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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

晩年の絶望感に押しつぶされない!(こころの自由7/10)

2016-10-12 | 第十章「今ここでの恩寵」

 最近、健康診断で少し脅かされたこともあり、年相応の身体への気遣いなどをしている。さらに、縄文小説の結末(主人公の死やその後)あたりも何となく歯切れが悪く鬱々としていた。さらに、電子書籍やオンディマンド印刷など縄文小説の配布方法を考えると、やはり初めてのことでもありストレスを感じる(楽しいことも多いが)。

 エリクソンによると、60歳を越えると、知恵、自我統合性、絶望感の三つが重要な年齢となり、しかも今のようにストレス曲線が身体的症状あたりを彷徨うようになると、「生き甲斐の心理学」の知識がないと本当に絶望感に浸りきってしまうようだが、運よくこのストレス曲線も幸福への糧と習っているので、解決方法(今までの事例)を自己事例からいろいろ考えてみた。解決・解放すると理論的には幸福感にたどりつくはずだ。

 先日の、さきたま古墳群散策の旅であったが、写真は愛宕山神社のあった古墳は印象的であった。古墳(1400年前とか)の山頂に時代は異なるが、道祖神?お地蔵様が不思議な調和の中で祀られていた。多摩の縄文遺跡のそばにも道祖神等がよく祀られていて、聖地とされているところは祈りの文化が面々と続いてるんだなと不思議な気分になる。

 そして、昨日、今日に何となく気が付いたのだが、縄文小説を執筆する中で無意識に絶望感の問題を追及していたなと思った。特に昔のさまざまな神話に創造神をいろいろ模索していることだ。宇宙を創ったのは誰か、何かというテーマだ。一神教では「私はある」という神だったりするが、多神教とかアニミズムと呼ばれている地域の神話の中にも、それらしい神様が登場する。東南アラスカではワタリガラスが創造神だったりする。中国の盤古、日本ではなんだろうか。そして、それを思索することでちょっとした幸福感に浸ったりする。

 晩年とか終末の問題を考えていると、反対に誕生(例えば宇宙の始原も)に興味をもつようになるようだ。

 それから、昨日は老人ホームに母に会いに行ったが、私の生後6ケ月の孫を連れて行ったので、とても喜ばれた。老人と赤ちゃんという組み合わせは、幸福感を産む神秘的な組み合わせかもしれない。

 私の漠とした縄文小説の結末も昨日一応けりがついたようだ。知恵、自我統合性、絶望感、身体的症状、を幸福感に結び付ける知恵として、小説を脱稿することも関係が深いかもしれない。

 それから、私は創世記の次の言葉が大好きである。この言葉を読むといつでも幸せになる。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」

こころの自由 6/10

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