昨日は、久しぶりのオフでもあったので近くの電気量販店にふらっと寄ってしまった。スマホの調子も悪かったので、また最近流行りのタブレットなどを覗きたかったこともある。ところが、店員さんのセールストークにふらっとし、帰宅するときは、新しスマホとピッチとタブレットの三種類を手にしていた。機能的にはかなりアップグレードし、使用料も今までより安価。いうことないのであるが、これにより設定や慣れるまでの手間が随分かかってしまう(涙)。
そして、寝不足の朝がやってきた。
結構忙しいのに、いい年しているのに、これって何なのだろうか。浮世に生きることは結構大変(でも楽しいが)。
さて、浮世の反対は、聖地ではないだろうか。そして、私はこの一年半くらい、いろいろ聖地を旅している。健康で、まだ働いているという幸運もあり、身の丈というよりちょっと背伸びな感じで旅している。中欧の大聖堂、聖堂、尊敬しているフロイトやカフカの足跡や記念館をたどった。台湾は、今となっては身内でも語られることのない大伯父さんのお墓参りと足跡も訪ねた。歴史の中で翻弄される聖地でもあった。
伊勢・奈良・飛鳥・吉野・京都・大阪・出雲の聖地を訪ねての素晴らしい旅行。
東日本大震災の影響が強く残る東北への旅行も深い魂のひびきがあった。
最近の奈良・関西旅行は、生き甲斐の心理学の楽しい仲間との旅。その旅の中で、ぼんやりとしていたものがだんだん明確になっていく。
聖地は密かなブームのようである。世界的な村上春樹氏の著作の題名は「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」。シニア世代も聖地に関心が高い。やはり精神力動で強い影響のある聖地を外して、今の世の中、心の健康は語れないのではないだろうか。
聖地の魅力は何だろうか。やはり、聖地には聖人・偉人の足跡や魂の物語があることだろう。そこで、心を寄せる聖人・偉人が味わったであろう何かを自分の中で消化する。そして、聖人・偉人が、そこで変わっていったように、私自身も何かが変わっていく。
昔、学んだ市川亀久彌先生の等価変換創造理論風に言うと、感動のシミュレーション体験としての聖地なのだろう。生き甲斐の心理学流にいうと、聖地はストレス曲線を幸福曲線に変換する何かなのであろう。
聖地研究は宗教・哲学の魂の領域の世界かもしれないが、心(生育史)の問題として比較宗教学をベースにした臨床心理学(世界的には主流ではないだろうか)からのアプローチも有意義だと思う。U先生の生き甲斐の心理学のブログを考察しつつ、ちょっぴり冒険してみたい。
私自身も拙い経験をしたが、聖地で人生が変わったという方も少なくない。浮世から離れ(もうスマホやタブレットからは離れられないけど・・)、聖地の旅をしばらく考察していきたい。
ひびきあう旅① 1/10