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イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

旅立ちの原型を考える!(ひびきあう旅② 2/10)

2013-07-26 | 第五章「和解と平和」

 人生が最も豊かな意味に満ちている時代とはいつだろうか?以前、Yさんと歩きながら話したのだが、5-7歳のエリクソンでいうと目的志向性の時期ではないだろうか?ということになった。その時は、ネガティブな感情として罪悪感が育ち、一方ポジティブな自発性が育つ時期である。Yさんが魂の生まれるような時期。そう言われたのが心に残っている。

 この時期、私ごとではあるが、通学途上で友人が交通事故死をしたことがあるが、それが私にとっての典型的な罪悪感の原型だった。そして、そのあと父の仕事の関係で、当時としては珍しいアラスカに住むことになる。

 全く英語の出来ない7歳の子供が外国の小学校にポツンと入学する。その体験の中で、暖かい女教師のおかげ(日本語はできないが今考えるとロジャースの6条件の化身のような先生)で、日本以上に明るく学校生活を送ることになる。教室に始めて入ったとき、優しい先生の紹介で日本語を喋ったことが今でも思い出せる。それが、自発性の原型だったかなとも思う(これについてはブログでずいぶん書いた)。

 自発性の原型は、とても人生を前向きに活力を与える上で大事で、青春時代や中年のときの危機?を乗り越える上での糧だったんだなと、今では考え感謝している。

 自発性の原型は、アラスカの小学校入学時のこともあるが、もう一つ、さらに何か不思議な原型があったように感じる。それを、勝手に命名したのだが旅立ちの原型だ。この原型は今でも私を、様々な旅行に駆り立て、比較文化や古代への関心の原動力となっている。

 アラスカでは東南の島シトカというところで暮らしたのだが、家のそばに国立公園があり、その中に不思議なトーテムポールが何本か立っていた。両親と妹で見学していたが、不思議な魅力にとりつかれ、怖さを振り切り、一人で何分か見入ってしまった。奇妙な動物が整然と連なっている不思議を堪能した。その後、両親の声で我に帰ったが、そのときの経験は旅立ちの原型となり、その後の人生に影響を与えているようだ。

 ただ、生き甲斐の心理学の知識で考えると。これもロジャースの6条件から説明ができるようだ。

 1.雨が多い土地柄であったが、その時も小雨が降っていたようだ。肌にあたる、心地よい雨。それは、自然との心理的接触を促す。

 2.小さい存在としての私と、屹立するトーテムポール。トーテムポールは何か深い意味を物語っているようで、より純粋で神秘的だった。

 3.自然の中で、悠然としているトーテムポールは無条件の愛とか、自分への共感性(自他混同ではなく)を体現しているように感じた。

 4.親しみやすい鳥とかが描かれていて、何かを少し自分にも語ってくれている。

 昨日も八王子で勉強会をしたが、その中で、ロジャースの6条件の話もでた。無条件の愛とか賛同でない共感性が、子供の教育に本当に必要だ(時に応じてだが)という話題も出た。通常の親は(私も含めて)、条件付きの愛、賛同か否定かに流れ、本人の真実を大事にすることを忘れがち。厳しい世間のことを考えると、仕方のないところでもあるが、長い目でみるとどうだろうか?自戒をしつ6条件を考えて見たい。

(今日は、U先生のブログの自発性の原型の話に誘発されて、雑文を書きましたU先生に感謝です。)

 ひびきあう旅② 2/10

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旅に出たい!・・・を大切に。(ひびきあう旅②1/10)

2013-07-25 | 第五章「和解と平和」

 昨晩は、元の会社のお仲間の集まりに参加させていただいた。私も、いつの間にか還暦を過ぎ、こうした時の話題も健康の話題が昔に比べると随分多い。

 ただ、昨晩の集まりは、集まった楽しいメンバーはネガティブに終始するのではなく、楽しい健康増進案などで盛り上がり、明るい気持ちで家路につくことができた。私も何か癒されたようなのだ。

 これを生き甲斐の心理学流に言うと。ストレス曲線を幸福曲線にうまく変換できたということになる。

 さて、一般に悩みは大過なく過ごしている日常に、ふとしたことから始まる。例えば健康診断で正常値を越えた数値が提示されたりだ。

 そして、不安を感じはじめる。その後、不安を解消しようと検査を受けたり、治療したり。それにもかかわらず自分の思い通りの結果にならないと、不安は怒りに、怒りは身体症状、ウツ、錯乱と階段を上がっていく。そして、適応不能になるとこころの病気になることも。

 こんな時に、ストレス曲線から脱出して反対の明るい感情、幸福曲線に移動できるのは本人の考え次第というところもある。ただ、本人しだいとはいえ、周りが上手にサポートすれば結果もずいぶん違うようだ。

 このサポートの仕方は臨床心理学で理論化されている。ロジャースの6条件などはそれである。

 ところで、このサポートの前提も本人がストレス曲線に現在いることを意識しているかどうかということがある。

 今回は旅をテーマにしているが、旅に行き何かを変えたい、新しくなりたい・・・つまり旅に出たい!そんな気持ちがあるかどうかが、とても大事だと思う。

 ひびきあう旅② 1/10

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持統天皇のパースナリティと日本文化!(ひびきあう旅① 10/10)

2013-07-24 | 第四章「愛とゆるし」

 信長・秀吉・家康の戦国時代を生き抜いた武将は、混乱の日本を太平の日本に変換させた大政治家として高く評価されているようだ。しかし、戦国時代と同様に日本の国家の原型を作るという大事業を成した偉人のことは意外に知られていない。

 思想家の吉野裕子氏は古代日本に大事業を成しとげた3人をあげている(持統天皇 人文書院)。天智天皇・天武天皇・持統天皇である。内憂外患の時代に政権を奪取し(天智天皇)、壬申の乱という内戦を超え(天武天皇)、そして律令国家の完成を成した(持統天皇)。そして、思うのだが、持統天皇は女帝ということもあり、天武天皇や藤原不比等の影に隠れ、何故か国民的にはその功績は余りに知られていないのではないか。しかし、少なくとも、平安時代の末期までの藤原政権樹立に貢献したことは間違いない。また、天皇制や官僚機構など、その影響力は現代にも及んでいる。

 文化的、心理学的に考えるても、(1)汚れと禊(2)もののあわれ(3)甘えの構造(4)恥の文化(5)わびとさび(6)幽玄美 の生き甲斐の心理学でU先生の6視点。日本人が楽に生きるための6つの文化特性が定着するのもこのころではないだろうか。つい最近「風立ちぬ」を観たが、よく考えると、この6つの特性が現代にも形を変えて息づいているようだ。

 そして、それには持統天皇が深く関与している。持統天皇は日本書紀にも次のような性格が書かれている。厳しい生育史を生き抜き、そして健全な自己実現をなした性格なんだろう。

 「・・・沈着な御性格で広い度量をおもちであった。・・・帝の女(みこ)でありながら、礼を好み、節度があり、また母としてのすぐれた徳をおもちであった。」(中公クラシックス日本書紀Ⅲ 313Pより)

 持統天皇の同時代には、中国に則天武后が居て、持統天皇への影響も言われているが、その思考・感情・行動は日本的かなと思う。ただ、持統天皇を理解する上で、中国の則天武后なども、知る必要はあるようだ。

 昨日は、激しい雷雨の間隙をぬって、調布のフローラルガーデンに行ったが、その中で一番印象的だった花は写真の花である。不覚にもなんという花かは嵐がやってきて確認できなかったが、持統天皇のようではないだろうか(大変失礼かもしれないが)。

 ひびきあう旅① 10/10

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月にあいさつする!(ひびきあう旅① 9/10)

2013-07-23 | 第四章「愛とゆるし」

 昨晩は満月。八王子は夕方から夜になると雨が降り、あ~あと想っていたら、そのうちに晴れて来た。写真は午後11時ごろの月。ちょうど満月であった。

 今年は、私の生き甲斐の心理学勉強会では月をとりあげで楽しんでいるが、月を意識すると人生も楽しくなる(特に日本人にとっては)。そして、私の場合は旅行に行くときは、必ず月の暦を調べる。今年は、東北の遠野に行った時が満月で、仲間と夜更けに綺麗な月を観たときは感動したものである。

 さて、7-8世紀の日本の原型を調べている私であるが、当時の政権にとって月というのは不思議な位置づけだったようだ。古事記や日本書紀の日本神話には月は月読命で一応登場するが、とてもそっけない。富士山もそうだが日本人に愛されている月について殆ど書かれていない。しかし、万葉集を見ると全然ちがう。月に関する名歌がめじろ押しである。私の好きな歌を2-3挙げてみよう。

 まず、持統天皇: 北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて (万葉集1-161) 

 天武天皇が崩御された後の悲しい歌であるが、持統天皇が月に喩えられているようで不思議だ。北山にたなびくのは北極を目指す天武天皇を暗示しているのだろう。

 次に、柿本人麻呂: 天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ (万葉集7-1068)

 昨晩の月とは違い三日月だと思うが、1300年以上前の人が作ったとは思えない新鮮な歌だ。

 ちょっと時代を遡るが、斉明天皇の時代で征西の戦いにつながる歌を額田王が書いている。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  (万葉集1-8)

 月に、ちょっとあいさつをするような、そしてその瞬間に何かが立ち上がるような歌。今も昔もあまり変わらない詩の真実があるようだ。

 ひびきあう旅① 9/10

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持統天皇の吉野へのひびく旅!(ひびきあう旅① 8/10)

2013-07-22 | 第四章「愛とゆるし」

 持統天皇の政治家としての業績は抜群であるが、その一方日本書紀の記録をみると、吉野に31回(在位中)も行幸をしていて、持統天皇研究家にとってはの謎のひとつである。何で奇妙な行動をしたのだろうか?

 壬申の乱で、殆ど裸一つで持統天皇は天武天皇についていったのが吉野であり、また、天武天皇の時の後継者問題をほぼ解決した(6皇子の誓い)のも吉野である。それゆえに、なにがしのセンチメンタルで吉野行幸を説明する人も多い。ただ、優秀な政治家でもあった持統天皇を考えると私はちょっと説明不足かなと思えてしまう。

 様々な説がある、権力争いでの活動拠点(軍事的?)とか、ただ私は、吉野裕子氏の道教や風水等の知識からの説明に深く納得する。また、今朝梅原猛氏の「水底の歌」(下巻57~81P)で書かれている藤原不比等と持統天皇の政治的関わりに興味を覚えている。

 持統天皇は、謀略が蔓延る当時の政界で生き残っていく。その為には、アイデンティティの統合に優れ(例えば道教思想もあるだろう)、現実吟味力に優れ(その時々の政治的判断)、そして心の防衛機制をほどよく開放していなければならないはずだ。持統天皇を何か精神的に不健全でオカルト的に説明する方もいるが、私はありえないと思う。

 藤原京からの辰巳の方向に吉野宮滝が位置する。これは、実に道教思想からきている。しかも、吉野宮滝は写真のように、桜の吉野といったイメージではなく、中国の神仙境のイメージ。さらに、吉野宮滝は縄文時代の遺跡も発見されていて、当時にあっても聖地そのもの、今でも天女伝説が残っているとのことだ。

 持統天皇は、自分自身で吉野宮滝の歌を残していないが、柿本人麻呂や藤原不比等等が、持統天皇に捧げる歌や漢詩を残している。持統天皇は吉野宮滝で祈りをささげ、こころを新たにされるのだ。

 今日は、一流として評価されている、藤原不比等の漢詩を懐風藻(江口孝夫全訳注 講談社文庫)からご紹介しよう。写真を見つつ味わっていただいたらどうだろうか。

 文を飛ばす山水の地 
 爵を命ず薜蘿の中 
 漆姫鶴を控いて挙り 
 柘媛魚に接して通ず 
 煙光巌上に翠に 
 日影潸前に紅なり 
 翻って知る玄圃の近きを 
 対翫す松に入る風 

(現代語訳)

 吉野のこの絶勝の景を賞でて文をつづり

 葛かずらの茂みの中で酒宴を用意させる

 昔この地で漆姫が鶴に乗って天上に去り

 柘植姫は魚と化し男に近づき情を通じた

 岩の上にもやが立ちこめ、翠はおぼろに

 岸のあたりは日がさして紅に映えている

 ここはむしろ天帝のおられる崑崙に近く

 松に吹く風を心ゆくばかり観賞している



 恐らく持統天皇は激務の中で、忙しさのため心を亡くすのではなく、吉野宮滝で心からの祈りを忘れず、内的にも開放されていったのだろう。

 ひびきあう旅① 8/10

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