A.源氏物語でちょっと遊ぶ
このところ国学の本居宣長論を追うつもりが、少し脇道に逸れている。
国学を少し知っておく必要があると思ったのは、宣長の時代の官学ともいうべき儒教批判の論点ではなく、幕末から明治維新の動乱期に、水戸学とともに大衆に影響を与えた革命思想として機能したことと、その伝統が西洋追随の近代化の中で、伏在し無視されながら、ときどき無意識の噴出として現れる不思議さにあった。それは21世紀の現代日本にも、無知な庶民の居直りの正当化として悪用されている気がする。幕末に繋がるという点では、平田派神道なのだろうが、宣長が面白いので足踏み状態である。
千年前に書かれた源氏物語が、世界文学にも稀有の長大なラブストーリーであることは、それを書いたのが名も定かでない女性であったことと合わせて、奇跡のような作品であることは、いまさら言うまでもない。ジュンク堂書店という大きな書店に行って「源氏物語」コーナーを探したら、書棚2つぶん(2段ではない!)全部源氏物語関連の書物だった。毛筆かな版まで出ている。かくも偉大な小説は、人々の関心を惹きつけているのだろうが、一方で、原文で全部読んだ人がどのくらいいるのだろうか?
名ばかり有名で実際にその原文を読んだことのない書物は多い。ぼくも高校時代に、古文の授業で「源氏物語」の出だし「いずれの御オン時にか、女御更衣あまたさぶらいたまいける中に、いとやんごとなききわにはあらぬが・・云々」という一節を暗記せよという宿題が出て、ひでェ宿題!と思いながら若いから全部暗記した。怖い女性の先生で、次は「枕草子」や「徒然草」も暗記させられた。でも、おかげで今でも憶えていて口に出せる。でも、それだけしか読んでいなかった。実際、原文は読んでも正確な解釈は難しい。そこでちょっとテキスト解読をやってみた。原文と、現代語訳の古典、谷崎潤一郎訳と比較的最近の瀬戸内寂聴版、それに光源氏の一人称でこってり書き込んだ橋本治の「窯変源氏物語」から抜粋してみた。
*紫式部 『源氏物語』ニ 明石 原文(山岸徳平校注) 岩波文庫 p.87-88
〔源氏は〕うちやすらひ、〔娘に〕なにかとのたまふにも、「〔源に〕かうまでは、〔近く〕見えたてまつらじ」と、〔娘は〕ふかう思ふに、〔源の接近が〕ものなげかしうて、〔源に〕うち解けぬうち解けぬ心ざまを、「こよなうも、〔娘は〕人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、〔男が〕いかばかり言い寄りぬれば、心強うしもあらず、〔私は〕ならひたりしを、いと、〔私が〕かくやつれたるに、〔娘は私を〕あなづらはしきにや」と、〔源は〕ねたう、さまざまに思し悩めり。「情なうおしたたむも、事のさまに違へり。心くらべに、〔娘に〕負けむこそ、人、悪けれ」など、〔源は〕みだれ、〔娘を〕うらみ給ふさま、げに、物思ひ知らむ人にこそ、見せまほしけれ。〔源に〕ちかき几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも、〔娘が〕けはいしどけなく、うち解けながら、掻きまさぐりけるほど見えて、〔源は〕をかしければ、「この、きゝならしたる琴をさへや〔聞かせ給はぬ〕」
など、よろづにのたまふ。
源 睦言を語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかばさむやと
娘 明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ
ほのかなるけはひ、伊勢の御息所に、いとようおぼえたり。〔娘は〕何心もなう、うちとけて居たりけるを、かう、物おぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司のうちに入りて、〔戸を〕いかで堅めけるにか、いと強きを、〔源は〕しひても、おしたち給はぬさまなり。されど、〔源は〕さのみも、いかでかはあらむ。〔娘は〕人ざま、いとあてにそびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。
*谷崎潤一郎訳『源氏物語』巻ニ 「明石」中公文庫 p.98-99
「しばらくしてから、何やかやと仰せになるのですけれども、こうまで親しくはお目にかかるまいと、深く思い込んでいましたにつけても溜息が出まして、打ち解けぬ様子をしていますので、たいそう人柄らしくしていることよ、もっと身分の高い人でも、これほどまでに言い寄れば、そう強情を張るようなことはないのが例であるのに、今は尾羽打ち枯らしているので、侮っているのであろうかと、くやしくお感じになったりしまして、さまざまにお悩みになります。そう荒々しく振舞って、無理なことをしますのも本意ではありません。そうかといって、意地比べに負けてしまうのは不体裁だしなどと、やきもきなさるおん有様は、全くものの情を知る人に見せてやりたいようなのです。近いあたりにある几帳の紐に触って、箏のことが鳴ったりするけはいもしどけなく、今までここにくつろぎながら慰みに弾いていたらしい様子が偲ばれて、興がありますので、「かねて噂に伺っていましたお琴をさえ」などと、いろいろに仰せになります。
むつごとを語りあはせん人もがな
うき世のゆめもなかばさむやと
明けぬ夜にやがて惑へる心には
いづれを夢とわきてかたらん
物越しの感じは、伊勢の御息所にたいそうよく似通っています。何心もなく打ちとけていましたところへ、こう突然にはいっていらっしゃいましたので、当惑して近くの部屋の中へ逃げ込んで、どう締まりをしたものか固く閉てきってしまいましたので、強いても開けようとはなさらない様子です。ですが、そんな風にばかりは、どうしていつまでしていられましょう。娘は人柄もたいそう上品に、背が高くて、こちらが恥ずかしくなるような姿をしているのでした。
源氏の歌(この浮世の辛い夢が幾分かでもさめるように、私と恋の睦言を語り合ってくれる人がいてほしいものだが)
明石の上の歌(私のように長夜の闇に迷っております心では、いずれを夢、いずれを現(うつつ)と、区別して語りようもございません)「明けぬ夜」は「いつまでたっても明けない夜」で長夜の闇のこと。」
*瀬戸内寂聴 『源氏物語』巻三 講談社文庫 p.135-137
「内に入られた源氏の君が、ためらいがちに、あれこれとお話かけなさいましても、娘はこれほどまで近々と親しくお目にかかりたくはないと深く思い込んでいましたので、ただ悲しくなって、少しも打ちとけようとはしません。その娘のかたくなな心構えを、源氏の君は、
「何とまあ、ひどく上品ぶって気どっていることよ。もっと近づきがたい高貴な身分の人たちでも、ここまで近づいて言い寄れば、気強く拒みきれないのが普通だったのに、自分が今、こんなに零落しているので、侮っているのだろうか」
と、癪に障り、さまざまに思い悩まれるのでした。
「思いやりなく、無理を押し通すのも、今の場合、ふさわしくない行為だ。かといって、このまま根比べに負けてしまっては、体裁の悪い話だ」
などと、思い悩んで、恨みごとをおっしゃる源氏の君の御様子は、全く、物の情のわかる人にこそ見せたいようでした。
女の身近にある几帳の紐に、箏の琴の弦が触れて、かすかな音をたてたのも、無造作な様子でくつろぎながら琴を手なぐさみに弾いていたらしい女の様子が目に見えるようで、興が湧きますので、源氏の君は、
「いつもお噂に聞いているあなたのお琴の音さえ、お聞かせ下さらないのですか」
などと、さまざまに話しかけてごらんになります。
むつごとを語りあはせむ人もがな (二人寝の愛の言葉 語りあう人のほしさよ
憂き世の夢もなかば覚むやと 愁いの多いこの世の 苦しい夢さえなかばに
さめてくれようかと)
と源氏の君が詠みかけられますと、
明けぬ夜にやがてまどへる心には (明けることのない 長夜の闇の中に
いづれを夢とわきて語らむ 迷いつづけている心には
何が夢やらうつつやら 語るすべさえないのです)
と、娘がかすかに返歌を言う様子は、伊勢に下った六条の御息所にたいそうよく似ています。娘はなんの心の支度もなく、くつろいでいたところへ、こうして意外なことが起きてしまったので、困りはてたあげく、近くの部屋の中に逃げ込んで、どう戸締りしたものやら、こちらからはびくとも動きません。源氏の君は、それを御覧になり、無理にも思いを通そうとはなさらない御様子です。けれども、どうしていつまでも、そんな状態でいられましょう。
とうとう部屋に押し入り逢ってみると、この娘の様子は、いかにも気品が高く、背もすらりとしていて、こちらが恥ずかしくなるような奥ゆかしい風情なのでした。」
谷崎の訳(20行)は、原文(18行)の格調と雰囲気を保存しながら、忠実にポイントを押えてあまり余計な解釈はしていない。二つの歌については注釈をつけて親切である。ただ源氏に対しても娘に対しても等距離の三人称で冷静に語る。瀬戸内寂聴の現代語訳(28行)は、男女の恋の駆け引きをより艶めかしく言語化し、それとなく女性の心情に沿う形で書いている。光源氏を見る目は、彼に言い寄られる女君の視線である。歌については、意訳した詩に置き換えている。それぞれ「源氏物語」の同じ場面を描き出しているのだが、ずいぶんと違った印象を与える。今の大学生くらいだと、この和語と敬語の嵐についていくのはかなりきついかもしれない。瀬戸内さんの訳でも、もはや現代語とはいえなくなっているかもしれないが、これ以上崩すと「源氏物語」のエッセンスが失われる、と考える保守主義者には、橋本版「窯変」(74行)は、もはや別の作品に見えるだろう。だいたい18行の原文から74行も書いてしまうのは、のめりこんだ小説家の妄想だが、これはこれで面白い。
B.恋にはマメな光源氏の物のあわれ
宣長の歌論がひたすら主張したのは、「もののあはれをしる」であった。「もの」は風の音や波の音、花の色や鳥の声、花鳥風月を美的に味わう感性であるが、源氏物語の中にミュージカルのように頻出する和歌では、ほとんどが花鳥風月に託して人が人を激しく恋うる歌である。「もの」はたんに「もの」の姿ではなく、「こと」人事や人情の「あはれ」を込めて歌われている。それは宣長的には、苦しく悩ましく辛い心のやむにやまれぬ自己表現であるからこそ、それを読む「ひと」他者に訴える力をもつ。紫式部の想像力は、このすべての歌を詠み出す力に賭けて長大な物語を書き継ぐことができた。橋本治は、それを光源氏という女たらしの貴公子の視点に乗り移って、一人称で偏執的に語り直している。
*橋本治 『窯変 源氏物語』4 中公文庫 p.255-260
「娘は驚いていただけなのかもしれない。私が何を言っても答えようとはしなかった。
常套の恋の言葉を、それでも私が躊躇いながら口にしたのは、逃げ場を持たない娘のあり様を哀れんでのことなのだろう。この地に、この娘に似つかわしい男は、私しかいない。
都の然るべき女ならば、通ってくる男はいくらでもいるだろう。しかしこの地に、この娘に通うことの出来る男は私しかいない。一人の男を避けるのに別の男をもってするということが、この娘には出来ない。ただ一人の男とただ一人の女が、なるべくしてなるだけの途を如何に順当に踏み出すか、それしか方策は用意されてはいなかった。
「やっとお側に辿り着くことが出来ました、あなたの面影を慕って、私は苦しい思いばかりしていたのですよ」
恋の常套句を、女の前に敷きつめる。後のない場所から歩み出す為の筵道のように。
しかし女は見向きもしない。黙って身を固くしている。一言も言葉を返さない。
「会えば不幸になる」――そのことを承知して私の前に現れることを拒んでいた女の胸の内は分かる。しかし、私はもう姿を現わしてしまったのだ。
何を言っても女は答えない。逃げ場のない断崖に立たされた筈の女が、強固な城壁を後ろに控えた者のように私を拒む。胸の扉を鎖したまま、私の言葉の一切を撥ねつける。
押し黙る恋に射掛ける言葉の矢数も尽きて、私の中では焦燥の炎が怒りの色を見せて燃え上がって来る。
これだけ私に言い掛けられて、この私に心を宥さなかった女は、都には一人しかいない。
「その人と同じ身分の女だと己を思うか?」
そう思えば、私の胸の中には憎悪の炎さえ湧き上がって来る。
私が都を退いたことを、私が都を追われた男と侮って、斯くも無礼なあしらいをするのかと、余分な斟酌も添うて来る。
恋ではない、父の手引きによってなされた正式の婚姻にも等しい夜だと思えば、押して几帳の内には踏み込めない。しかしかといって、心比べの睨み合いに私が負けたなどという噂が立つことは許せない。守りの陣を布いた女の意思の陣幕が、それほど強固なものだったとは思ってもみなかった。
私が動き、几帳を立てた女も動く。ただ袖ばかりの動きにつれて、几帳の紐もあえかに揺れた。その紐が、几帳の内にある女の箏の琴に触れたのだ。箏の琴が女の前にあったことが分かった。何も知らず、ただつれづれのままに、宵の内、この女は琴を掻き鳴らしていたのだろう。
「噂に高いこの琴を、聴かせていただくことさえも出来ないのですね?」
琴は鳴らず袖も鳴らず、女の口からも言葉は出ない。
「睦言を語り明かさん人もあれ
憂世の夢は半ば消えなん」
私がそう言えば、詠みかけられた歌を返せずにいる恥辱が、女の口を開かせた。
「明けぬ夜に更にも迷う心には
いずれを夢と分かち語らん」
「あなたとならば、憂世の見せる悪い夢も、半ばは醒めるだろう」――それが私のぎりぎり正直な譲歩だった。それに対して女は言う。「あなたと語ることは、私の長い夢の末に訪れた現実なのか、それともあなたが消してしまいたいという悪夢の内なのか、そんなことは分からないではありませんか」と。
それはそれとして、やっと口を開いた女のその口吻は、彼の伊勢に下った六条の御息所のそれと瓜二つと言いたいほどによく似ていた。
「これは・・・」と思う。拒むでもなく拒まぬでもなく、「すべてはあなたのつれなさから出たことではありませぬか」と、嫋々とした愁いをこめて男の方に押し返す――その詠み振りも含めて、この女は彼の御息所に酷似しているのだ。とんだところに優れた洗練の極致を見ると私が思った途端、自分の口にした言葉の重さに堪えかねた女は、その場を立って逃げ出した。
伊勢の人ではない。
伊勢の人なら、こんな逃げ出し方はしない。そのまま男を迎え入れて、慕い寄った男の胸の内に直接恨みの言葉を投げ入れる。その違いの目覚しさに、私は改めてその女への関心をそそられた。
逃げ出した女は、寝殿の奥の小部屋に駆け込んだ。
「これ、どうなさった?ここをお開けなさい」
そう言って戸を叩いても、中からの応答はない。どう閉て切った(たてきった)のか、押しても引いてもその曹司の戸は開かない。一人の押し問答。
しかし、いつまでもそんなままにしておく訳にはいかない。ともかく女は答えたのだ。
歌の中で「私にはわからない」と、そう言って、その口にした自分の本音に堪えかねて、逃げ出したのだ。それならば、私のすることは一つしかない。
「どちらだか分からないのなら、それを分かる為の手掛かりを私の方から差し上げましょう」 ただそれだけしかない。
言葉で騙す訳にはいかない。言葉は人を惑わせる。恋の言葉は尚更特に。
「分かるべき手掛かりを、この私から直接あなたに差し上げましょう」
そう言って、私はその戸を押し破った。
女の体つきはなかなかのものだった。すんなりと伸び過ぎた手足は、いささか「どうしたものか」と思わせるところがない訳でもなかったが、身のこなしが慎ましやかであることが幸いしたのだろう。押せば押すほどに引き退いて行くそのほどの抗いが、高貴な女を思わせておもしろかった。無理強いに近いような結ばれ方をした女の見せる慎みというものはなんとも男の心をそそるもので、改めて愛おしさが増した。会えば心遣いの浅墓さばかりが鼻につく女も多い中で、この女は“近優りのする”という部類に入るものだろう。押してみて間違いはなかった。本心で嫌がっている訳でもない女を、そのままに放置しておく法はない。「いや」と思えることを呑み込ませて、その結果の良否を判断させてやることも必要なのだ。
女は、自分が飲み込まざるをえなくなった事態を飲み込んで、人というものが見せる不思議な実相を見せていた。外には拒み内には拒めず、その拒めずにいる苦渋を、隠された歓喜のようにして身に引き受けていく。その経緯を、その動きを間近に感じ、このところ厭わしいものと思いかけていた秋の夜長が短くも思われた。」
これは明らかに不確かな恋というよりは、確信犯的な男の意欲、この女の心も体ももっとよく知りたい、という光源氏の視点である。彼はもちろんそれに成功する。しかし、ほんとうに成功したのは彼女の方なのかもしれない。それにしても、これだけのことを現代の日常言語で表現しようとすると、これだけ長い文章になってしまうことも驚く。逆にいえば、たった18行の中に、これだけの内容を焼き込んだ紫式部のことばの力は素晴らしいわけである。
とくにふたつの和歌。橋本版では、暗闇の中、呼びかけてもさんざん無言で焦らされた光源氏が、ついに歌を投げると、明石の娘はさすがにきっちり歌で答える。ここがクライマックス。抑えのエースの決め球を渋いツーベースヒットで逆転!みたいな場面。お、こいつすげぇじゃん、と思ったとたん奥の部屋に逃げて戸を閉められる。こりゃもう絶対抱かなきゃ光源氏の名が廃る。でも、これって「もののあはれ」だろうか?
橋下徹的な下半身性欲処理思想では、男女の恋など結局男本位の射精の爽快に還元される「低い暗部」の問題でしかないが、光源氏がそのような「歩く生殖器」のような男であるなら、いくら高貴な身分で美形超イケメンでも、この物語の主人公はつとまるはずがない。女君たちが彼を愛するのは、自分の他にはない特質、気づかれない個性、隠れた愛らしさ、賢さ、ときには恐ろしさやずるさをも、ちゃんと見て愛してくれるマメな男だからだろう。ただそれゆえに、彼はつぎつぎ女を作っていく。それを宣長は「もののあはれ」と読んだわけだ。
このところ国学の本居宣長論を追うつもりが、少し脇道に逸れている。
国学を少し知っておく必要があると思ったのは、宣長の時代の官学ともいうべき儒教批判の論点ではなく、幕末から明治維新の動乱期に、水戸学とともに大衆に影響を与えた革命思想として機能したことと、その伝統が西洋追随の近代化の中で、伏在し無視されながら、ときどき無意識の噴出として現れる不思議さにあった。それは21世紀の現代日本にも、無知な庶民の居直りの正当化として悪用されている気がする。幕末に繋がるという点では、平田派神道なのだろうが、宣長が面白いので足踏み状態である。
千年前に書かれた源氏物語が、世界文学にも稀有の長大なラブストーリーであることは、それを書いたのが名も定かでない女性であったことと合わせて、奇跡のような作品であることは、いまさら言うまでもない。ジュンク堂書店という大きな書店に行って「源氏物語」コーナーを探したら、書棚2つぶん(2段ではない!)全部源氏物語関連の書物だった。毛筆かな版まで出ている。かくも偉大な小説は、人々の関心を惹きつけているのだろうが、一方で、原文で全部読んだ人がどのくらいいるのだろうか?
名ばかり有名で実際にその原文を読んだことのない書物は多い。ぼくも高校時代に、古文の授業で「源氏物語」の出だし「いずれの御オン時にか、女御更衣あまたさぶらいたまいける中に、いとやんごとなききわにはあらぬが・・云々」という一節を暗記せよという宿題が出て、ひでェ宿題!と思いながら若いから全部暗記した。怖い女性の先生で、次は「枕草子」や「徒然草」も暗記させられた。でも、おかげで今でも憶えていて口に出せる。でも、それだけしか読んでいなかった。実際、原文は読んでも正確な解釈は難しい。そこでちょっとテキスト解読をやってみた。原文と、現代語訳の古典、谷崎潤一郎訳と比較的最近の瀬戸内寂聴版、それに光源氏の一人称でこってり書き込んだ橋本治の「窯変源氏物語」から抜粋してみた。
*紫式部 『源氏物語』ニ 明石 原文(山岸徳平校注) 岩波文庫 p.87-88
〔源氏は〕うちやすらひ、〔娘に〕なにかとのたまふにも、「〔源に〕かうまでは、〔近く〕見えたてまつらじ」と、〔娘は〕ふかう思ふに、〔源の接近が〕ものなげかしうて、〔源に〕うち解けぬうち解けぬ心ざまを、「こよなうも、〔娘は〕人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、〔男が〕いかばかり言い寄りぬれば、心強うしもあらず、〔私は〕ならひたりしを、いと、〔私が〕かくやつれたるに、〔娘は私を〕あなづらはしきにや」と、〔源は〕ねたう、さまざまに思し悩めり。「情なうおしたたむも、事のさまに違へり。心くらべに、〔娘に〕負けむこそ、人、悪けれ」など、〔源は〕みだれ、〔娘を〕うらみ給ふさま、げに、物思ひ知らむ人にこそ、見せまほしけれ。〔源に〕ちかき几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも、〔娘が〕けはいしどけなく、うち解けながら、掻きまさぐりけるほど見えて、〔源は〕をかしければ、「この、きゝならしたる琴をさへや〔聞かせ給はぬ〕」
など、よろづにのたまふ。
源 睦言を語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかばさむやと
娘 明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ
ほのかなるけはひ、伊勢の御息所に、いとようおぼえたり。〔娘は〕何心もなう、うちとけて居たりけるを、かう、物おぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司のうちに入りて、〔戸を〕いかで堅めけるにか、いと強きを、〔源は〕しひても、おしたち給はぬさまなり。されど、〔源は〕さのみも、いかでかはあらむ。〔娘は〕人ざま、いとあてにそびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。
*谷崎潤一郎訳『源氏物語』巻ニ 「明石」中公文庫 p.98-99
「しばらくしてから、何やかやと仰せになるのですけれども、こうまで親しくはお目にかかるまいと、深く思い込んでいましたにつけても溜息が出まして、打ち解けぬ様子をしていますので、たいそう人柄らしくしていることよ、もっと身分の高い人でも、これほどまでに言い寄れば、そう強情を張るようなことはないのが例であるのに、今は尾羽打ち枯らしているので、侮っているのであろうかと、くやしくお感じになったりしまして、さまざまにお悩みになります。そう荒々しく振舞って、無理なことをしますのも本意ではありません。そうかといって、意地比べに負けてしまうのは不体裁だしなどと、やきもきなさるおん有様は、全くものの情を知る人に見せてやりたいようなのです。近いあたりにある几帳の紐に触って、箏のことが鳴ったりするけはいもしどけなく、今までここにくつろぎながら慰みに弾いていたらしい様子が偲ばれて、興がありますので、「かねて噂に伺っていましたお琴をさえ」などと、いろいろに仰せになります。
むつごとを語りあはせん人もがな
うき世のゆめもなかばさむやと
明けぬ夜にやがて惑へる心には
いづれを夢とわきてかたらん
物越しの感じは、伊勢の御息所にたいそうよく似通っています。何心もなく打ちとけていましたところへ、こう突然にはいっていらっしゃいましたので、当惑して近くの部屋の中へ逃げ込んで、どう締まりをしたものか固く閉てきってしまいましたので、強いても開けようとはなさらない様子です。ですが、そんな風にばかりは、どうしていつまでしていられましょう。娘は人柄もたいそう上品に、背が高くて、こちらが恥ずかしくなるような姿をしているのでした。
源氏の歌(この浮世の辛い夢が幾分かでもさめるように、私と恋の睦言を語り合ってくれる人がいてほしいものだが)
明石の上の歌(私のように長夜の闇に迷っております心では、いずれを夢、いずれを現(うつつ)と、区別して語りようもございません)「明けぬ夜」は「いつまでたっても明けない夜」で長夜の闇のこと。」
*瀬戸内寂聴 『源氏物語』巻三 講談社文庫 p.135-137
「内に入られた源氏の君が、ためらいがちに、あれこれとお話かけなさいましても、娘はこれほどまで近々と親しくお目にかかりたくはないと深く思い込んでいましたので、ただ悲しくなって、少しも打ちとけようとはしません。その娘のかたくなな心構えを、源氏の君は、
「何とまあ、ひどく上品ぶって気どっていることよ。もっと近づきがたい高貴な身分の人たちでも、ここまで近づいて言い寄れば、気強く拒みきれないのが普通だったのに、自分が今、こんなに零落しているので、侮っているのだろうか」
と、癪に障り、さまざまに思い悩まれるのでした。
「思いやりなく、無理を押し通すのも、今の場合、ふさわしくない行為だ。かといって、このまま根比べに負けてしまっては、体裁の悪い話だ」
などと、思い悩んで、恨みごとをおっしゃる源氏の君の御様子は、全く、物の情のわかる人にこそ見せたいようでした。
女の身近にある几帳の紐に、箏の琴の弦が触れて、かすかな音をたてたのも、無造作な様子でくつろぎながら琴を手なぐさみに弾いていたらしい女の様子が目に見えるようで、興が湧きますので、源氏の君は、
「いつもお噂に聞いているあなたのお琴の音さえ、お聞かせ下さらないのですか」
などと、さまざまに話しかけてごらんになります。
むつごとを語りあはせむ人もがな (二人寝の愛の言葉 語りあう人のほしさよ
憂き世の夢もなかば覚むやと 愁いの多いこの世の 苦しい夢さえなかばに
さめてくれようかと)
と源氏の君が詠みかけられますと、
明けぬ夜にやがてまどへる心には (明けることのない 長夜の闇の中に
いづれを夢とわきて語らむ 迷いつづけている心には
何が夢やらうつつやら 語るすべさえないのです)
と、娘がかすかに返歌を言う様子は、伊勢に下った六条の御息所にたいそうよく似ています。娘はなんの心の支度もなく、くつろいでいたところへ、こうして意外なことが起きてしまったので、困りはてたあげく、近くの部屋の中に逃げ込んで、どう戸締りしたものやら、こちらからはびくとも動きません。源氏の君は、それを御覧になり、無理にも思いを通そうとはなさらない御様子です。けれども、どうしていつまでも、そんな状態でいられましょう。
とうとう部屋に押し入り逢ってみると、この娘の様子は、いかにも気品が高く、背もすらりとしていて、こちらが恥ずかしくなるような奥ゆかしい風情なのでした。」
谷崎の訳(20行)は、原文(18行)の格調と雰囲気を保存しながら、忠実にポイントを押えてあまり余計な解釈はしていない。二つの歌については注釈をつけて親切である。ただ源氏に対しても娘に対しても等距離の三人称で冷静に語る。瀬戸内寂聴の現代語訳(28行)は、男女の恋の駆け引きをより艶めかしく言語化し、それとなく女性の心情に沿う形で書いている。光源氏を見る目は、彼に言い寄られる女君の視線である。歌については、意訳した詩に置き換えている。それぞれ「源氏物語」の同じ場面を描き出しているのだが、ずいぶんと違った印象を与える。今の大学生くらいだと、この和語と敬語の嵐についていくのはかなりきついかもしれない。瀬戸内さんの訳でも、もはや現代語とはいえなくなっているかもしれないが、これ以上崩すと「源氏物語」のエッセンスが失われる、と考える保守主義者には、橋本版「窯変」(74行)は、もはや別の作品に見えるだろう。だいたい18行の原文から74行も書いてしまうのは、のめりこんだ小説家の妄想だが、これはこれで面白い。
B.恋にはマメな光源氏の物のあわれ
宣長の歌論がひたすら主張したのは、「もののあはれをしる」であった。「もの」は風の音や波の音、花の色や鳥の声、花鳥風月を美的に味わう感性であるが、源氏物語の中にミュージカルのように頻出する和歌では、ほとんどが花鳥風月に託して人が人を激しく恋うる歌である。「もの」はたんに「もの」の姿ではなく、「こと」人事や人情の「あはれ」を込めて歌われている。それは宣長的には、苦しく悩ましく辛い心のやむにやまれぬ自己表現であるからこそ、それを読む「ひと」他者に訴える力をもつ。紫式部の想像力は、このすべての歌を詠み出す力に賭けて長大な物語を書き継ぐことができた。橋本治は、それを光源氏という女たらしの貴公子の視点に乗り移って、一人称で偏執的に語り直している。
*橋本治 『窯変 源氏物語』4 中公文庫 p.255-260
「娘は驚いていただけなのかもしれない。私が何を言っても答えようとはしなかった。
常套の恋の言葉を、それでも私が躊躇いながら口にしたのは、逃げ場を持たない娘のあり様を哀れんでのことなのだろう。この地に、この娘に似つかわしい男は、私しかいない。
都の然るべき女ならば、通ってくる男はいくらでもいるだろう。しかしこの地に、この娘に通うことの出来る男は私しかいない。一人の男を避けるのに別の男をもってするということが、この娘には出来ない。ただ一人の男とただ一人の女が、なるべくしてなるだけの途を如何に順当に踏み出すか、それしか方策は用意されてはいなかった。
「やっとお側に辿り着くことが出来ました、あなたの面影を慕って、私は苦しい思いばかりしていたのですよ」
恋の常套句を、女の前に敷きつめる。後のない場所から歩み出す為の筵道のように。
しかし女は見向きもしない。黙って身を固くしている。一言も言葉を返さない。
「会えば不幸になる」――そのことを承知して私の前に現れることを拒んでいた女の胸の内は分かる。しかし、私はもう姿を現わしてしまったのだ。
何を言っても女は答えない。逃げ場のない断崖に立たされた筈の女が、強固な城壁を後ろに控えた者のように私を拒む。胸の扉を鎖したまま、私の言葉の一切を撥ねつける。
押し黙る恋に射掛ける言葉の矢数も尽きて、私の中では焦燥の炎が怒りの色を見せて燃え上がって来る。
これだけ私に言い掛けられて、この私に心を宥さなかった女は、都には一人しかいない。
「その人と同じ身分の女だと己を思うか?」
そう思えば、私の胸の中には憎悪の炎さえ湧き上がって来る。
私が都を退いたことを、私が都を追われた男と侮って、斯くも無礼なあしらいをするのかと、余分な斟酌も添うて来る。
恋ではない、父の手引きによってなされた正式の婚姻にも等しい夜だと思えば、押して几帳の内には踏み込めない。しかしかといって、心比べの睨み合いに私が負けたなどという噂が立つことは許せない。守りの陣を布いた女の意思の陣幕が、それほど強固なものだったとは思ってもみなかった。
私が動き、几帳を立てた女も動く。ただ袖ばかりの動きにつれて、几帳の紐もあえかに揺れた。その紐が、几帳の内にある女の箏の琴に触れたのだ。箏の琴が女の前にあったことが分かった。何も知らず、ただつれづれのままに、宵の内、この女は琴を掻き鳴らしていたのだろう。
「噂に高いこの琴を、聴かせていただくことさえも出来ないのですね?」
琴は鳴らず袖も鳴らず、女の口からも言葉は出ない。
「睦言を語り明かさん人もあれ
憂世の夢は半ば消えなん」
私がそう言えば、詠みかけられた歌を返せずにいる恥辱が、女の口を開かせた。
「明けぬ夜に更にも迷う心には
いずれを夢と分かち語らん」
「あなたとならば、憂世の見せる悪い夢も、半ばは醒めるだろう」――それが私のぎりぎり正直な譲歩だった。それに対して女は言う。「あなたと語ることは、私の長い夢の末に訪れた現実なのか、それともあなたが消してしまいたいという悪夢の内なのか、そんなことは分からないではありませんか」と。
それはそれとして、やっと口を開いた女のその口吻は、彼の伊勢に下った六条の御息所のそれと瓜二つと言いたいほどによく似ていた。
「これは・・・」と思う。拒むでもなく拒まぬでもなく、「すべてはあなたのつれなさから出たことではありませぬか」と、嫋々とした愁いをこめて男の方に押し返す――その詠み振りも含めて、この女は彼の御息所に酷似しているのだ。とんだところに優れた洗練の極致を見ると私が思った途端、自分の口にした言葉の重さに堪えかねた女は、その場を立って逃げ出した。
伊勢の人ではない。
伊勢の人なら、こんな逃げ出し方はしない。そのまま男を迎え入れて、慕い寄った男の胸の内に直接恨みの言葉を投げ入れる。その違いの目覚しさに、私は改めてその女への関心をそそられた。
逃げ出した女は、寝殿の奥の小部屋に駆け込んだ。
「これ、どうなさった?ここをお開けなさい」
そう言って戸を叩いても、中からの応答はない。どう閉て切った(たてきった)のか、押しても引いてもその曹司の戸は開かない。一人の押し問答。
しかし、いつまでもそんなままにしておく訳にはいかない。ともかく女は答えたのだ。
歌の中で「私にはわからない」と、そう言って、その口にした自分の本音に堪えかねて、逃げ出したのだ。それならば、私のすることは一つしかない。
「どちらだか分からないのなら、それを分かる為の手掛かりを私の方から差し上げましょう」 ただそれだけしかない。
言葉で騙す訳にはいかない。言葉は人を惑わせる。恋の言葉は尚更特に。
「分かるべき手掛かりを、この私から直接あなたに差し上げましょう」
そう言って、私はその戸を押し破った。
女の体つきはなかなかのものだった。すんなりと伸び過ぎた手足は、いささか「どうしたものか」と思わせるところがない訳でもなかったが、身のこなしが慎ましやかであることが幸いしたのだろう。押せば押すほどに引き退いて行くそのほどの抗いが、高貴な女を思わせておもしろかった。無理強いに近いような結ばれ方をした女の見せる慎みというものはなんとも男の心をそそるもので、改めて愛おしさが増した。会えば心遣いの浅墓さばかりが鼻につく女も多い中で、この女は“近優りのする”という部類に入るものだろう。押してみて間違いはなかった。本心で嫌がっている訳でもない女を、そのままに放置しておく法はない。「いや」と思えることを呑み込ませて、その結果の良否を判断させてやることも必要なのだ。
女は、自分が飲み込まざるをえなくなった事態を飲み込んで、人というものが見せる不思議な実相を見せていた。外には拒み内には拒めず、その拒めずにいる苦渋を、隠された歓喜のようにして身に引き受けていく。その経緯を、その動きを間近に感じ、このところ厭わしいものと思いかけていた秋の夜長が短くも思われた。」
これは明らかに不確かな恋というよりは、確信犯的な男の意欲、この女の心も体ももっとよく知りたい、という光源氏の視点である。彼はもちろんそれに成功する。しかし、ほんとうに成功したのは彼女の方なのかもしれない。それにしても、これだけのことを現代の日常言語で表現しようとすると、これだけ長い文章になってしまうことも驚く。逆にいえば、たった18行の中に、これだけの内容を焼き込んだ紫式部のことばの力は素晴らしいわけである。
とくにふたつの和歌。橋本版では、暗闇の中、呼びかけてもさんざん無言で焦らされた光源氏が、ついに歌を投げると、明石の娘はさすがにきっちり歌で答える。ここがクライマックス。抑えのエースの決め球を渋いツーベースヒットで逆転!みたいな場面。お、こいつすげぇじゃん、と思ったとたん奥の部屋に逃げて戸を閉められる。こりゃもう絶対抱かなきゃ光源氏の名が廃る。でも、これって「もののあはれ」だろうか?
橋下徹的な下半身性欲処理思想では、男女の恋など結局男本位の射精の爽快に還元される「低い暗部」の問題でしかないが、光源氏がそのような「歩く生殖器」のような男であるなら、いくら高貴な身分で美形超イケメンでも、この物語の主人公はつとまるはずがない。女君たちが彼を愛するのは、自分の他にはない特質、気づかれない個性、隠れた愛らしさ、賢さ、ときには恐ろしさやずるさをも、ちゃんと見て愛してくれるマメな男だからだろう。ただそれゆえに、彼はつぎつぎ女を作っていく。それを宣長は「もののあはれ」と読んだわけだ。
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