昨日は、父の命日で久しぶりに母と兄弟揃って、教会のミサに与かった。神父さんのお説教を聴いていたら、10月1日は聖テレジア(幼いイエスの)の日であることを知った。
不思議なことである。
10月1日は父の命日であり、長女のクリスチャンネームの聖人の日でもあった。そして、もうひとつ5年前に28年勤めた会社を辞めての初日でもある。
40歳の私であれば、恐らくこうした「偶然の一致」に関心がなかったであろう。人生の上り坂では、偶然に関心を寄せる暇はなかったようだ。自分で切り開く!そして、自分の死はよそ事である。
それが、中年を過ぎ人生の分岐点を過ぎてくると、ちょっと違ってきた。
源氏物語では光源氏が政争の中で落ちぶれ、明石に身を寄せる時期がある。その後、偶然(夢など)に人生が反転し、返り咲きしていく。比較は難しいが、人生が自分の力ではなく、不思議な偶然によって決定されていくことに気づくと、「偶然の一致」に対する感受性が変わるようだ。
ある「偶然の一致」を、無意味=確率の問題等、と考えるか、意味あり=神秘、恩寵等と考えるかは本人に任されていると思う。どちらを取るかは、その人の人生観に大きく依存する。今の私は後者である。
そして、その「偶然の一致」をさらにどう思索するかも重要なようだ。普段得がたい幸福感を得られることもある。
<日常の現場4/4>
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