古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

筥崎宮(北九州実地踏査ツアー No.17)

2018年01月11日 | 実地踏査・古代史旅
いよいよツアー最終日。この日は前日の大分八幡宮に続いて、筥崎宮、香椎宮、高良大社、宇佐神宮と、応神天皇や神宮皇后ゆかりの神社を訪ねる予定だ。また、平塚川添遺跡、小迫辻原遺跡といった邪馬台国を考える上で重要な遺跡にも行く。さらには今回のツアーと主旨は違うが、踏査ルート上にある耶馬溪の「青の洞門」にも立ち寄ることにしている。

朝7時半にロビーに集合し、ホテル前のコンビニで朝ごはんを買って出発。まずは車で15分ほどの筥崎宮。ここは9月に来たばかり。長くて広い参道を佐々木さんと岡田さんにも歩いてもらいたくて神社から少し離れたところの駐車場に車を停めた。

筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水とともに日本三大八幡宮に数えられ、応神天皇、神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)を祭神とする。神社公式サイトの由緒によると、平安時代中頃である延喜21年(921年)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923年)に筑前の大分宮(穂波宮)より遷座したことになっている。筑前の大分宮とは大分八幡宮のことである。これをもって大分八幡宮が筥崎宮の元宮とされるのだ。

醍醐天皇はなぜ大分宮から筥崎宮へ遷座させたのだろうか。921年の神勅の少し前の907年、中国では唐が滅亡して五代十国の分裂時代に入る。また、9世紀以降、新羅が何度も北九州へ侵攻してきていた。さらに朝鮮半島では892年に南西部に後百済が、901年には北部に後高句麗が建国されて後三国時代に入った。9世紀から10世紀にかけての中国および朝鮮半島は動乱の時代であった。そんな状況下において醍醐天皇はその昔に三韓を征伐した神功皇后とその子である応神天皇(八幡神)を祀る八幡宮を博多湾に面する要衝の地に遷し、敵国降伏の宸筆を下賜したのだ。大分宮から筥崎宮への遷座は混乱する東アジアにおける日本国の国威発揚が目的であった。

ここで参道の中間地点くらい。


これは参道入り口の鳥居。でっかい。(前回訪問時の写真)


この鳥居をくぐると境内。


境内。(前回訪問時の写真)


神木「筥松」。(前回訪問時の写真)

楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松の木。神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」と言われる。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に由来する。

楼門に掲げられた「敵国降伏」の扁額。(前回訪問時の写真)

敵国降伏の宸筆について神社公式サイトには「本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。 縦横約18センチで全部で三十七葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。」と書かれている。

楼門の中にある本殿。中には入れない。(前回訪問時の写真)


境内に入ってすぐのところにある大楠の樹。

樹齢800年とされる。そういえば大分八幡宮にも大楠の樹があった。

ほかにも境内には「蒙古軍船の碇石」「亀山上皇の御尊像」「千利休奉納の石燈籠」などの見どころがあるが、このツアーの主旨とは関係がないので割愛して次に進もう。次の訪問地は香椎宮で、ここも9月に訪問したばかりだ。

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