山吉景盛の史料類について紹介し、いくつか検討してみたい。
[史料1]『新潟県史』資料編3、535号
(端裏ウハ書)「 山吉孫右衛門尉
和田山殿 御報 景盛」
御札具披見候、仍持地庵分配当之由承候、努々不存候、就中、御合宿中未配当不届之由候哉、何方ニも闕所候者、当人相当之義、被御覧合、可被仰越候、可申届候、随而下条入道方知行分事、承旨候キ、其分可被成配当之由、御返事事候キ、丹波守一札をも進候て、可然義候者、蒙仰可申届候、恐々謹言、
十二月廿五日 景盛
[史料1]は年次不詳の文書である。『長岡市史』は享禄初年と比定している。山吉政久が丹波守として見えるから、大永期以降であることは確実である。持地庵の所領の分配について和田山氏から異議が寄せられたため、景盛が所領の分配を調整している。「丹波守一札をも進候」より、山吉政久の対応もあったとわかる。山吉氏の郡司としての役割であろうか。
[史料2]『三条市史』資料編2、144号
於御神前、十七日間抽家一祈巻数頂戴願望候、勝者大槻正之内千苅令寄進状如件、
天文十一年三月廿一日 景盛
[史料3]『三条市史』資料編2、162号
御社領役陳文之事、任詫言令宥免之、弥以可被抽惑祈事、可為肝秀者也、
天文廿四日
正月廿一日 景盛
堀切
八幡
[史料2]は景盛が三条八幡宮へ宛てた寄進状の写である。大槻荘の内千苅を寄進する、という内容である。
[史料3]も景盛が三条八幡宮へ宛てた安堵状の写しである。『三条市史』は語句に問題ありとするが、写しであることを考慮すると許容できる範囲ではないか。
『三条山吉家伝記写』によれば、三条八幡宮は山吉氏が「三条城二之丸」に建立したものであるという。
景盛発給文書は[史料1]から[史料3]、大永7年只見次郎左衛門尉宛山吉景盛書状(*1)、天文21年山吉政応等連署禁制(*2)の五通が残る。
続いて、『三条同名同心家風給分御帳』(以下『給分帳』)から景盛の所領を考えてみたい(*3)。
『給分帳』が記される天正5年時点で景盛が生存していたとは考えにくいが、「山吉孫右衛門尉」という名がみられる。孫右衛門尉は、名乗りは景盛に通じ、記載順も山吉玄蕃の次であり、その所領高も大きいことから一族中でも有力者と考えられ景盛の後継者である可能性が想定できる。ここでは、景盛の所領を推測するため孫右衛門尉の記載内容を検討する。
『給分帳』で孫右衛門尉の所領として、
福嶋村 現 新潟市西蒲区福島
灰潟村 現 燕市灰方
はり山 不明
筒井 不明
曲通 現 新潟市南区上曲通/下曲通
高木 現 燕市高木
こうや 現 三条市興野
が挙げられている。孫右衛門尉は全て合せて(本符見出し共に、以下も同じく)101貫700文という知行高である。これは『給分帳』の中で仁科孫太郎の138貫700文に次ぐ大きさである。また、孫右衛門尉は「当不作」として13,090苅があり、「当不作」を含めて考えると『給分帳』中最大級の規模となる。特に山吉氏一族と比べると山吉玄蕃允が42貫920文、掃部助が16貫569文、右衛門尉が12貫文、源衛門尉が53貫文、四郎右衛門尉が17貫文、兵部少輔が12貫530文とその差は歴然である。景盛と天正期孫右衛門尉の関係についての仮定を踏まえてではあるが、景盛が有力一門として大きな基盤を保持していたことが推測できる。
『上杉御年譜』においても景盛が登場する。天文12年に景虎が黒田和泉守、長尾平六と合戦に及ぶという内容が伝えられておりその中で、景虎が味方として招集したとされる武将として「中郡ニハ山吉丹波守、山吉孫右衛門、平子孫太郎、斉藤八郎、安田治部少輔、菅名神五郎、松本石見守、水原伊勢守、小中大蔵、和田山三郎等」が挙げられている。『上杉御年譜』における天文期の所伝は信頼に欠く部分が多く、黒田和泉守の反乱もこの年にあったとは思えないが、「山吉丹波守」が山吉政久、「山吉孫右衛門」が景盛を示していることは明らかである。山吉氏として政久と景盛が並んで記されているのも、景盛の影響力を示唆していよう。
以上が景盛の活動に関する史料的な徴証である。史料集などにおいて「山吉氏の一族。」といった簡潔な説明がなされる場合の多い景盛であるが、その存在は山吉氏の領主支配を支えるものであった。府内長尾氏の有力被官である山吉氏の一門である景盛が、府内長尾氏にとっても見過ごせない存在であったことはその実名が示している。戦国期において、領主一族の活動を史料で確認できる例はそう多くなく、景盛はその好例であるといえるだろう。
*1)『新潟県史』資料編3、525号
*2)『新潟県史』資料編5、2678号
*3)金子達氏・米田恒雄氏「「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳」の紹介」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)において、現在所蔵されるものが作成されたのは戦国末期から江戸初期であるが内容は天正期と考えられる、とされる。『給分帳』の表紙には天正5年とある。『給分帳』「同名同心家風」の記載中に後の景長である山吉玄蕃が記されていることは景長の山吉氏継承以前の内容を記していると考えられ、表紙に従い原本は天正5年の成立と考える。
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