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英語習得目指して、これまで歩んできたけれども、新しいことに挑戦したいと思う、ほんのりなひとときです。

2011.3.12~3.31の避難生活記録

2015-04-18 01:47:14 | 故郷おおくま

2011.3.12・・・避難して体育館に避難して、現地では、15時半頃、第一原発の爆発があったと知り、

驚きと避難後で離れていてよかったと思いました。

13日の朝、無料の新聞を読み、危機的な事や各地の津波被害犠牲者を知りました。

岩手、宮城、福島の津波の高さには恐怖を感じました。

13日午前、東電による食べ物物資がどんどん運ばれてきて、

おにぎりが2個ずつ配られ、カップ麺、三春の有名な菓子ゆべしが配られる。

避難者で、役割分担で協力して、物資仕訳と当番などが決められて過ごしていました。

することがないので、座っては寝たりとして、

衣類等の物資も配られ、皆夢中で選び取るという感じでした。

中古の衣類もその町の好意で貰いました。

2、3日で帰れると当時は思っていましたが、

長期になりました。続いて、2号機、3号機、4号機の爆発が起きていたからです。

体育館内玄関口には、ブルーシートで囲まれており、

外出するときはマスクが義務付けられました。

おかしいなあと思ったのは、やはり原発事故飛散防止だったのです。

だから、いつもマスクはつけていたほうです。

3月25日に別のところ、三春町桜中学校体育館に移動になりました。

洗濯は、コインランドリの方が車で迎えにきてくれて、

順番に乗せてもらい、洗濯に毎日通いました。

避難時に財布にお金がなくて、近くに住む親戚にお金借りたり、

姉が銀行へ振り込んでくれたので、何とか過ごせました。

そのころになると、物資仕訳、配り、自分らで料理当番、トイレ掃除などを役割分担でまかなうようになりました。

高齢者には、寄付された畳が支給になり、若い人は毛布の追加でしたが、

小雪が降る天気に、寒くて夜は眠れない日が続きました。

そして、余震は毎日頻繁にあり、恐怖を感じました。

隣の家族と一緒だったので、わが家族は車がなくて、

町内のお風呂やさんにその家族の車に乗せてもらい、さっぱりしました。

初めてお風呂に入ったのは、1週間目でしたから、本当にありがたく心が休まりました。

12日の時に、役場関係者から名簿を作るので、家族の全員の名前を書いていました。

3.21、夫は第二原発の仕事に行き、別れて住む日が続きました。

三春町は景色がよくて、歩いていける温泉施設もあり、毎日通いました。

物資は、いろいろ配布された中、何と下着が盗まれました。

袋に入れていた新品全部です。

酷い人もいるとショックでしたね。

この期間中、医師や看護師、保健師さんらが来て、健康面や心理的なことに診て廻ってくれました。

私は、精神薬を切らし、近くの病院に行き、似たような薬を出してもらい飲んでいました。

息子は風邪ひいて、高熱で、歩いて行ける三春町立病院に数回通うこともありました。

私の家族は、息子2人、夫と4人家族。

料理は自分らで作り食べていたので、とても美味しかったですね。

私は食べた後の食器洗いの当番、息子は物資配り・・・避難者共同生活は円満でした。

通帳は持ち出していなくても、近くにある銀行で、身分証明書と母印で引き出せるようになりましたが、

近くの銀行は10km離れており、タクシーで息子が往復したりしていました。

 

 

 

 


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