新国ボエームの6/30公演を鑑賞。2003年の初演から7回目となる粟國淳さん演出の再演で、新演出ではないが芸術監督の大野さんが振るということで、何かが起こるのではないかと予想していた。これは本当に、奇跡の公演だった。オーケストラは東京フィル。
ロドルフォが登場したとき「テノールには珍しく背が高いこの美声の歌手は誰なんだ」とびっくりしたが、2019年の新国バタフライでピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロで、ピンカートンはほとんど印象に残っていない。4年の間に何が起こったのか。歌手として急成長した? ホールの空間の隅々まで行き渡る丁寧な歌唱で、めざましい艶やかさがあり、その裏側には忍耐強さも感じられた。
ミミはイタリア人ソプラノのアレッサンドラ・マリアネッリ。2011年のボローニャ歌劇場の『カルメン』でミカエラを歌う予定だったが叶わず、今回が初来日となった歌手で、一声を聴いた途端大好きになった。上品で優しさがあり、神秘性と、豊かな母性のようなものも感じられる。ミミは登場の瞬間からもう死を感じさせる演技だが、声は「まだまだ生きたい。母にもなってみたい。世界の大きな広がりを感じてみたい」と訴えてくる。
ロドルフォの『冷たい手を』とミミの『私の名はミミ』は、やはりどう考えても重要なアリアで、先日のパレルモ・マッシモ劇場ではゲオルギューのミミが苦しそうだったので最後まで案じてしまったが、歌手はここで聴かせてくれなくては困る。コステロはとても緊張していたが、渾身の力を振り絞って響かせたハイCには胸に突き刺さるものがあった。続くマリアネッリのミミの自己紹介で、二人の歌手の相性の良さを実感した。アパートのドアを開けたら、女神のような女性が立っていた、という物語である。そんな女神を見つけたら、自分ならどう思うだろう? 男女は一目で恋に落ちるが、それは二人がそっくりの魂を持っている似た者同士で、同時にお互いの中に神を見つけてしまったからだ。歌手の性格的な繊細さも似通っていたが、それも「演技」であったら、それはそれで凄い。
二つのアリアを振る大野さんの激しい棒がピットから見えた。ロドルフォと一体化し、ミミと一体化し、完全に歌手と同化している指揮者のエネルギーに驚嘆した。
粟國演出は卓越している。カフェモミュスの賑やかなクリスマスのシーンでは、「飛び出す絵本」のように折りたたまさった街が左右から手品のごとく押し寄せる。オペラでは森が動くこともあるのだから、街が動いても不思議はない。でも、そんなことをやる演出家は粟國さんしかいない。2幕はムゼッタのための幕で、着飾った彼女はアルチンドロとともに豪華なオープンカーで登場する。ロラン・ペリー演出の『連隊の娘』で大きな戦車が登場したときのようにびっくりした。プッチーニといえばオープンカー(スピード狂で大怪我もした)。ヴァレンティーナ・マストランジェロがムゼッタを華やかに歌い、オケの美麗さも極みに達した。マストランジェロは凄い余裕で、高飛車な歌から宝石のようなユーモアセンスが飛び散った。
『ラ・ボエーム』は尺が短いから見やすいオペラ、という紹介のされ方をすることがあるが、短くても退屈をするときは退屈する。『パルジファル』や『マイスタージンガー』も面白いものはあっという間に終わる。このボエームは一秒も退屈しなかった。人物描写が一人一人緻密であることと、オーケストラの響きと呼吸が尋常でないこと、歌手たち自身が舞台にいることに陶酔しているのが素晴らしい。3幕のアンフェール関門の場面では、離れがたいミミとロドルフォの心の寂しさが悲しかった。
4幕でミミ失うロドルフォの演技は本物で、ひととき二人切りになったときのロドルフォが、耳まで赤くして泣き崩れる姿を見て「こんなロドルフォはここにしかいない」と号泣してしまった。ボエームで泣く評論家はズブの素人だが、コステロの心境を思うとたまらなくなった。今回の彼の歌唱の素晴らしさは、歌手自身が自分の奥底に眠る巨大な可能性を見つけてしまった証拠で、そこまで歌手を昂揚させるのは演出と指揮の力に他ならない。
『ラ・ボエーム』はロドルフォ=プッチーニの物語で、ミミは幻影のような少し遠い存在であっていい。そのような確固としたプロポーションのようなものを、演出家は作ることが出来る。新制作でないこの作品を大野さんが振ったのには、やはり理由があった。
カルチェラタンのシーンでは新国立劇場合唱団がいつも以上に素晴らしく、TOKYO FM少年合唱団の少年たちはテーブルを運んだり細かい演技をこなしたり、大活躍だった。大変な準備をして本番に臨んだと思う。芸術家の卵たち、ショナール駒田敏章さん、コッリーネのフランチェスコ・レオーネ、マルチェッロ須藤慎吾さんも頼りがいがあり、ミミの死をロドルフォとともに受け止める須藤さんの凄い演技にくらくらした。稽古場でも、須藤さんは大きなものを引き受けていたのではないかと思う。
良質なプロダクションは歌手たちを急成長させるが、極上の経験の後では、それに満たないプロダクションに取り組まなければならないとき、苦痛も感じるのではないか…と要らぬ心配もしてしまった。あと三回、この凄いボエームを歌手たちに楽しんで欲しいと思う。
ロドルフォが登場したとき「テノールには珍しく背が高いこの美声の歌手は誰なんだ」とびっくりしたが、2019年の新国バタフライでピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロで、ピンカートンはほとんど印象に残っていない。4年の間に何が起こったのか。歌手として急成長した? ホールの空間の隅々まで行き渡る丁寧な歌唱で、めざましい艶やかさがあり、その裏側には忍耐強さも感じられた。
ミミはイタリア人ソプラノのアレッサンドラ・マリアネッリ。2011年のボローニャ歌劇場の『カルメン』でミカエラを歌う予定だったが叶わず、今回が初来日となった歌手で、一声を聴いた途端大好きになった。上品で優しさがあり、神秘性と、豊かな母性のようなものも感じられる。ミミは登場の瞬間からもう死を感じさせる演技だが、声は「まだまだ生きたい。母にもなってみたい。世界の大きな広がりを感じてみたい」と訴えてくる。
ロドルフォの『冷たい手を』とミミの『私の名はミミ』は、やはりどう考えても重要なアリアで、先日のパレルモ・マッシモ劇場ではゲオルギューのミミが苦しそうだったので最後まで案じてしまったが、歌手はここで聴かせてくれなくては困る。コステロはとても緊張していたが、渾身の力を振り絞って響かせたハイCには胸に突き刺さるものがあった。続くマリアネッリのミミの自己紹介で、二人の歌手の相性の良さを実感した。アパートのドアを開けたら、女神のような女性が立っていた、という物語である。そんな女神を見つけたら、自分ならどう思うだろう? 男女は一目で恋に落ちるが、それは二人がそっくりの魂を持っている似た者同士で、同時にお互いの中に神を見つけてしまったからだ。歌手の性格的な繊細さも似通っていたが、それも「演技」であったら、それはそれで凄い。
二つのアリアを振る大野さんの激しい棒がピットから見えた。ロドルフォと一体化し、ミミと一体化し、完全に歌手と同化している指揮者のエネルギーに驚嘆した。
粟國演出は卓越している。カフェモミュスの賑やかなクリスマスのシーンでは、「飛び出す絵本」のように折りたたまさった街が左右から手品のごとく押し寄せる。オペラでは森が動くこともあるのだから、街が動いても不思議はない。でも、そんなことをやる演出家は粟國さんしかいない。2幕はムゼッタのための幕で、着飾った彼女はアルチンドロとともに豪華なオープンカーで登場する。ロラン・ペリー演出の『連隊の娘』で大きな戦車が登場したときのようにびっくりした。プッチーニといえばオープンカー(スピード狂で大怪我もした)。ヴァレンティーナ・マストランジェロがムゼッタを華やかに歌い、オケの美麗さも極みに達した。マストランジェロは凄い余裕で、高飛車な歌から宝石のようなユーモアセンスが飛び散った。
『ラ・ボエーム』は尺が短いから見やすいオペラ、という紹介のされ方をすることがあるが、短くても退屈をするときは退屈する。『パルジファル』や『マイスタージンガー』も面白いものはあっという間に終わる。このボエームは一秒も退屈しなかった。人物描写が一人一人緻密であることと、オーケストラの響きと呼吸が尋常でないこと、歌手たち自身が舞台にいることに陶酔しているのが素晴らしい。3幕のアンフェール関門の場面では、離れがたいミミとロドルフォの心の寂しさが悲しかった。
4幕でミミ失うロドルフォの演技は本物で、ひととき二人切りになったときのロドルフォが、耳まで赤くして泣き崩れる姿を見て「こんなロドルフォはここにしかいない」と号泣してしまった。ボエームで泣く評論家はズブの素人だが、コステロの心境を思うとたまらなくなった。今回の彼の歌唱の素晴らしさは、歌手自身が自分の奥底に眠る巨大な可能性を見つけてしまった証拠で、そこまで歌手を昂揚させるのは演出と指揮の力に他ならない。
『ラ・ボエーム』はロドルフォ=プッチーニの物語で、ミミは幻影のような少し遠い存在であっていい。そのような確固としたプロポーションのようなものを、演出家は作ることが出来る。新制作でないこの作品を大野さんが振ったのには、やはり理由があった。
カルチェラタンのシーンでは新国立劇場合唱団がいつも以上に素晴らしく、TOKYO FM少年合唱団の少年たちはテーブルを運んだり細かい演技をこなしたり、大活躍だった。大変な準備をして本番に臨んだと思う。芸術家の卵たち、ショナール駒田敏章さん、コッリーネのフランチェスコ・レオーネ、マルチェッロ須藤慎吾さんも頼りがいがあり、ミミの死をロドルフォとともに受け止める須藤さんの凄い演技にくらくらした。稽古場でも、須藤さんは大きなものを引き受けていたのではないかと思う。
良質なプロダクションは歌手たちを急成長させるが、極上の経験の後では、それに満たないプロダクションに取り組まなければならないとき、苦痛も感じるのではないか…と要らぬ心配もしてしまった。あと三回、この凄いボエームを歌手たちに楽しんで欲しいと思う。