書紀には饒速日命が登場する場面が3カ所ある。1ケ所目は神武が東征を決意した場面。神武は塩土老翁から「東の美し国に天磐船に乗って飛んで降りた者がいる」と聞いた。そして「その土地は天下に威光を輝かせるに相応しい場所で国の中心となるだろうから、その土地へ行って都にしようではないか。その土地に飛び降りた者は饒速日である。」と兄や子供たちに説いたのである。2カ所目は神武東征の最終場面。長髄彦が神武に使者を派遣して「自分は天神の子である櫛玉饒速日命に仕えているが、天神の子がなぜ二人いるのか?あなたは偽物ではないか」と問うた。互いに天神の子である表物(しるし)を見せ合って本物であることを確認したが、長髄彦が戦う意思を変えなかったため饒速日命は長髄彦を殺してしまった。書紀はこの記述に続いて饒速日命が物部氏の祖先であることを記している。そして3カ所目は神武が即位して31年目。国内を見て回った天皇が「なんと良い国を得たのだろう」と言い、この国の様々な呼称を紹介する中で、饒速日命は天磐船に乗って大空を廻り、この国を「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と言った、とある。
つまり書紀は、饒速日命が神武よりも先に奈良盆地に降臨した天神であることを明かしている。これは3つのことを意味しており、第1には饒速日命は神武よりも先に奈良盆地を治めていたということ、第2に饒速日命は天神、つまり神武同様に大陸から日本列島にやってきた渡来人であること、そして第3に、本来は敵であり同じ天神である饒速日命の存在を明かす必要がないにも関わらず登場させたのは、書紀編纂当時、編纂を指示した天武天皇あるいはそれを受け継いだ持統天皇をもってしても隠しようのない事実であったこと、この3点だ。二人の天神は表物である天羽々矢と歩靫(かちゆき)を見せ合ったところ、神武のそれが勝っていたからであろう、饒速日命は神武に降伏したという。饒速日命はいったいどこから来たのであろうか。
古事記においては「邇藝速日命」と記されるが、登場シーンは神武東征の最終場面のみである。「邇藝速日命が神武に対して、天津神の御子が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た、と言って天津神の印である宝物を神武に献上した」となっており、書紀と少し違う表現であるが、これ以上のことは記されていない。高倉下のところで参照した「先代旧事本紀(以降、本紀と記す)」および「海部氏勘注系図(以降、勘注系図と記す)」をここでも見てみよう。
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つまり書紀は、饒速日命が神武よりも先に奈良盆地に降臨した天神であることを明かしている。これは3つのことを意味しており、第1には饒速日命は神武よりも先に奈良盆地を治めていたということ、第2に饒速日命は天神、つまり神武同様に大陸から日本列島にやってきた渡来人であること、そして第3に、本来は敵であり同じ天神である饒速日命の存在を明かす必要がないにも関わらず登場させたのは、書紀編纂当時、編纂を指示した天武天皇あるいはそれを受け継いだ持統天皇をもってしても隠しようのない事実であったこと、この3点だ。二人の天神は表物である天羽々矢と歩靫(かちゆき)を見せ合ったところ、神武のそれが勝っていたからであろう、饒速日命は神武に降伏したという。饒速日命はいったいどこから来たのであろうか。
古事記においては「邇藝速日命」と記されるが、登場シーンは神武東征の最終場面のみである。「邇藝速日命が神武に対して、天津神の御子が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た、と言って天津神の印である宝物を神武に献上した」となっており、書紀と少し違う表現であるが、これ以上のことは記されていない。高倉下のところで参照した「先代旧事本紀(以降、本紀と記す)」および「海部氏勘注系図(以降、勘注系図と記す)」をここでも見てみよう。
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