癒しなる私のブログ~そして、ここから~

英語習得目指して、これまで歩んできたけれども、新しいことに挑戦したいと思う、ほんのりなひとときです。

朝になりました

2015-04-28 05:19:15 | 我が家

とうとう、朝になりました。

眠れない夜でしたが、少し横になっていたので大丈夫です。

昨夜、20時に叔母さん、叔父さんが病院に来てくれて助かりました。

長男が郡山から来たのは、20時半近くでした。

21時前に私の父と母が白河から来てくれました。

22時過ぎに叔母さんと叔父さんに家に帰宅してと、別れました。

28日0時過ぎに、父と母、長男が我が家に帰宅させて、

私と次男が病院に残り、ICU治療にて、1時半にタクシーで帰宅しました。

20時頃、医師による説明がされて、夫は心臓カテーテル検査がされまして、

22時半に医師による詳しい治療経過の話を聞きました。

夫は意識なし、心筋梗塞と診断されましたが、

人口呼吸器で状態は明るい方にすすみました。

低体温治療で、ゆっくりと34℃にすると言われて、一つの峠は越えました。

面会時間が昼間の15時と聞き、私と次男はそれに合わせて病院に行きます。

今まで、夫は、決して体調の話はなかったので

本当に驚き、ショックでした。

夫が生きることを切に祈っているわが家族です。

 

 

 

 


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愛しい夫が倒れました

2015-04-28 05:03:57 | 我が家

昨夜19時に夫がトイレで倒れました。
すぐ息子が119番、すぐ救急車でいわき市内の救急救命センターにて
治療中ICUです。
倒れた時は心臓停止状態ですぐ人口呼吸、
機器による心臓処置を繰り返しながら
病院に運ばれて、一山越えて深夜1時半に帰宅。
まだまだ状態は意識なしで
人口呼吸で治療、低体温療法で
ゆっくり体温34℃まで下げて集中治療中です。
突然で、ベッドに横になりながらいます。
長い入院となりますが、
どうか、仏様、神様、助けてください。

 

 

 

 


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避難後の生活

2015-04-19 16:35:21 | 故郷おおくま

3月、避難先体育館生活は、布団支給が老人優先されるばかりで

若い家族には、毛布一枚で、ちょうどバスで避難する前に

自宅から持ってきた寝袋をシーツにして、下に段ボール敷きな生活は

寒さばかりで、息子は熱を出したりしながらも、支給にならず

近くの病院に歩いて通院したりしていました。

体育館一日いても辛いので、三春町内に出かけたりしていました。

3月末に二次避難先が会津方面になると役場職員より聞き、

4月2日に喜多方市の熱塩温泉の旅館に、うちの家族は決まり、バスで移動しました。

子供連れの家族は、会津若松市内、東山温泉地、有名なホテルになりました。

老人は裏磐梯等の住みやすい温泉施設でした。

バスで移動する前の日に貰った布団類に名前書いて、大型バス1台に積み

一緒に出たのですが、その布団類はどこに運ばれたかはわかりませんでした。

後に、会津若松市におかれた役場の倉庫にあるとか、仮設住宅に使われたとか、

疑問ばかりでした。

夫が東電第二で仕事していたので、私と息子二人で旅館生活を5月末まで過ごしました。

旅館の初日の夜は、布団がこんなにふかふかで温かくて安心しました。

食事も豊富に作ってくれて、毎日が美味しかったです。

旅館の女将さんら家族は、とても親切で温かい人たちでした。

4月から5月までの生活は、女将さんが車を出してくれて、

衣類などの買い物に協力してくれて、嬉しかったです。

一緒に来た他の家族たちとは、同じ大熊なのに初めて会う人たちでした。

初めは人見知りもしましたが、話すうちにいろいろと話せて

笑いもあり、旅館へのお礼として、食後の食器下げは皆で協力しました。

このころ、役場職員や保健師さんらが来てくれたりと現状と健康相談が始まりました。

喜多方は、ラーメンが有名で食べに行ったりもしました。

大きなショッピングセンターもあり、出かけたりもしました。

熱塩温泉から喜多方市中心までは、10km離れています。

路線バスに乗って病院通院をして薬を貰い飲んでいました。

病院は、大きな精神科でもあり、デイケアのスタッフさんにはお世話になりました。

喜多方の人々は、本当に親切で、温泉なので、何回も入浴できてとてもよかったです。

夫が、5月中旬に、いわきにアパートを見つけたので、

時々、高速バスで、3人でいわきに行き、夫と過ごす日もありました。

それで、離れ離れな生活と別れて、夫が迎えにきてくれて、5月31日に喜多方を離れました。

旅館の方々の熱い見送りと、2か月間お世話になったことを今も感謝しています。

家族全員で過ごすのは3か月ぶりでした。

 

 

 

 

 


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2011.3.12~3.31の避難生活記録

2015-04-18 01:47:14 | 故郷おおくま

2011.3.12・・・避難して体育館に避難して、現地では、15時半頃、第一原発の爆発があったと知り、

驚きと避難後で離れていてよかったと思いました。

13日の朝、無料の新聞を読み、危機的な事や各地の津波被害犠牲者を知りました。

岩手、宮城、福島の津波の高さには恐怖を感じました。

13日午前、東電による食べ物物資がどんどん運ばれてきて、

おにぎりが2個ずつ配られ、カップ麺、三春の有名な菓子ゆべしが配られる。

避難者で、役割分担で協力して、物資仕訳と当番などが決められて過ごしていました。

することがないので、座っては寝たりとして、

衣類等の物資も配られ、皆夢中で選び取るという感じでした。

中古の衣類もその町の好意で貰いました。

2、3日で帰れると当時は思っていましたが、

長期になりました。続いて、2号機、3号機、4号機の爆発が起きていたからです。

体育館内玄関口には、ブルーシートで囲まれており、

外出するときはマスクが義務付けられました。

おかしいなあと思ったのは、やはり原発事故飛散防止だったのです。

だから、いつもマスクはつけていたほうです。

3月25日に別のところ、三春町桜中学校体育館に移動になりました。

洗濯は、コインランドリの方が車で迎えにきてくれて、

順番に乗せてもらい、洗濯に毎日通いました。

避難時に財布にお金がなくて、近くに住む親戚にお金借りたり、

姉が銀行へ振り込んでくれたので、何とか過ごせました。

そのころになると、物資仕訳、配り、自分らで料理当番、トイレ掃除などを役割分担でまかなうようになりました。

高齢者には、寄付された畳が支給になり、若い人は毛布の追加でしたが、

小雪が降る天気に、寒くて夜は眠れない日が続きました。

そして、余震は毎日頻繁にあり、恐怖を感じました。

隣の家族と一緒だったので、わが家族は車がなくて、

町内のお風呂やさんにその家族の車に乗せてもらい、さっぱりしました。

初めてお風呂に入ったのは、1週間目でしたから、本当にありがたく心が休まりました。

12日の時に、役場関係者から名簿を作るので、家族の全員の名前を書いていました。

3.21、夫は第二原発の仕事に行き、別れて住む日が続きました。

三春町は景色がよくて、歩いていける温泉施設もあり、毎日通いました。

物資は、いろいろ配布された中、何と下着が盗まれました。

袋に入れていた新品全部です。

酷い人もいるとショックでしたね。

この期間中、医師や看護師、保健師さんらが来て、健康面や心理的なことに診て廻ってくれました。

私は、精神薬を切らし、近くの病院に行き、似たような薬を出してもらい飲んでいました。

息子は風邪ひいて、高熱で、歩いて行ける三春町立病院に数回通うこともありました。

私の家族は、息子2人、夫と4人家族。

料理は自分らで作り食べていたので、とても美味しかったですね。

私は食べた後の食器洗いの当番、息子は物資配り・・・避難者共同生活は円満でした。

通帳は持ち出していなくても、近くにある銀行で、身分証明書と母印で引き出せるようになりましたが、

近くの銀行は10km離れており、タクシーで息子が往復したりしていました。

 

 

 

 


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東日本大震災と原発事故

2015-04-17 01:39:56 | 故郷おおくま

思い出すことはあの日。
2011.3.11・携帯電話のブサーから始まりました。
その時、奥の部屋で録画したBlu-rayコピーしていました。
すぐに地震揺れに廊下を走り、神棚の榊が落ちたので外へ出ようとしました。
揺れが斜めになるので、靴が履けなくて
靴下のまま門口に走り逃げました。
揺れは大きすぎて、私は一人でしたから
前の道路工事の方に近づきました。
工事の方達と地震揺れ治るのを待ち、
その時工事担当者が携帯で津波6メートルと。
驚きました。
やがて息子が町内の会社から車で帰宅、
余震は大きいし、一旦、車の中で。
役場方面に2人で車でゆっくり向かいました。
途中、道は凸凹でした。
役場に行ってもほぼ人がいない。
仕方なく、自宅に戻り車の中で過ごしました
ペットたちも不安そうな顔でしたので
餌をやり、とても家の中はゴチャゴチャ。
車で待つうちに17時になり夫が帰宅、
あちこちで酷い事になっていると。
寒い夜、車で過ごすことに。
夜中2時頃、長男がようやく車で帰宅。
楢葉の高台に避難していたと。
海から海の波が引いたり、向かってきたのを
見たと興奮していました。
朝まで車の中、寒くて余震もあるから
眠れなかったですね。
車のラジオで津波警報を知り、
東北の被害、犠牲者が多数、大多数と聞き
朝まで耐えました。
食べ物はお菓子しかなくて、小さくして
食べました。
そして、翌朝、地区集会所に行き
30人くらいの方といました。
何故か、マスクを渡されつけてと。
待っても指示がない中、
10時頃、バスで避難するから
車は混雑するから
バスにと言われ、役場裏の体育館に13時頃まで
待ち、ようやく13時半のバスに乗りました。
家族四人で同じバスに乗れて良かった。
288号線を山に進み西へと走り、
田村市に向うと聞き、渋滞で18時過ぎに
田村高校体育館に到着しました。
途中、あちこちに廻りながら
人がいっぱいで避難先が定まらない中
ようやくその場所で過ごすことになりました。
ダンボールと毛布一枚渡され寝ることに。
善意ある地域の方々が、作ってくれた、
たった一つの潮おにぎりは
温かくてとても美味しかったですね。
二三日で帰れると思っていたのです。
寒い夜、着の身着のままの姿で
ジャンバーを首までチャックして我慢でした。
12日の出来事でした。

 

 

 


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今日は英会話レッスンです

2015-04-15 05:58:16 | いわき市にて

朝になりました。夜中目が覚め起きていました。

今朝も弱い雨降りです。

今日は、英会話イーオンレッスンに出かけてきます。

昨年の9月から通っています。

何とか、レッスンでは慣れてはきましたが、まだまだです。

英語で教師が何を話しているのかは理解できるようになりました。

応用的な会話はまだまだ勉強不足です。

2年は通いたいと思いますが、きっと継続していけそうです。

もともと、生活がダラダラしていたので

ちょうどよいサイクルでもあります。

予習のテキストのほか、先週過ごしたことを英語で辞書ひきながら

ノートに記入しています。

英会話は聴くことが大切で、さらに話してみることも大事です。

大変ですが、続いています。

10時には出かけて、駅前のラトブで珈琲を飲んだりしながら予習したりしています。

天気回復は明日からのようで、今日はやはり雨でしょうか。

身に着く英会話を目標としています。

 

 


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人々の住みやすい環境とは

2015-04-15 02:34:53 | 故郷おおくま

夜中目が覚めてしまいました。

眠ろうとしても眠れないので起きています。

外はまだ雨降りです。

明日は晴れるようですが・・・

震災から4年1か月過ぎました。

廃炉30年以上といわれる中、全く進まない廃炉への道です。

いわきの地に移住していますが、

住民票は大熊町のままです。

賠償問題が絡み、今後どうなるのかわからないので

そのままで、行政サービスを受けています。

全国に散った住民たち、特に県外避難する人々は情報が乏しく感じられます。

いわきにも役場出張所がありますが、会津若松にある役場は

帰還しない人、帰還したい人に分けて考えています。

でも、大川原地区への帰還復興施設建設に注目して

そちらばかりにお金をかけようとしているようにも感じます。

第二次復興計画・・・帰還しない人々には関係がありません。

老人らが町といれば安心だという住民もいます。

役場機能をいわきに中心に移すという案は、今の時点では不可で

会津若松中心になっているようです。

幼稚園、学校は会津若松で続けているのですから。

高校はいわき市内、広野のふたば未来学園開校ということで、

来年以降、子供を持つ家族は、いわきへと来るかもしれません。

人口では、いわき市 4600人、会津若松 1900人

浜通りの自然環境は、雪の多い地域よりも住みやすくているので

いわき市に移住したいという人はまだいると思われます。

 

 

 
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原発事故による病院閉鎖

2015-04-14 18:53:49 | クリニック

震災前に入院・通院中だった南相馬市の小高赤坂病院・・・

東電の賠償打ち切りで、医師や看護師を今年3月末で解雇したと記事を読みました。

病院は閉鎖されました。

こんなことがあっていいのかと思います。

私は、現在いわき市のクリニックに通院しています。

落ち着いていて、夜だけ薬を飲み寝ています。

薬がないと全く眠れません。

2週間に一度の通院をしています。

夕方、当時の院長先生と電話で久しぶりに話しました。

先生は、仙台市に自宅があり住んでいます。

頑張って再開へ力を出していたのに、原発事故で失いました。

私は、先生の幸を願い話しました。

当時、とても親身でアドバイスをくれた先生でした。

今の生活があるのは、本当に小高赤坂病院のおかげです。

医師や看護師さんらは、いつもそばにいてくれて、

励ましてくれました。

その恩返しとして、病院のことを伝えていきたいと思います。

精神科では、ほぼなかった開放病棟で、散歩もノートに記入して

看護師さんに話して、自由に行けました。

南相馬市小高区の川沿いの桜の道は景色がよくて携帯で写真撮りながら

歩き、必ず、小高神社にも寄りました。

病院への往復時間は、1時間・・・

あの道が懐かしい・・・・看護師さんも懐かしい、入院患者とも友達になれて

楽しい時間も、ときには、ちょっとした騒ぎハプニングもありました。

今は、皆、散り散りになってしまいました。

でも、自分を大切にして過ごしていきたいと思います。

 

 

 

 

 
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読んでてくれるかなぁ

2015-04-07 00:07:08 | いわき市にて

久々の復活ですが、

2011年から始めたブログです。

過去の記事を読んでほしいと思います。

あの日々からの想いがたっぷり書かれています。

震災と原発事故ですべては変わってしまいました。

現実を受け入れて生活することが重要です。

定期的にブログを更新していこうとおもいます。

 

 

 
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過去と現在

2015-04-06 23:06:56 | メンタル

久々の更新です。
震災で失ったものは大きいけれど、今の生活があります。
一時立入をする度に故郷は大きな森と化し、畑や田は荒れ地です。
一度きりの除染では、更に積もる見えない汚染。
避難先のいわきは、今年も見事な桜が咲いています。
ここに移住していますが、
こころの落ち着きもまあまあですが、
時々、家族の陽気な話についていけません。
まぁ、いいかと思い別の事に集中です。
たまに身体が微妙に震えてしまいます。
特に眠れない時や、夕方に現れます。
でも昔に比べたらよい方です。
通院は続けています。
震災前の小高赤坂病院入院と通院時は
今思えば、とても懐かしいです。
私はあの病院があったから
今に繋がっていると思います。
懐かしい人々には会えないけれど、
大切なこころのノートです。
同窓会みたいにもう一度会えたらいいなぁ!

 
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