八岐大蛇の話からここまで展開してきたが、このあたりで一度整理しておこう。素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団がいて、素戔嗚尊をリーダーとする集団がその先住集団を退けた。それが八岐大蛇の話であった。この先住支配集団は出雲においては荒神谷や加茂岩倉で青銅祭器を埋納した集団であり、因幡においては青谷上寺地の集団であった。そして朝鮮半島から渡来して伯耆の妻木晩田に勢力基盤を築いた集団こそが素戔嗚尊をリーダーとする集団であった。素戔嗚尊は伯耆や出雲の先住支配集団を退けた後、出雲に進出してこの地の雄となった。
素戔嗚尊は出雲で銅剣や銅矛を祀っていた集団を制圧した。そして荒神谷遺跡のところで見たように、この銅剣・銅矛は北部九州とのつながりを想起させる。子供の頃に学んだ銅剣・銅矛文化圏である。そしてここで思い出すのが素戔嗚尊と天照大神による誓約の話である。天照大神は素戔嗚尊が持つ十拳剣を三段に折って天眞名井の水ですすいで清め、噛んで砕いて息を吹いた。その息から生まれたのが田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三姉妹、すなわち宗像三女神である。天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子である」と言った。これは宗像三女神が素戔嗚尊グループに属していることの現われであり、北部九州と出雲のつながりを想起させることを先に書いた。宗像一族は北部九州にあって朝鮮半島や大陸との航路を押さえていた海洋族であり、彼らはさらに北部九州と出雲をつなぐ航路をも押さえていたと考えられる。
魏志倭人伝には不弥国の次に投馬国への道程が記されており、私は不弥国を福岡県飯塚市の立岩遺跡群に比定し、投馬国を出雲に比定している。飯塚市は宗像一族の本拠地である宗像地方にほど近く、また古代においては天然の海洋基地である遠賀潟を抱えていた。もしかすると宗像一族の拠点であり、不弥国王の後裔が宗像氏になっていったのかもしれない。いずれにしても倭人伝に記された不弥国と投馬国のつながりはそのまま宗像と出雲のつながりになり、両者をつなげるものが銅剣や銅矛を祭器とする祭祀であったと考える。
そしてここに割って入ったのが素戔嗚尊である。素戔嗚尊は不弥国(宗像)とつながっていた投馬国(出雲)を制圧した。これによって素戔嗚尊は結果的に宗像一族をもその影響下に置くことになった。これが天照大神との誓約の結果に反映されているのではないかと考える。
そして、銅鐸について大きな疑問が残ることになる。銅鐸は近畿を中心に各地に広まり、いわゆる銅鐸文化圏が形成されていったと考えられているが、この考えに基づけば銅鐸が加茂岩倉や荒神谷で出土したということは銅鐸を祭器とする文化が出雲にまで伝わっていたことになる。しかし、同じ青銅器である銅剣・銅矛ついては鉄製の剣や矛を作る能力があったからこそ、それ以前の武器である銅剣・銅矛は自らの意志で祭器として製作・利用し、そして自らの意志で埋納した。とすると、銅鐸についても同じ発想をする方が納得がいく。すなわち、銅鐸は他の地域から与えられたものではなく、自ら製作して祭器としていたのではないか、と。そう考えると、銅鐸は出雲が発祥の地かも知れない、ということになる。記紀で全く触れられることのない銅鐸については別の機会に詳しく考えたいと思う。
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素戔嗚尊は出雲で銅剣や銅矛を祀っていた集団を制圧した。そして荒神谷遺跡のところで見たように、この銅剣・銅矛は北部九州とのつながりを想起させる。子供の頃に学んだ銅剣・銅矛文化圏である。そしてここで思い出すのが素戔嗚尊と天照大神による誓約の話である。天照大神は素戔嗚尊が持つ十拳剣を三段に折って天眞名井の水ですすいで清め、噛んで砕いて息を吹いた。その息から生まれたのが田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三姉妹、すなわち宗像三女神である。天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子である」と言った。これは宗像三女神が素戔嗚尊グループに属していることの現われであり、北部九州と出雲のつながりを想起させることを先に書いた。宗像一族は北部九州にあって朝鮮半島や大陸との航路を押さえていた海洋族であり、彼らはさらに北部九州と出雲をつなぐ航路をも押さえていたと考えられる。
魏志倭人伝には不弥国の次に投馬国への道程が記されており、私は不弥国を福岡県飯塚市の立岩遺跡群に比定し、投馬国を出雲に比定している。飯塚市は宗像一族の本拠地である宗像地方にほど近く、また古代においては天然の海洋基地である遠賀潟を抱えていた。もしかすると宗像一族の拠点であり、不弥国王の後裔が宗像氏になっていったのかもしれない。いずれにしても倭人伝に記された不弥国と投馬国のつながりはそのまま宗像と出雲のつながりになり、両者をつなげるものが銅剣や銅矛を祭器とする祭祀であったと考える。
そしてここに割って入ったのが素戔嗚尊である。素戔嗚尊は不弥国(宗像)とつながっていた投馬国(出雲)を制圧した。これによって素戔嗚尊は結果的に宗像一族をもその影響下に置くことになった。これが天照大神との誓約の結果に反映されているのではないかと考える。
そして、銅鐸について大きな疑問が残ることになる。銅鐸は近畿を中心に各地に広まり、いわゆる銅鐸文化圏が形成されていったと考えられているが、この考えに基づけば銅鐸が加茂岩倉や荒神谷で出土したということは銅鐸を祭器とする文化が出雲にまで伝わっていたことになる。しかし、同じ青銅器である銅剣・銅矛ついては鉄製の剣や矛を作る能力があったからこそ、それ以前の武器である銅剣・銅矛は自らの意志で祭器として製作・利用し、そして自らの意志で埋納した。とすると、銅鐸についても同じ発想をする方が納得がいく。すなわち、銅鐸は他の地域から与えられたものではなく、自ら製作して祭器としていたのではないか、と。そう考えると、銅鐸は出雲が発祥の地かも知れない、ということになる。記紀で全く触れられることのない銅鐸については別の機会に詳しく考えたいと思う。
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