イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

≪健康感≫は身体が調子悪くても得られる!(健康に生きる 5/10)

2011-04-25 | 第九章「愛」

 暗い感情の後ろには、明るい感情が隠れていると言われる。不安の後ろに平安感。怒りの後ろに友好的感情。鬱の後ろに、幸福感、錯乱の後ろに統御感。

 そして、身体的症状が現れる不健康感の後ろにも健康感がある。

 8年前に28年勤めた会社を辞めてから、福祉の仕事をした時期があり、そして今もボランティアを時折している。そんな中で教えてもらったことは、持病や障がいを持った人でも、驚嘆に値する健康感を持って、健康な人と同様に活躍する人がいるという事実である。

 寝たきりになっても、終末医療の中でも、なかなかできない他人のケアに心をくだき活躍されている人もいらした。

 生き甲斐の心理学を学ぶ学友で持病を持った方に、私は健康感を大切にしている。と教えられたことも。

 健康感が得られるには、3つの要素があると言われる。①アイデンティティの統合 ②防衛機制がある程度解放される ③現実吟味力が正常

 今日は、この中で現実吟味力について考えたい。この中には、自分と他人の問題を切り分け、自分は自分と悟ることが含まれている。

 先日、仕事の直前に立ち寄った動物園。小雨が少し降っていた。時間が余り無く動物にも充分会えなかったが、遠くのキリンがカメラを新しくした為か綺麗に撮れた。

 二匹のキリンが、高い場所のえさを仲良く食べているのだろうか?

 大震災で、人のこころが荒んでいるなか。ゆったりと、Going my way! 現実吟味力の意味を考えさせられた。

健康に生きる 5/10

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蝶、無防備ゆえの強さ・・・(健康に生きる 4/10)

2011-04-24 | 第九章「愛」

 多摩動物公園で、好きなスポットの一つは、昆虫館である。様々な種類の蝶と出会えるのでお薦めである。

 動物園というと、ライオン、トラといった猛獣、チンパンジーやオラウンターなどの類人猿、パンダやコアラなどの可愛い動物などを想い浮かべる人が多い(私もかつてそうであった)が、昆虫も動物なのである。

 そして、人工的に孵化した沢山の蝶やホーバリングするハチドリの居る昆虫館に一度立ち寄ってから、やみつきになった。紫の羽の蝶が特にお気に入りである。幼少のころ、少年時代と庭の蝶を取ったりしたが、こんなに美しい蝶をみたのは初めてだった。

 やみつきというのは、心理学でお馴染みのカールロジャースの人格形成論の4番目の命題にもあるが、もうやめられない(わかっちゃいるけどやめられない)。という現象なのである。そして、昨年、多摩動物園の年間パスポートを購入した最大の動機かもしれない。

 しかし、蝶は他の動物と比べ、とても無防備だ。か弱い存在というか、独特である。

 生き甲斐の心理学を勉強していると、必ずこころの防衛機制を勉強する。これは、厳しい現実のなかで、こころが病むのを防衛し、ある意味健全に過ごすためのこころの安全弁の機能と言ってもよいかもしれない。

 厳しい現実の中で、人は(私はといってよいかもしれない)、他のことに逃げたり、合理化したり、居直ったり、いろいろする。フロイトは14種類に分け、それが今でも有名でもある。抑圧、抑制、昇華、合理化、感情転移、置き換え、知性化、退行、逃避、同一化、摂取、投影、反動形成、補償。

 ただ、こうした防衛機制が働くと、メリットも当然あるが、デメリットも状況次第で発生する。人間的な成長の妨げになったり、人間関係がぎくしゃくしたり・・・木を見て森を見ない・・・なんてこともあるかもしれない。こころの自由さが失われるのは確かなようだ。

 蝶は無防備に感じられる。しかし、無防備故の強さもあるようだ。厳しい40億年の生命の歴史の一員であることも確かだ。無防備ゆえの自由さといったことなのだろうか。

健康に生きる 4/10

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自分史を肯定的につくってみて!(健康に生きる 3/10)

2011-04-23 | 第九章「愛」

 東日本大震災と原発問題で、人それぞれのリアクションがある。私も、恐らく他人様から見ると、独特に見えるのだろう。それには、深く人それぞれの成育史が関係しているように思える。

 海外では、日本の被災時の整然とした動きに驚嘆の念を抱くようだ。あるいは、言われてみないと意外と気づかないが、被災地の混乱の中で、学校がいち早く動き出したり、孤児の方々への対応などを見ると、日本人の無意識的な子供を大事にする文化に気づく。

 さて、昨日の勉強会で、この成育史を勉強した。成育史を考える時に重要なのは、歴史の人物(例えば持統天皇)を調べる時と同様に、年表と系図が重要な働きをする。

 心理学を勉強する人は、他人の事例など勉強したりしても勉強にならない。世界の常識は理論武装は、まずは自分のことを勉強するようだ。理論(例えばエリクソンの人格形成論)を自分に当てはめて研究する。その中で、理論が分かってくる(実感する)。

 昨日は、以前作った自分史。特に時代背景の年表を中心に楽しんだ。家に帰って、もう一度自分史を振り返ってみると、何と自分は逞しく生き抜いて来たのだろうかというような、自画自賛気分が湧いてきた。まあ、自己肯定的になるのは、自己否定的になるより良いようだ。その中で、自分に対する感情が泉のように湧き、生きるエネルギが溢れる。

 写真は、先日行った多摩動物公園のウォーキング イン バードケージで撮った写真。何と言う鳥なのだろうか、小さい鳥だが近づいてきて鋭い声で鳴いた。不思議であった。今日も仕事の前に動物園に寄ってみよう。

健康に生きる 3/10

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健康もビッグワード、ビッグワールド!(健康に生きる 2/10)

2011-04-22 | 第九章「愛」

 昨日は、実質3回目の≪うきうき太極拳≫に楽しく参加した(主催者側の面もあるが・・・)。さらに、復活祭前で聖木曜日なので教会のミサにもあずかった。そして、昨晩は実に、心身共に心地よく眠りにつくことができた。

 きっと、とても健康的な一日だったのだろう。

 さて、健康は昨日お話したビッグワードの一つだと思う。ビッグワードの証拠に、その定義は、例えばWHOでいろいろ議論されていても、1948年の憲章前文からまだ改定されていない。1999年に次のような提案がされていているが、この何処が議論を生んでいるのだろう。スピリチュアルという言葉などだろうか。

 Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

(健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない) 以上ウィキペディアより。

 「健康とは各人が健康と考えるものである」と定義して、その多様性を楽しんだ方がよいかもしれないが・・・

 こころの健康という観点で、生き甲斐の心理学の理論を考えてみると、味わい深い。精神的に良好な状態かどうかを、プロセススケールで一応計ることができる。あるいは、不健康な状態、病理の定義もあったりする。臨床心理学の100年の歴史は、世界の健康の定義にきっと貢献しているのだろう。

 昨年生まれた3匹のアムールトラ。一匹は残念ながら病気で亡くなったが、二匹は成長し、身体も急激に大きくなってきた。身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態なのかもしれない。

健康に生きる 2/10

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幸福とか、愛とか、ビッグワードとのお付き合い!(健康に生きる 1/10)

2011-04-21 | 第九章「愛」

 広い概念をもつキーワードをビッグワードというらしい。例えば、幸福とか愛とかは横綱級のビッグワードではないだろうか。こうした言葉は、以前サラリーマン時代を振り返れば、余り使わないのが常識だった。人によって捉え方が違うので、ヘンに使うと混乱を招きやすい。

 しかし、良く考えれば、日常のちまちましたスモールワードや、かなり狭い自分流のビックワードの中に住み続けて居ると、どうも人間のスケールが小さくなってしまうようだ(自戒をこめて)。

 青年のころに、愛とは何かとか、幸福とは何かとか、人生は何かなど、考えた同じ人間が40歳ころには、そんな言葉を使うことが気恥ずかしく感じられてしまう。それで、自分の自己実現は?などとセミナーの時に問われると、飼いならされたような平凡な目標モドキしか浮かばなくなる。

 これで良いのかというのが、当時の疑問であった。

 生き甲斐の心理学を勉強し始めたのは、50歳近くになってからであった。そして、不思議なことに、愛とか幸福とか、いろいろなビッグワードを生き甲斐の心理学は使い、それを楽しむ。

 ところが、例えば、生き甲斐の心理学で定義される愛などは、<各個人が愛と思うことが愛である>と一風変わっている。哲学的・神学的なカッコ良い定義では決してないので、面食らってしまう。

 ビッグワードを多様性そのもので捉える。それが流儀だ。

 では、その漠としたビッグワードを生き甲斐の心理学の学徒はどう扱おうとしているのだろうか?自分はどうか?

 例えば、幸福という言葉がある。これを、感情的に捉えるのが一つだろう。幸福感というと、より体感的な感情の世界が出てくる。それから、自分で考えられるロジック。幸福の構造・条件みたいなロジックの世界もある。これは、感情の世界からかけ離れ、真理の世界に近いかもしれない。ある意味で素晴らしい世界でもあるが。

 人間が身体と成育史と魂からなると仮定すると、幸福という捉え方も身体的、成育史的、魂的な捉え方もでてくる。美味しいものを食べる幸福感。それもある。例えば両親に刷り込まれた生き方から出てくる幸福感。そして、宗教的な幸福感というのもあるように思える。そして、これらは、幸福という世界でどこかで統合されるものだろうか?そんなことも考えてしまう。

 その他に、正常か病理かなど、いろいろな切り口がある。また、何かを信じて見える世界、見えなくなる世界もある。何か信仰を持つ人とそうでない人との差というのもあるように思える(どちらが良いかということではなく)。

 自分にとって幸福とは何か?不思議の国のアリスのように昔は戸惑ったが、今は生き甲斐の心理学を学びながら、その意外と科学的なフレームワークで考える楽しさを知り、ライフワークのようになりつつある。

 ビッグワードは生涯を通じてじっくり考えるに値する世界なのかもしれない。 

 健康に生きる 1/10

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