小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

インバル×都響 (3/31)

2019-04-02 12:33:25 | クラシック音楽
この3月は読響カンブルランと都響インバルを各3回都内の大ホールで聴ける有難い月だったが、3/17のブルックナーは都合で聴くことができなかったので、インバルは2回のみ。チェリストのガブリエル・リプキンがブロッホ『ヘブライ狂詩曲〈シェロモ〉』を演奏した上野の定期も良かったが、超満員となった芸劇でのベートーヴェン/チャイコフスキー・プロは、都響とインバルの相性の良さが最高の音楽として結実した忘れられないコンサートになった。ピアニストのサリーム・アシュカールがソロを弾いたベートーヴェン『ピアノ協奏曲第1番』は、ピアノが始まるまで長い導入部があるが、古典的で朗らかな旋律の中に都響の洗練されたワイルドネスがはじけていた。
「都響はベルリン・フィルのようだ」 イスラエル大使館での懇親パーティでのインバルの言葉を思い出す。

ハ長調という調にベートーヴェンが託したものを考えつつ、アシュカールの透明感のあるタッチに聞き入る。ベートーヴェンのこの曲は、他のピアノコンチェルトよりソリストを謙虚に見せる。シンフォニックな哲学にピアノが準じているような印象があるのだ。そのうち真面目で誠実なアシュカールのピアノが、無邪気で面白い、歓喜の笑いのような音に聞こえてきた。バーンスタインが「ベートーヴェンの音楽は無限に増殖していく自然界の豊かさ」と語っていたのを思い出す。これはひょとして、春の音楽なのではないか…3/31に聴くベートーヴェンの1番のハ長調のコンチェルトは、白紙に最初の言葉を書くような清々しいはじまりの気運に溢れていた。元気な若い命が、生きる喜びに悲鳴を上げているような印象だ。同時に、今まで聴いたこともないような斬新な音楽にも聴こえた。
インバルはどの演奏会でも、不動の構えで微塵の迷いもなく最初から最後まで泰然と振るが、この日もノーストレスで自然の重力に任せるようなリラックスした棒だった。指揮者は作曲家のしもべであるようなことを言い、楽譜を聖書のように崇める指揮者もいるが、インバルはそういうタイプではない。作曲家も人間で、指揮者も人間。もっと対等な関係で、指揮者は第二の創造主でもありうるし、少なくとも下僕ではない。さらにベートーヴェンをやるのに、ベートーヴェンという人物の悩ましい生涯やさまざまな証言を細かく参照する必要もないのだ。

インバルのリハーサルを聴いたことは一度もないし、都響とどのように音楽を作っているのかは全くの未知だが、私の想像では、インバルはすべての楽譜を鏡文字にして、左右の偏りや筆跡の歪みを把握したうえで、再び普通に見えるように戻し、フラットでニュートラルな情報として把握しているように思える。歴史の中で無限に演奏されてきたメロディから含意という垢を取り除き、シンプルな記号としてプレイヤーに演奏させる。「いろはにほへと」を「あいうえお」に並べ替えるような、タイポグラフィーを全部変えてしまうような変換を行う。分離のいい明晰なタッチのアシュカールのソロは、インバルのその意図をストレートに伝えていた。
そこで音楽が無味乾燥なものになるかというと、そうならないのがインバルの凄いところで「音楽はどのように解析しても、やはり美しい」という結論になる。そこに個人を超えたすごい愛を感じる。視点が宇宙人的なのだ。
3楽章のロンド/アレグロ・スケルツァンドはすべての人間の身体と心の中に躍動する春の喜びで、踊りだしたくなるハイなバイブレーションだった。

後半のチャイコフスキー『交響曲第5番』は当然のように譜面なし。前半のベートーヴェンとのつながりは、この曲が「運命」から霊感を受けたオマージュのようなものだからかな…と思っていたが、違った。一楽章では、都響とインバルの作り出す音楽の大きさに圧倒された。ロマンティックな英国人指揮者、ベンジャミン・ザンダーがこの曲の一楽章を学生に振らせるマスタークラスのDVDを見たことがあるが、弦のメロディアスなフレーズに歌詞をつけて「アイラブユー、ドントリーブミー」と何度も歌いながら指導している面白いものだった。チャイコフスキーをロマンティックに演奏するなら、徹底してそこまでやるべきだ。しかし、インバルは「愛している。行かないで」という愛とはまた違った、宇宙的な愛をこの曲に見出す。何年か前のマーラー・ツィクルスの8番のあとの懇親パーティで「マーラーは生きています。音楽がそれを証明している」と言ったインバルが思い出された。チャイコフスキーもまた、そのような不滅の存在であるということをインバルは音楽で顕す使命を担っている。
2楽章では弦楽セレナーデに振りつけられたバランシンのバレエも連想した。「ベルリン・フィルのような都響」を振るのはインバルにとっても大きな喜びなのだと重ねて思った。命が燃え、ロマンティックな音の帯が金管と打楽器によって獰猛になっていく件は、驚くほど動物的だ。音楽が危険なほどワイルドになるためには、何か素っ頓狂なアイデアがなければなく、やはりそれは「ただの記号で、ただの音楽」というフラットな原点回帰なのだった。3楽章ラルゴでは、ヴァイオリンとヴィオラが渾身の力を振り絞ってかいがいしく働かなければならない様子が見えたが、命がけの冗談の音楽にも聴こえた。ワルツのアクセント部分に「ブッ」という濁った管の響きが乗っかるのは、やはりふざけている。一気呵成に書き上げたこの交響曲第5番を「わざとらしい作り物」とチャイコフスキー自身が呼んでいる。シリアスで神聖な精神性だけでは不足なのだ。

4楽章は微かに期待していたインバルの「俗っぽさ」がこれでもか、これでもかと溢れ出した。「イソップ物語」の、色々な鳥の羽を拾って身に着けるカラスの童話を思い出した。ベートーヴェン、ブルックナー、ベルリオーズ、ヴェルディからバロック音楽まで様々な断片がカラフルに飛び出す。サウンドも楽想も巨大化し、狂気に近い高揚感が襲い掛かるが、その中空にはブラックホールのような無意味、チャイコフスキーの詐欺師の心が渦巻いていた。インバルは、その透き通った悪の部分を見逃さない。作曲家はなぜ曲を作り、指揮者はなぜ指揮をするのか。「みんなをびっくりさせたいからだよ!」と言う作曲家の声が聞こえたような気がした。飄々として偉大なチャイコフスキー5番は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』そっくりだった。この上なく知的なプレイヤーが、ロマンティシズムを超越した膨大な音の連なりを淡々と聴かせ、祝祭的で楽しい音楽に仕上げていた。このコンサートは春の喜びが溢れていたのだ。