認できる。

広栄-輔広について、丸島氏は両者の活動時期が離れていることなどから父子関係を疑問視する。

その上で延徳3年成立『上杉房定一門・被官交名』(*4)に上杉氏有力被官として「毛利左近将監大江定広 善根」が見え、後に輔広も左近将監を名乗ることや、そこに並んで「毛利弥五郎大江輔広 北条」と記載される点から、輔広は善根毛利氏である定広の実子で北条氏へ入嗣した存在と捉える。そして、専称寺『当寺旧記本山書上控』にある北条高広の父を「大沢殿」とする記録も、大沢が善根近辺に位置することを考えると上記の推測を支持するものとする。

北条輔広の活動期間は長く、その所見の下限は天文3年1月(*5)である。輔広は仮名弥五郎の後、永正5年には左近大夫として見え(*6)、享禄2年越後修連判軍陣壁書写(*7)には「毛利安芸入道祖栄」とある。晩年には受領名安芸守を名乗ると共に入道し祖栄を名乗ったとわかる。


3>北条丹後守と毛利広春
輔広と同時期には毛利広春の活動が見られる。広春は従来『毛利安田系図』に「広春」と名前があることから毛利安田氏当主に見られ、さらに仮名が「五郎」であること、関連文書に現れる家臣団の姓が北条家中と共通であることなどから毛利北条氏の当主も兼任していたとされてきた。

しかし、丸島氏は安田氏として永正前期には毛利弥九郎/新左衛門尉が、その次代であろう景元が幼名「百」として永正12年に初見されることから広春の毛利安田氏当主説を否定する。

さらに、毛利北条氏にしても輔広の活動が明らかであることなどから毛利北条氏当主説を否定し、広春は毛利安田氏庶流から奉行人に抜擢された人物であるとみている。


また、年不詳長尾為景宛長尾顕景文書中(*8)の「毛利丹後守方死去之由承候」という部分は、黒田基樹氏により毛利丹後守=広春と比定され、『過去帳』における広春の没年=大永4年の文書とされてきた。これについて丸島氏は当該文書中に登場する長尾景誠の没年(*9)が、毛利広春寄進状(*10)の発給された享禄2年4月以前であることから、整合性を欠くことを指摘した。この広春寄進状は「五郎」の仮名で見え、この点も「丹後守」と矛盾する。

つまり、『過去帳』における広春の没年は誤りであり、さらに毛利丹後守と広春は別人であることが明らかにされたのである。


同氏は、この丹後守こそ輔広の次代であると推測している。対外的にも認知され、『過去帳』の記載「広春」が丹後守との混同であることを考えると、北条丹後守が輔広から家督を譲られていた可能性は高い。

また、広春の没年は、広春後室が広春の黒印を用いて文書(*11)を発給している享禄3年3月までのことと推測されている。


4>高広とその息子景広、勝広、高広
同年8月には北条高広が石井八幡宮に「如前々、八千苅之知行」を認めているから(*12)、この頃代替わりが行われたと見られる。

輔広と高広の関係は、弘治4年北条高広寄進状(*13)に「祖父左近大夫輔広」と記されることから明らかになる。天文23年北条高広寄進状(*14)には「祖父安芸守覚阿弥」とあるから、左近大夫輔広=安芸入道祖栄であることが確実である。


また、丸島氏は享禄2年軍陣壁書写(*7)において、輔広=祖栄の手前に署名のある「毛利松若丸」について北条高広の前身であることを指摘している。通説では『毛利安田系図』に安田景元の長男「景広」が「松若丸」とされることからこの人物とされていたが、同氏は景元存命中に幼い息子が署名することに違和感を覚えている。確かに、安田景元は永正12年に幼名「百」(*15)、天文2年に仮名「弥八郎」(*16)で見えるから、享禄2年時に署名できる程の息子が存在したこと自体疑わしい。「安田景広」という人物もその後文書に見えない。

輔広から既に家督を相続していた丹後守が大永年間に死去してしまったため、高齢の先代輔広と幼年当主松若丸=高広の二人が署名する事態になったのだろうか。


高広は、天文19年6月諏訪神社棟札写には「毛利丹後守高広」と見られる(*17)。一方、同年8月八幡宮棟札写(*18)に「北条弥五郎大江高広」と記される。どちらも写しであり、仮名と受領名が前後することからその名乗りは当時のものではないだろう。ただ、高広が弥五郎を名乗った可能性を示す。『専称寺過去帳』も高広の仮名を弥五郎としている。

天文23年9月の寄進状(*19)以降、安芸守入道芳林を名乗るまで受領名丹後守で見える。


高広の嫡男景広は永禄6年に「弥五郎」として初見される(*20)。文書上で度々二人は「父子」と表現されているから、その関係は明らかである。

永禄9年における北条高広の上杉氏からの離反に際して、景広は従わず上杉氏に残っている。栗原修氏(*21)は偏諱「景」から謙信と景広の強固な主従関係を想定し、それが景広への家督交代に繋がると指摘する。天正2年10月に専念寺へ景広が執達状(*22)を発給しており、これが代替わり証文と捉えられる。

天正2年3月北条高広書状(*23)が北条高広の「丹後守」としての確実な終見である。栗原氏は天正2年5月の上杉謙信書状(*24)中にある「丹後守父子」を丹後守高広の終見とするが、天正6年2月上杉謙信書状(*25)に「北条丹後守父子」と丹後守=景広の時点でもこのような表現がされる場合はあり、確実とは言えないと感じる。

同年11月上杉謙信書状(*26)において高広が「安芸守」、景広が「丹後守」として初見される。

さらに、上杉謙信死去の直後である天正6年3月から高広は「安芸入道芳林」として所見され(*27)、以後終見まで変わらない。

そして、景広は謙信死後に勃発した御館の乱において天正7年2月1日の府内周辺の合戦にて戦死した(*28)。そして、高広=芳林は上杉氏を離反し、小田原北条氏と共に上越国境で御館の乱を戦うも、天正7年8月に甲斐武田氏に服属する(*29)。天正10年6月武田氏滅亡後は織田氏の支配下となり、同年6月織田氏滅亡後は上杉氏に協力を求めて小田原北条氏に抵抗した。


栗原氏は景広戦死後、天正10年北条芳林寄進状に「高広・勝広父子武運長久」と見える北条勝広が高広=芳林の嫡子に繰り上がったとする(*30)。その実名は服属先の甲斐武田勝頼からの偏諱とされる。さらに同氏は『石川忠総留書』の記載と「丹後守」と署名残る天正11年6月知行宛行状写(*31)から勝広が受領名丹後守を名乗ったことを明らかにしている。


しかし、同知行宛行状の翌7月には高広=芳林と並んで北条弥五郎が初見され(*32)、この弥五郎は実名「高広」であることが文書上明らかである(*33)。栗原氏は、6月から7月の間に勝広が廃嫡され『石川忠総留書』に見える勝広の弟「千連」が元服して弥五郎高広を名乗った可能性が強いとしている。天正11年は一年を通じて小田原北条氏の攻勢の強まっている時期であり、同年9月に厩橋城を明け渡すに至る。廃嫡が7月頃だとすると、勝広の戦死、或いは小田原北条氏への内通による廃嫡などが考えられようか。

その後、弥五郎高広は天正12年8月厩橋八幡宮へ代替わりに伴う安堵状(*34)を発給しており、厩橋城開城による大胡城への退去を契機に家督を相続したと推測されている。この書状中に「老父如判形拙者も証文進置候」とあり、同様の内容を持つ元亀2年北条高広安堵状(*35)と対応したものであるとわかる。つまり、芳林=高広と弥五郎高広が父子であることが確実となる。

その終見は天正15年7月北条高広安堵状(*36)であり、天正18年の小田原北条氏の滅亡と共に没落したと思われる。


米沢藩にも北条氏の名前が見えるが、これは北条氏一族「北条長門」の系統であると『先祖由緒帳』に記されている。


重広以降の北条氏の系譜は次の通りである。
重広-広栄=輔広/入道祖栄(弥五郎/左近大夫/安芸守)-(丹後守)
-高広/入道芳林(弥五郎/丹後守/安芸守)-景広(弥五郎/丹後守)
                                          -勝広(丹後守)
                                          -千連/高広(弥五郎)




*1)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編4、2293、2294号
*3) 同上、2298号
*4)「正智院文書」、(*1)に掲載
*5) 『新潟県史』資料編4、1461号
*6)同上、2296号
*7) 『新潟県史』資料編3、269号
*8)同上、95号
*9)黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『増補改訂戦国大名と外様国衆』)、同氏『長尾景春』に依れば、長尾景誠の没年は『双林寺伝記』では享禄元年とされ、『長林寺本長尾系図』に享禄2年1月24日とあるという。どちらの説にせよ、毛利広春寄進状が発給される以前のことである。
*10)『新潟県史』資料編4、2299号
*11)『新潟県史』資料編3、546~549号
*12) 『新潟県史』資料編4、2257
*13) 同上、2305号
*14) 同上、2303号
*15) 同上、1563号
*16)同上、1556号
*17) 『越佐史料』4巻、28頁
*18) 『新潟県史』資料編4、2280号
*19) 同上、2303号
*20) 『新潟県史』資料編5、3405号
*21) 「厩橋北条氏の族縁関係」「厩橋北条氏の家督交代をめぐって」「厩橋北条氏の存在形態」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)
*22)『新潟県史』資料編4、2310号
*23)『新潟県史』資料編5、3773号
*24)『群馬県史』2793号
*25)『新潟県史』資料編5、3573号
*26)同上、3959号
*27)『越佐史料』五巻、549頁
*28) 同上、639、641頁
*29) 黒田基樹氏「天正期の甲相関係」(『戦国大名と外様国衆』増補改訂、戒光祥出版)
*30) 『上越市史』別編2、2286号
*31) 『群馬県史』資料編7、3255号
*32)『新潟県史』資料編5、4108号
*33)同上、3809号
*34) 『群馬県史』資料編7、3313号
*35)同上、2637号
*36) 同上、3479号


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