人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

臓器移植について(7)

2023-02-18 09:51:18 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
我々人間というのは、野蛮時代は過ぎて
おりますからね。
その過ぎていってるというのは確かなんです。
だからこそ皆、世界平和の運動がどんどん世界へ
広がって行って、今、国連でピースセレモニーを
やろうというところまで来ている訳ね。
それは実現してゆくでしょう。
段々運動だけが宗教色を抜いて広まっていく
というのも、つまり、人類のね、人間の本心
というものを呼び醒ます為の先駆(さきが)け
なんですから。
で、先駆けというのは、私はここで一言
申しますけど、我々は祈りの先兵ではあっても、
だから我々が世界人類の中で選ばれたものなんだ
と思っちゃうと、これはいけないんですよ。
これはちょうどね、ユダヤ教が言ってますけれども、
メシア思想というのがあって、我々は神に選ばれた、
父なる神に選ばれた、世界中でたった一つの
イエスの民族だという選民思想があって、
彼らが驕(おご)り高ぶった為に、彼らはいろんな
苦労をなめますね。
いろんな禍とみえるものを神様が下して、そうして、
キリストをおつかわしになって、神様がという
ところまでものすごく時間がかかってましょ。
随分時間がかかってますよ。
愛なる神の本来の姿を出すまでにものすごく
苦労されたわけ。
だけども、我々は祈りの先駆けであるというのは、
そういう意味で驕り高ぶっちゃったら、
あれと一緒になっちゃう訳なんです。
人間が驕り高ぶったら、神性がね、神様の性質、
真実の性質、それが自分たちの中にちゃんと
あるのに、それが輝かないで、私が私が、
我が我がと我の世界が固まって、そうして
それが業をつくっちゃって、どうにもならなく
なっちゃうわけ。
動けなくなっちゃうわけ。
そうじゃなくってね、我々はそういう空気を
つくらせていただく。
そういう、おまえ先にちょっとやれと言われて、
それで、ハイと言って神様に仕えて人に仕えて
やっていく。
謙虚に自分を見つめ人を見つめ、人の心を
見つめ本心を見つめ、本心を掘り下げてね、
そうして、真理を喜んでね、光明というものを
喜んで、神様の愛、み心というものを喜んで、
そうして働いていく。
そういう意味の先兵なんです。

だから、我々に今一番必要なことは、私をはじめ
として、みんな神様の前に、神様のみ心の前にね、
謙虚にならなきゃいけないということなんですね。
神様、どうぞあなたの前に私を使って下さい。
私は生きてる時に何のとりえもなかった。
だが神様に素直になって、神様あなたに
私の生命を差し上げます。
だからあなたの思うようにして下さいという風に
私はあげちゃった。
だから、私は磔(はりつけ)になったのと一緒ですよ。
キリストの磔と一緒なのね。
だから皆の、五井先生どうしましょう、五井先生
なんてことしてくれたんですか、こんなことがある
じゃないですか、といって皆の苦を私は受けとめて、
今、法身になってますから、今、肉体を
離れてますからね。
光になってますから。
だから、それをちゃんと光にかえて、前よりは
もっともっと流しやすくなってます、光を皆の
ところへね。
だからといって、じゃあ私のようにしなさい
と言ったって、そんなになかなか捨てられませんよ。
皆仕事を捨てて家族を捨てて、何ものも捨てて
ただ一つの為にやっていきますなんて、そりゃあ
出来ないです。
ね、なかなかそりゃあ生活というのは大事なんです。

だから、捨てるということはなかなか皆出来ない。
しかし、その空気をつくるということは出来る。
私の愛する者から私を離れさせないで下さい。
それは人間の真実の叫びなんだけれども、そこ
だけに執着しちゃうと、本当の意味で皆の人類の
天命が完う出来なくなっちゃう。
空気が清らかになって、そういう想いも慰めて
励まして、そうしてさらに浄めてね、是か非か
だけの問題ではなく、我々だけが救われるとか、
あの人だけが救われるとか、その問題だけじゃ
なく、あの教義の中にあるように、個も救われ
人類も救われるね。
そうして、皆の想いを消してゆく。
大きな光明体なんだから我々は。
そういう自分が自分の中へ本体の中に眠ってる
ということ。
この肉体の奥にそういう自由な体が心があって、
我々のその気持ちを励ましているということ。
神様の愛が我々を励ましているということを
おもい知ってですね、そしてそこで、祈りを
ちゃんと心を込めてやっていけばなるんですね。
           (つづく)

臓器移植について(6)

2023-02-17 09:36:24 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を
例えすることがありましてもね、する方も
される方も、本当にありがとうございますと
受けとってね、それから、された人の方の記憶
というのもね、した方の記憶というのも、
それぞれの子孫につながって行きますよ。
今は、どうしても我々は、健康になった人の方の
生命、生活という方をやっぱり覚えていきましょ。
ね、心臓や肝臓の提供を受けたあの人のおかげで、
私の夫、子どもの生命が助かったんだと最初は
思いますよ。
で、忘れにくいとは思うけれども、しかし、
それで元気になってる我が子や主人とか娘や
息子とか見てゆく内に、やっぱり、その人の為に
その臓器を提供してくれた人の、それまで生きた
生命の過ぎゆきとかなどは何処かにいっちゃって、
目の前の人が元気になっていく、それだけの
人間になっていく訳なんですよ。
そうじゃない、やっぱりそれを提供してくれた
人たちへの感謝尊敬、怖れ慎み、祈り、そういう
ものがあって、その人の天命を祈るという
広い気持ちがあって、それでこそ本当に臓器移植
というものが完成される。
それがちゃんとなっていけばですよ。
そんな空気がちゃんとなっていけばね、
なるんでしょうけれども、今はまだそんな
深いところまでの議論になっていないんです。

だから、この問題というのは全く是か非かの問題
じゃなくってね、何かそういう人間の深い生命の
根元というところを見極めるところまで、人間の
眼差しがですね、本心がですね、そこへ到達
した時に初めて解決が出来る問題であって、
我々はじゃあ何をすればいいかと言えば、
そういう空気になるように、我々の祈りの光を、
世界人類が平和でありますようにという光をですね、
そこへ持っていかせる。
そこへ届くように、守護霊様守護神様神様
お願いします。
ね、調和のある平和な世界にして下さい。
その為に、我々の生命も、今死んでいこうと
している人も生まれて来る人も、死に行く人、
生きようとしている人、ありとあらゆる色んな
人の生命が、それぞれの場所において、
その根っこの深いところでちゃんと役に
立ちますように。
そういう祈りをですね、やっぱり我々は、
世界人類が平和でありますようにという
あの真言の中で、祈りの中でね、光明真言の中で
ちゃんと果たされていくように、おもいを集めて
祈りを集めてやっていかなきゃいけない。
それが我々の努めなんでありまして、これは
良いか悪いかの問題ではない。
そういう次元で解決するべき問題ではない。
          (つづく)

臓器移植について(5)

2023-02-16 09:22:14 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
実は、臓器移植がどうのこうのというよりも前に、
我々はこういうもっともっと深いところを
見つめて、その上で自分の存在の根元を
何処に求めるか、それは神に求めるんだ、
神様の愛に求めるんだという、その深いところを
見つめた人たちが、こういう是か非かだけで
侃々諤々やってる空気の流れをね、もっと
愛のある光のある平和に満ちた空気の流れに
変えていかなきゃならない。
本当のところを言えば、我々のなすべき仕事
というのはそれなんですよ。
臓器移植というものは、本当に必要があって、
その人の運命、生命に、あるいは器にとって
それがその時必要であれば、神様というのは
何が何でも臓器移植をさせると思うね。
あるいは、させられる人もする人も決まってる
かもわからない。
だけども、私がここで言いますのは、そういう
ことによって人間という尊厳に満ちた
この存在がね、つまり、神様というもの、
その根っこのところ親のところ大元のところを
忘れ果てて、何か品物を交換するみたいに生命
というものがただ単純に連らなっているんだ、
という風に思ってしまったら考えてしまったら、
非常に恐いことになる。
だから、そういう風潮になるのをくい止めて
いくというか、くい止めるその空気をつくる、
それが我々祈りの同士のやはり役目なのでは
ないかと。
         (つづく)

臓器移植について(4)

2023-02-15 11:40:56 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
我々の生命というのは、絶対な神様の愛、
生命から分かれてきてるものなんですね。
神様以外からこの生命というものは
出て来てないんです。
世界人類どの人一人とってもね。
例え、世の中にとても貢献をしてる人も、
あんな人がと思うような人の生命で
あってもね、裡(うち)の本心本体
というものは、皆神様から分かれて来ている。
だからそういう意味で言えば、皆
神の子どもでしょう。
そういう分け隔てのない公平な本心本体を
もってる、生命をもってる、我々の大元、
それは何から来てるか、それは神様からなんだ、
神様の愛なんだと。
何度もくり返して申しますけど、我々は
神の分生命であって、我々はこの地球世界の
運命修正というものを、それぞれの
持ち場持ち場でさりげなくやっていかなきゃ
なんない。
そういう大きな大使命みたいなものをおびて、
この肉体をまとって、ここへ生きて存在
してる訳ですよ。
だから、そういう大使命といいますか、何で
この世の中に、人間が何処から分かれて
何の為に生きてきたか、何の為に分かれて
来たか、その根っこは何なのか、という
ところをね、本当に謙虚に見つめ直した時には、
そこに怖れ畏(かしこ)みが出てくるんです。
慎みが出て来て、祈り心が出てくる訳なんです。

ところが、今の臓器移植の是か非かという
問題はね、そりゃあ色んな宗教家とか、
日本人の倫理観とか生命観とか、風土の違い
とかね、いろいろ議論しておりますけれども、
良いか悪いかの問題だけでこれは決められる
問題じゃない訳なんです。
良いか悪いかから出発して、いけないとは
言いません。
何故かというと、人間というのは、良いか
悪いかから出発しないと、悲しいことに
深いところへはなかなか行けないものでして、
そこから何か侃々諤々(かんかんがくがく)の
議論が始まって、随分曲がりくねって、やっと
深いところへそれぞれが到達するんです。
だから、今の議論が悪いとは言いませんけど、
今の議論というのはイエスかノーかなんですね。
良いか悪いかだけで片づく問題ではないのに、
良いか悪いかの次元でやってる空気では
困るんですね。
          (つづく)

臓器移植について(3)

2023-02-14 10:27:51 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、
そうじゃないんですよ。
例えばね、交通事故なんかでね、誰にも
働いて欲しい、もう五十や六十でこんな事故
なんかで向こうの世界へもっていかれるのは、
皆の為にも個人としてのその人の運命を
考えてもね、とてもたまらないという場合には、
守護霊様守護神様よろしくお願いします
と言ってですね、そして、臓器移植でも何でも
やって、何とかこの人の運命も、この人に関わる
いろんな人たちの運命修正も、この人を通して
この器を通してさせて下さいと、皆やっぱり祈る
と思うんです。
そういう臓器移植がね、やっぱりないとは
いわない。

ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならば
いいんですよ。
一人や二人ならば、そういう祈りに満ちた、皆の
祈りに支えられて、たとえ肉体の臓器移植
であろうと人工の臓器移植であろうと、そこに
霊要素的なものが加わって、本当の意味でその人が
真実に生きるというところへ持っていかされるし、
またそうなってるからいいんだけれども、これが
本当に今のようにね、イギリスに行かなきゃ
ならない、オーストラリアに行かなきゃなんない
という風な形で、皆が病んで病んで、たとえそれが
解決され進んでいったとしたところで、本当の
意味で、生命への畏れがなくなって来た時に、
それがこわいという問題が一つある訳です。
そうして、我々の立場からすれば、我々の生命の
元が何処にあるかということを、その大元を考える
ことを忘れたら、これは、臓器移植是か非か
という問題と同じ次元で議論しなきゃならなく
なる訳です。
            (つづく)