A.新派女優水谷八重子(初代)のこと
去年亡くなった橋本治さんは、日本の古典文学に精通していたり、折々の時事的話題に鋭く論評したり、イラストも描くことで知られた多彩な人だが、子どもの頃から新派や新劇などの芝居を生の舞台で見ていたということは、この『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で初めて知った。芝居好きの母に連れられて新橋演舞場とか明治座とかの商業演劇を見たのだという。これは東京育ちでもちょっと珍しい方だろう。ぼくもほぼ同年代で東京に育ったけれども、新派や歌舞伎に連れていってもらった記憶はない。当時は映画館で映画を観るのはみんなが楽しむ大衆娯楽だから、混みあった映画館にはよく一家で行ったし、うちの近くに舞台芸術学院という俳優養成学校があって、叔父の友人たちに新劇関係者がいたので、たまに新劇は見に行った。しかし、いわゆる新派や商業演劇には一度も行かなかった。たぶんうちの親たちも芝居には関心がなかったのだろう。でも、水谷八重子という名はよく知っていた。テレビが普及し始めた1960年代後半には、舞台中継という番組があって、新派の舞台『婦系図』とか新国劇なんかもテレビで観ることがあった。水谷八重子はもう若くはなかったが貫禄のある美しい女優だと言われていたし、娘の水谷良重は、母とはタイプの違う元気なやんちゃ娘として映画やテレビに出ていた。やがて亡くなった水谷八重子の名跡は良重が二代目を継ぐことになったのだが・・・。
「三島由紀夫は、現実を私有することが許されていた作家である。そのへんな一例として、「国立劇場の屋上で自分の軍隊(=盾の会)の閲兵式をやる」ということもあった。それは特別としても、三島由紀夫は、作家に「現実を私有する」という特権が許されていた時代の作家である。
戦後、日本では家族制度が廃止された。身分制度がなくなって、作家というものはえらくなった。へんな言い方かもしれないが、華族制度があった時代、政治家や実業家は、普通の人間より上の身分の、「華族」でありえたのである。「華族で作家」というのは特殊な例で、作家をやっていても華族にはなれない。華族の家の家督を継ぐ必要のない次男坊以下なら、好きで芸術に遊んでいることも許された。作家は、いるのなら、その周辺にいたのである。その華族制度がなくなって、作家はえらくなった。学習院からまだ帝大であった東大に行って作家になった三島由紀夫は、その変わり目の意味を最もよく知りうる立場にあった作家だろう。近代知性と、そして読者に浸透するポピュラリティによって、作家の地位は向上した。そして、戦後の日本の出版界は、何度かの全集ブームで、その規模を拡大して行った。
焼け跡の都市の住民は、その蔵書を一から揃え直さなければならない。全集ブームは必須でもあった。昭和三十四年の皇太子ご成婚から、日本ではテレビの普及が始まる。そして、日本の全集ブームも、その時から本格化するのである。文化を家に引きこむ――そのことによって、本とテレビは、同時に日本の家庭へ普及して行った。そして、その全集ブームに完結の時が来る。我が家にあった日本文学全集や世界文学全集の質を疑うことなく読んだ子供達は、成長して大学へ行った――しかも大量に。そして大学は、その子供達の期待に応えられなかった。知性の質の転換、既に完結してしまった知性の“その先”が求められて、その答えはなかった。大学の建物と機構はそのままで、大学の実質は崩壊、あるいは変質した。三島由紀夫が、閉じた自分自身の世界の中で判断停止に陥り、自殺してしまったのは、その時である。
外界では、三島由紀夫が信じていた古典的様式が、「時代遅れのもの」に転落して行った。『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』における三島由紀夫の叫びは、その悲嘆をあらわす。それは、時代の必然でもあった。消えなければならなかったのは、三島由紀夫一人ではなかったはずなのだが、三島由紀夫は一人、その終末の到来を理解した。
その判断停止は、時代と連動するものであり、時代は、天動説の孤独を浮き上がらせてしまっていた。それが、反乱の時代だった1960年代末の実相である。三島由紀夫は、出口のない孤独に死に、そしてまた、時代とともに死んだのである。三島由紀夫と共に終わった時代の名を、「戦後」と言う。
三島由紀夫は、祖母の励ましだけを胸に抱え、小人の跋扈する「戦後」という時代、独りで生き、独りで死んでいった人間なのかもしれない。果たしてそれを、彼はのぞんでいたのか?三島文学の中で繰り返されるテーマは、「独りでも生きて行ける!」ではあるけれど、「初めから自分はたった独りだった」と気がついた時、この作家の生命は終わる。《記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつたと本多は思つた。》と書く作家は、それを本多繁邦が知る以前に知っていたはずだ。
《興ちやんや、おばあさんは暫らく身を隠すけれど興ちやんの行末はきつと守つてあげるから、うんとえらくならなければなりません。お前さんのお父つあんのやうな小人になつてはなりません。ばば》
三島由紀夫の本名「平岡公威」の「公」の字は、奇しくも、「興ちゃん」の音に重なるのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.416-418.
この部分は、橋本治が最初に「三島由紀夫」論を書いた箇所だという。ある意味で、この多量の三島論の出発点であり、そこでの見通しは最初からほぼ揃っていて、あとは一つひとつ作品のテキスト分析で隙間を埋めていけばよかった、という感じがする。ただ、最後に附け足された「補遺」だけは三島論というより3つの女優論になっていて、そこでとりあげられているのは、文学座との関係で三島の演劇界での母である杉村春子、三島の『黒蜥蜴』や『鹿鳴館』に出演した水谷八重子、そして三島が敬愛した歌舞伎の女形、六世中村歌右衛門である。とくに水谷八重子については、熱がこもる。
「昭和三十八年末の「文学座分裂騒動」は、三島由紀夫にとって、「演劇界での母」である杉村春子との訣別でもあった。昭和三十八年の冬に杉村春子と別れた三島由紀夫は、その翌年の十月には、水谷八重子主演の『恋の帆影』を書く――そのような流れもある。そして、あらぬ夢想をしてしまえば、その更に翌年になって上演される『サド侯爵夫人』は「水谷八重子の侯爵夫人ルネと杉村春子のモントルイユ夫人」という配役によって上演されるべき作品でもあったのである。そんなことを私が勝手に思うのは、杉村春子が「三島由紀夫の演劇界での母」であるのなら、水谷八重子が、「演劇界での三島由紀夫自身」でもあるような女優だからである。私は、水谷八重子を「最も三島由紀夫的な俳優」だったと信じている。三島由紀夫は、水谷八重子と出会うことによって変わりえた一面もあったのだと思うのである。
水谷八重子は、日本の女優の中で、最も変わった、最も特異な女優である。言ってみれば、彼女は「前近代によって進む道を阻まれた、女の形をした近代」である。それを言うのなら、対する杉村春子は、「前近代に頓着することのない、近代の形をした女」である。こういう対比をしてしまえば、当然三島由紀夫は、「前近代によって進む道を阻まれた、男の形をした女」ということになる。
水谷八重子が得意な女優だというのは、彼女が、女方の存在する「新派」という演劇の中にいた女優だからである。彼女は初め、女方のいない「新劇」の女優を目指した。しかしゆえあって、新派の女優になった。彼女が「前近代によって進む道を阻まれた、女の形をした近代」であるのは、そのためである。彼女の前には、「女より女を演じることに優れた前近代の男たち」がいたのだから。
女方は虚構の存在である。伝統演劇の女方は、現実の女よりも女らしい。もちろんである。男である彼等は、「女」という役回りを、劇的に作り上げるからである。女方は、「女」ではなく「男」なのだから、まず「女」を作り上げなければならない。しかし、女優にはその必要がない。彼女達は元々「女」なのだから、「女」を素通りして、「与えられた役柄」だけを作り上げればいい。だから、役柄以前に「女」を作り上げたその分だけ、女方は女優よりも「女らしい」。つまり、「女らしさ」とは誇張だということである。水谷八重子が入った新派の女方役者達は、その「誇張」によって、現実の女より女らしかった。つまり、「より劇的な整合にマッチした女」だったのである。そして、その新派の女方役者達は、旧派=歌舞伎の女方より、生々しくも女だった。
「新派」の命名は、それ以前に存在していた歌舞伎を、「旧派」としてのことである。江戸が終わった後の「近代演劇」たらんとした新派には、それだけの自負心があった。それでは、新派が歌舞伎を「旧派」と呼んだ根拠はなんなのか?新派が自分たちの演劇を、より時代に即したリアルで生々しいものと思ったからである。つまり、新派の女達は、歌舞伎の女方の演ずる女よりも、リアルに生々しく「女」だったのである。そうであろうとしたのである。歌舞伎の女方――三島由紀夫が誰よりも愛した中村歌右衛門(六世)は、新派の舞台にも出演したが、彼は「新派だとつけマツゲがつけられるから嬉しい」と言っていた。新派の生々しさは、そうした種類のものなのである。歌舞伎の女達は、男性優位の原則の中で、ある規矩の中に収まっていた。しかし、近代性の新派に、その必要はない。つまり、新派の「派手さ」と言ってもいいのかもしれない。さすがに私は、「新派の名女方」と言われた喜多村緑郎の舞台は見たことがない。しかし、彼の演じた『婦系図』の声をレコードで聞いてびっくりした。あまりにも生々しく、「可憐」に役を作っていたからである。喜多村緑郎、そして同じ女方の花柳章太郎から水谷八重子へ受け継がれた後の『婦系図』のお蔦は、あまりにも暗い。そのイメージを一蹴するかのごとく、喜多村緑郎のお蔦は、派手で生々しく、明るかったのである。喜多村緑郎の芸風は、もちろん花柳章太郎にも共通している。だから、花柳章太郎の芸風も明るく派手だった――それが新派の女方だったのである。
花柳章太郎は、初めお蔦役者だった。それが、水谷八重子にお蔦を演じさせるようになってから、相手役の早瀬主税へと持ち役を移した。『婦系図』は、その時から暗くなったのである。私は子供の時、水谷八重子の舞台を見て、その暗さにびっくりした。なにがいいのか分からないくらい、暗いのである。声も嗄れて、陰々滅々としている。子供にとっては、こわいくらいのものである。ところが、それを見る女性客は、「きれいねー」と言っている。晩年の水谷八重子には、そこに「若いわねー」が加わったが、しかしやっぱり、「きれいねー」なのである。
なんだって子供の私が新派なんかを見ていたのかと言えば、私の母親が新派の芝居を好きだったからである。一緒に付いて劇場へ行ったり、テレビの劇場中継を見たりして、「なんだってこんな暗い女が“きれいねー”なんだろう?」と首を傾げていた。もちろん私の母親も、水谷八重子に「きれいねー」と言う女性観客の一人だった。子供の私は、女方の花柳章太郎の方がずっときれいだと思っていた。もちろんそれは、子供ゆえの特権でもあったけれど。
水谷八重子には、花柳章太郎的あるいは喜多村緑郎的な、新派の女方演技を選択する途がなかった。なぜかと言えば、彼等が造形した「女」は男ゆえに可能な「誇張された女」だったからである。それは、女ならぬ「男」がやってこそ意味のあるもので、女の女優がやっても意味のないものなのである。なぜかと言えば、女には「女であること」を誇張する必要がないからだ。女方の美は、ある種見世物的な美で、だkらこそ、なんにも知らない子供でも「きれい」と反応しうる。女方は嘘をついてもかまわないが、女優が同じことをしても、ただ「身にしみない嘘」にしかならないのである。先輩の女方役者達が構築してしまった「女優」を演じるのに際して、水谷八重子には、明らかに造形的なハンディキャップがあった。だから彼女は、女方的な演技から距離を置いた。女としての挙措動作はすべて女方から習い、水谷八重子は、内面で「女」になるしかなかった。だから、一歩下がって暗いのである。そして、それこそが、リアルな女のあり方なのである。
女はドラマの中で虐げられ、そこでこその「新派大悲劇」なのである。それを「リアルなもの」と感じようとする女客は、水谷八重子の中に、「虐げられたリアルな自分」を見る。だから、「きれいねー」と言う。女の観客にとって、「リアルな自分」はきれいであらねばならないのだ。そして、その水谷八重子は、大人の男達にとっても、「現実に存在しうる生身の女」となった。それを「暗い」と思うのは、大人の男と女の間でどんな陰惨なドラマが繰り広げられるかを知らない子供だけなのだから。
そしてしかし、そうなった時の水谷八重子は、世にも不思議な女優になっていた。なぜかと言えば、女方役者によって開拓されて来た役柄を演じる時、「女」である彼女は、その必然として、「既成の女のあり方」を、すべて「嘘」としなければならなくなってしまうからである。
彼女の女優としての前提は、「自分は女方ではない」である。女方ではない女が、女方によって演じられて来た女を演じる――それはつまり、「嘘を嘘と知って引き受ける」である。その「女像」は男が作った。男にとってはリアルかもしれないが、女にとってリアルであるかどうかは分からないものである。新派の女方役者の造形は、その「女」に、「観客受けのする生々しさ」を付け加えてしまうのである。この「観客」とは、もちろん、女の生々しさを好む男の観客であり、「そうでなければやった気がしない」と思う女方役者が前提とする「観客」である。つまり水谷八重子は、「男が勝手に作った、男に都合のいい女像」をそのまま引き受けなければならなかったということである。それは「嘘」を演じることなのだ。女方は嘘を演じて女になる――これはいい。しかし、それを水谷八重子がやったらどうなるのか?「嘘を演じて女になる」が女によって担当されたら、その時、彼女の演じる女は、「この世の中に嘘の生き方を当然として強いられてしまった女」にしかなくなる。そして、水谷八重子はそれをやったのだ。だから、水谷八重子によって演じられる新派の女性像は、すべて、「男によって作られたドラマの中で嘘を強いられている女」と解釈し直されてしまったことになる。しかもそれは、女の観客が納得するような「真実」でもあったのだ。だからこそ昭和の末近くまで、水谷八重子の「新派大悲劇」は、リアルなものとして存在しえたのである。
新派の世界で、「女」とは「作り上げられるもの」だった。彼女の前にいた女方役者は、みんなそれをやった。だから、わざわざ「女」を作り上げる必要のない、女優である水谷八重子も、「女」を構築しなければならなかった。彼女はそれをやった。そして、女方ならぬ女優の彼女は、「虚無」という「女」を作り上げてしまったのである。それ以外に、女優の構築すべき「女」はなかった。
水谷八重子の「女」は、「男に強制された嘘を生きる女」になった。そのように一々の役柄を解釈するのではない。水谷八重子が舞台に立つ時、女方が「女」になっているように、彼女はそうなっているのである。それをしなければ、彼女には「女優として舞台に立つ理由」は与えられなかった。水谷八重子は、「舞台の上に虚無として存在する女優」になってしまったのである。三島由紀夫は、水谷八重子の魅力を《無關心の色氣》と言った(昭和四十三年『黒蜥蜴』再演プログラム)。しかし、水谷八重子はその実、舞台に「虚無」を提出出来る唯一の女優だった。水谷八重子以外に、そんな選択をする必要のある女優はいなかったのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.425-431.
男が演じる「女」は、現実の女である女優には手の届かぬ造形美になっている。それは歌舞伎の女形のような型に嵌った演技よりも、新派の女方により強く妖艶さ、可憐さとして実現されていた。しかし、橋本のいうように、それは男たちが期待する「美女」であって、それを現実の女である女優が演じることは、いわば存在と造形の矛盾をつきつめて生きることになるから、「暗く」なるのだと橋本は言う。なるほど。だとしたら宝塚も、それを反転させているだけで、宝塚の男役は女たちが期待し理想化した「男」そのものであって、現実には存在しない「男」であるのは当然ともいえる。しかし、宝塚の男役をもし現実の男が演じるなどということがあったら、水谷八重子以上に「暗く」なるんだろうか?たぶんそんなことのできる男優はいないんだろうな。

B.『日本書紀』の世界
この国のかたち、という時、必ず始まりに『古事記』と『日本書紀』が置かれる。古事記は仮名で書かれているぶん平易だといわれ、天地開闢から神武天皇東征までの物語は、子どもにもわかるように翻訳して解き明かされる。しかし、日本書紀の方は漢文で書かれていて、中身も神話時代の話は初めの部分だけで、その後の大和朝廷の歩みを記し、聖徳太子や持統天皇までの歴史が書き記されているが、全部を読む人は古事記に比べ少ないだろう。
「文化の扉:日本書紀にドラマあり
天地と神の誕生から歴代天皇の経歴、相撲の起源や浦島太郎の原話、さらに箒星や疫病まで。日本最古の正史『日本書紀』が完成して今年で1300年。古代国家成立史が描かれているが、人間ドラマが詰まった物語でもある。
兄に「天皇を殺せ」と言われた妹が、夫である天皇をひざ枕。妹は遂行できずに目から涙を落とす。涙が顔にかかった天皇が目覚め、不吉な夢を見たと明かす。兄妹の逃げた城に火が放たれた――。垂仁天皇の巻に記される、歴史書らしからぬ劇的な物語だ。
『日本書紀』は、飛鳥時代後半に天武天皇が編纂を命じ、奈良時代の720年に完成した。神代から持統天皇の退位までを描き、律令国家づくりを進めた天武天皇が公式な歴史書を作らせたとみられる。年代順の素っ気ない叙述の合間に、畿内の王権が勢力を広げる様子を投影したとみられる日本武尊や、10人の訴えを一度に聞き分けたとされる聖徳太子の伝説など、内容は起伏に富む。
文字はすべて漢文だ。現代の研究者が英語で論文を書くように、当時の東アジアで最強だった中国王朝の言語を用いた。森博達・京都産業大名誉教授は『日本書紀の謎を解く』(中公新書)で、漢文の音韻や語法が正確な巻とネイティブにはない誤りが目立つ感があり、筆者の中に渡来系の中国人と日本人がいるとの見方を示している。
神代巻には「一書(あるふみ、いっしょ)」などと呼ばれる異伝も多く掲載されている。本文より長く詳しい一書もあり、歴史書では異質だ。遠藤慶太・皇学館大教授は、神代巻の本文は有力氏族から集めた秘伝をもとに創造され、収容できなかった伝承を氏族に配慮し、一書として共有させたとみる。
712年には『古事記』が完成している。なぜ同時期に二つの歴史書が編纂されたかは、はっきりしていない。『日本書紀』では神話の時代が全30巻のうち2巻だけだが、『古事記』では全3巻のうち1巻を占め、出雲の神話が多い。三浦佑之・千葉大名誉教授のように、『古事記』は出雲王権を倒して成立したヤマト王権の物語という推論もある。
『日本書紀』の編纂者は、中国の古典から表現や故事を盛んに引用している。なのに、「魏志倭人伝」で有名な邪馬台国や卑弥呼はなぜか登場しない。「天皇家の伝承になかったのでは……」と遠藤教授。ただ、似たような女王伝説を持つ神功皇后の巻で注釈に「魏志」を入れ、関連をにおわせている。
『日本書紀』は、日本列島が倭と呼ばれた時代の東アジア史を物語る貴重な資料でもある。3~7世紀の巻には朝鮮半島にあった加耶(加羅)諸国をはじめとして、百済や新羅、高句麗といった各国との争いや人物交流も詳しく記される。注釈で引用される『百済本記』などの歴史書は現存せず、韓国の研究者にも広く読まれている。
もともと王権を正当化するイデオロギーとして提供されたとみられ、朝廷内で平安時代中期までに計7回講義され、正史として定着した。戦前や戦中は皇国史観の正当化のために利用され、戦後は資料批判を通じて潤色・曲筆が多いとされた。近年は、各地で相次ぐ発掘調査で見つかった出土遺構や木簡などの資料と突き合わせ、信頼性が回復しているケースもある。
現在はファンタジー小説やゲームに『日本書紀』の神様が登場し、サブカルにも受容されている。外交や権力闘争といった古代史だけでなく、不変のロマンまで学べそうだ。」朝日新聞2020年6月1日朝刊13面、扉欄。
この記事に讃良皇女(のち女帝となる持統天皇)を主人公にした歴史漫画『天上の虹』を描いた里中満智子さんがコメントを寄せている。大化の改新から壬申の乱といった古代飛鳥奈良の時代は、波乱のドラマにするには恰好の材料に満ちているが、歴史上の正確さを大事にするために、『日本書紀』はしばしば参照したという。古事記の描く神話の世界は、歴史というより古代人の世界観をうかがい知るフィクションと思うけれど、『日本書紀』には確かに歴史記述を朝廷の立場で編纂するという意思が感じられるな。
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