ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ドレスデン・フィルの7/3のサントリーを聴く。チケットはソールドアウトで、招聘元にお願いして補助席で聴かせていただいた。ザンデルリンクは首席指揮者として8シーズン目にして任期最後の年。過去に2回ほど来日公演を聴いているが、大天使ミカエルのような美青年(!)のイメージだった指揮者が、渋い眼鏡をかけて指揮台に乗っているのを見て、この人は実は早く年を取りたくて仕方がなかったのではないかと思った。前半はヴァイオリン協奏曲・後半は交響曲第1番というオール・ブラームス・プログラム。
前半のソリストは2003年のマゼールとの来日公演が伝説となっていた天才ヴァイオリニスト、ユリア・フィッシャー。ピアニストとヴァイオリニストとして一晩に両方のソリストを務めたことがギネスにも記録されている人だが、登場した瞬間に圧倒するような気配を周囲に振りまいてスタンバイした。この種の、とても強い「気」をもつ人の放つエネルギーには、音楽家たちも敏感なはずである。ドレスデン・フィルのメンバーは真摯で、オケ右側の補助席からは打楽器と木管の表情が詳しく見えたが、ソリストの牽引力の強い音楽性に生真面目についていくような熱心な演奏だった。実際、ブラームスのヴァイオリン協奏曲がこんなに高度な技術を要するものだとは、ここまで強く感じたことがなかった。ユリア・フィッシャーの完璧な分数計算と緻密なフレージング、狙いを外さない射撃のような演奏は「この曲を本当に完璧に弾くとこういう音楽になる」という標本のような世界で、ザンデルリンクの世界観とどうつながるのか、この曲では正直なところ測りかねたが、ヴァイオリニストの「生きていることの1秒たりとも無駄にしない」というストイックな哲学が、説得力のあるブラームスを作り出していたことは確かだった。一秒一秒に刻苦勉励の痕跡が刻まれ、それが音楽の崇高美として時間の中に放たれる…ユリア・フィッシャーがアンコールで弾いたパガニーニもあまり演奏される機会のない難易度が高いもので、ヴィルトゥオーゾとしての誇りと気迫を最後の最後まで伝えてくれた。
後半は招聘元から一階席のチケットをいただき、今度は前から6列目で聴く。少し前すぎるかも…と贅沢なことを感じつつ、同じコンサートで席の位置が違うだけでこれだけ景色が変わるものかと驚かされた。木管金管はほとんど見えなくなったが、19世紀の貴婦人のようなドレスを着たコンサートマスター、繊細そのものの牧師さんのようなチェリスト、前半では背中が少し見えるだけのバス奏者の姿が見えた。このコンサートをどうしても聴きたかった理由は、二日前に聴いたリエージュ管のブラ1にとても感銘を受けたため、東京の同じ会場で二日後に行われる違うオーケストラによるブラ1は「どのように違うのか」を体験してみたかったからだ。アルミンクとリエージュ管は、筆舌に尽くしがたい涅槃のブラームスで、これには心底心を奪われ「いわゆるブラームス」という質実剛健な世界とは異なる、蠱惑的でさえある音楽だった。「ブラームス的」ということは何なのか、言い当てることは難しい。ブラームスは長大な時間をかけて最初の交響曲を準備し、ルネサンスから近代までのあらゆる音楽を研究し、音楽学者の友人たちを自宅に招いて頻繁なディスカッションを行った。響きの中にあるのは、古い教会音楽であり、民謡的なパッセージであり、未来を予見するようなモダンの破片である。ブラームスが心酔した自然、文学、詩といったものにも、まだまだ自分は知識が足りない。何をもってして正確に「ブラームス的」というのか。楽理的な説明でいいのか。
6列目で聴くザンデルリンクのブラームスは「人間は成熟に向かって生きる」という一節が聴こえてくるようだった。ドレスデン・フィルの弦の響きは、ザンデルリンクのもとでは華やかさを抑制し、いぶし銀のような渋味を帯びるが、それはザンデルリンク自身の「自分には老いと成熟が必要なのだ」という渇望感に思われた。一楽章から、最後に訪れる高みへの憧れを隠せない真っすぐな音楽で、楽員たちの言葉にならない言葉、無我夢中で登るしかない険しい山に挑戦する息遣いが伝わってきた。前方客席でオケを聴くというのは素晴らしい。ダンスでは舞台から汗が飛び散ってきそうな距離だが、オーケストラでは眉の微かな動きや筋肉の弛緩と緊張、呼吸感、脈拍の鼓動までが感じられる。その、生きている他者の息づかいが「ブラームスとは何か」を理解させた。苦労なくして人生はありえず、芸術家は苦痛と苦悩とともに生きる。「渇望感のない人生など、人生ではない」という1楽章だった。それぞれのプレイヤーのバックグラウンドは知らないが、どの顔を見ても見事な芸術家たちで、普通の人と同じような日常を生きているが、意識の上ではブラームスのような存在とともにいて、とんでもない世界を理解している。勢いよく木管が歌い出すところは、リエージュ管のほうが「うまい」とも思った。管楽器は遠くにいるし、表現力においては弦に重きをおかれているような印象もある。ザンデルリンク自身が卓越したチェリストだった。しかし、そんな印象も、途中からどうでもよくなる。オーケストラと指揮者は「ブラームスを内側から生きる」ということを試みていたようにも思えた。孤独な独身者で、最愛の人と結ばれず、晩年はサンタクロースのような外貌だった。まったく、60代で亡くなったとは思えない。早すぎる外見の老いは、精神を酷使しすぎたせいだ。だが、心は死ぬまで若々しかったはずだ。そういう人物が外側から「老人」と見られるときの苦痛と悲しみもなぜか強く思った。
フィナーレ楽章の大団円に入る前に、リエージュ管のメンバーは全員が大きく息を吸い、リエージュも一階前方で聴いたためにその呼吸がはっきりと聴こえた。ドレスデンは果たして…同じ箇所で、同じくらい明確に聞き取れる息の音が溢れ、その瞬間になぜか「神よ…!」と思った。あるいは「人類よ…」なのかも知れないが、大袈裟なほどの嬉しさがこみ上げた。登山は頂上に近づきつつあり、朝日も光り輝いている…1楽章から続く険しい試練が、ようやく報われるようなフィナーレだった。ザンデルリンクは目的意識のはっきりとした指揮をし、なぜこういうカタルシスを聴き手として感じられるのかは指揮者の恩寵としか言いようがないのだが、ブラームスの人間的な姿を高貴な音楽で顕した。理念というのも、根底には感情が生きていて、感情が理念を作るのではないだろうか。作曲家の悲嘆、無念、愛や憧れといったものが、形式を補強する。この確信は、翌日に聴いた新日フィルとベルトラン・ド・ビリーの『ドイツ・レクイエム』でも再び感じることが出来た。ブラームスは真剣に聴けばきくほど死や愛ということに言及せざるを得なくなり、えんえんとそこを茶化したり、なかったことにしていると、逸脱的で空しい言説になる。「ブラームス的とは何か」を、薬品を調合するように説明することもいいアイデアだろう。作曲家は内面を、外側の世界に向かって解き放った。その過程に大きな苦痛もあった。それを受け取った聴き手が、自分の中に起こったなにがしかの変容を認めないと、「聴く」という行為は延々と空しいものになるのではないか。自分がブラームスを語るには、まだまだ文学も足りない。詩も足りない。ザンデルリンクの濃密なブラームスからは、希望とともに強烈な飢渇の感覚を受け取った。