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アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

最後の猫(ニャン)

2024-01-07 | 世情もろもろ
 十二月半ばのブログに動物のことを書いた。その中には、猫(ニャン)のことも含まれ、我が家の猫はもう1匹で…と。そう、『最後の猫』だ。名前は「美瑛(びえい、通称、びーちゃん)。
 いつも何かしらの動物がいた我が家だったけれど、最近は犬も猫も、昔とは違い、かなり長生きをすることを考慮すると、今後は、遺していってしまう可能性も大いにある。だから、人生をこんなにも遠くまで旅してきた人々にとっては、犬であっても猫でも、『最後の犬』『最後の猫』になる。
…と、この数ヶ月は覚悟をしていた(つもりだった)。我が家の『最後の猫(ニャン)』は21歳である。人間に換算すると90歳ほど、それを越しているかも…。
 1月4日、朝9:30、ニャンが逝った。
 その日から、結構、いや、相当に辛い。「覚悟をしていた」も、何も、この状態は本当に、ペットロス。文字を綴れば吹っ切れるか、書くことはいつも私を救ってくれた―と、綴ってみる。
 1月5日と6日、連日で、筋トレに行った。人と話さず、じっとしていると、呼吸が苦しくなる。仲の良い仲間の二人とジムで会った。ニャンのことを話す。
「同じだ」
と、一人が言った。
彼女も11月に愛犬を亡くした、その後、胸が苦しくなる、呼吸ができなくなる、そんな日々が続いたので、あえて、毎日、ジムに来ていたと、言っていた。
 たかが犬、たかが猫―ではない。
 筋肉は筋トレで痛めつけられて、回復に48時間、回復と同時に筋肉がついていくのだから、最短でも1日置きが理想的なのだけど、心、気持ち、喪失感の回復には、毎日行こうか、違う世界で、仲間に会う、話す、気持ちが落ち着く―と、連チャン筋トレをしたけど、一番の解決は、時間なのかもしれない。
 出かけて、帰宅して、いつも、「ニャー」と迎えに出てくる姿が無い。
「あゝ、もう居ないんだ」
と、思い知らされる。
 ニャンは12月初旬に鼻炎になった。猫は匂いを嗅いでから食べるので、鼻が詰まると一気に食べなくなる。しかし、食いしん坊のニャンだったので、食べようとはする。結局、病院へ。薬を出してもらい、5日ほどで、復活。モリモリ食べる。フワフワの毛並みが戻ってきた。
 21歳とはとても思えないほど若く、フワフワ体毛のニャンだったけど、病気になったら、一気に「おばあさん猫」になった。これは、人も動物も同じだ―と、我が身を顧みて思う。
 しかし、復活。けれど、油断はしない。21歳半だから…。
 暮れのあたりから、よく食べる日、その翌日はほんの少ししか食べない―その繰り返しになった。こちらはいろんな物を買ってきて与える。自分の食料品よりも、ニャンの食べ物の合計金額の方がいつも上だった(笑)
1/2頃から食べる量が減った。1/3はあらゆる猫の好物の猫ちゅーるもペロリとひとなめだけ。1/4、寝床から起きてこない。いつもは私より先に起きて、「ニャー、ニャー(ごはん~!)」。しかし、ここ1週間くらいは、起こさないと出てこないから、無理に起こすのはやめていた。自分の朝食を済ませて、ヒョイと見たら、寝床からはでて、寝転んでいるというよりは、倒れている…ような姿。「死んだ?!」(猫はこうして突然死んだりする)。耳は半年くらい前から聞こえないから、呼ぶときはどこか叩いて音をだす。あるいは歩み寄るこちらの足音の振動で気が付く。気が付いて、大きな声で、「ニャー!」と力強く鳴いた。抱き上げると、前足をちょっとバタバタさせて、しっかりとしがみついてきた。その時、こちらの目をしっかりと見た。強い視線だった。こちらもしっかりと見つめる。動物は逝く時、飼い主の目をしっかりと強い眼差しで一瞬見つめる―何回か経験してきた。
それが、終わりだった。布団に寝かせて、耳は聞こえないから、ずっと、撫でていた。こちらは滂沱の涙。明るいのに、ニャンの眼の瞳孔が大きく丸くなっていて細くならない。もう逝くのがわかる。ちょっと苦しそうに前足をばたつかせた。「治して!」などとはもう、願えない。「あまり苦しませないで」と祈るしかない。呼吸が止まった。強い視線を交わしてから20分ほどだった。
 ジム仲間の愛犬はまだ、10歳で、2時間半も苦しんだと言っていた、それは、飼い主はより忘れられないだろう。
「親や身内が逝ったときよりも泣いた」
という彼女の言葉に同感。私もそうだ。その夜、入浴が出来なかった。呼吸が苦しい、ドキドキが止まらない、涙が自然にあふれ出て、わぁと声を上げて泣いてしまいそうになる。
 3日が経ったけれど、こうして2階の仕事部屋でパソコンに向かったりしている時は、まだ、少しは大丈夫そうだが、1階に降りていくと、ドキドキが始まる、胸が詰まる。
 宅配便や郵便配達のお兄さんたちと仲が良くて、すぐに出ていく。「猫ちゃん」「ニャー」「お母さんは?」(私のことである)「ニャー」と話を(?)している。
 昨日、ゆうパックが届いた。出ていき、サインをしている時、ゆうパックのお兄さんは庭の方をあちこちみたりしている。ニャンを探しているのだろう。聞かれたら、また、涙が出そうで、「聞くな~」と思っていた。
 逝った日、動物霊園からの迎えが来て、その車を、隣の奥さん(可愛がってくれていた)と合掌して見送ったあと、振り向いて、西の空を見た。1/3はどんより曇った寒い日だったが、この日は朝から、雲一つない濃い水色の空が広がっていた。その西空に、雲が3つ。
「真ん中の雲、猫が走っている姿に似ている」、彼女も空を見て頷き、私は「空に駆け上って行ったのかもしれない。親も兄弟も空の上だから」と続けた。雲はすぐに消えた。
 そうだ、空に駆け上って行ったのだ―と自分を納得させ、このペットロスの症状を早く克服しなくては…とは思いつつ、まだ、当分、ダメそうだが…。
 結局、猫でも犬でも、飼い主は、自分が世話をして育てているから、自分がいなくては「この子は生きていけない」とか、思っていても、心を支え、癒しを与えてくれているのはそばにいる動物の方なのだ。〞心の世話〞をかけている、そんな小さなものたちに。


                                   (2024/1/7) 

*昨年11/25に偶然撮影されたニャン。庭の花の写真をスマホ撮影している私についてきて、あちこちウロウロ。スマホが撮影モードになっていたので、指が触れたのか、シャッターが切られて、彼女(ニャン)が写った。そんな経緯の写真なので、被写体になったニャンは中央に居ない。これが、最後の写真になってしまった。





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