アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

比べてみたら・・。

2013-06-07 | その他
誰がああ言った、こう言った―等々をいちいち、マスコミが取り上げ、喧しく騒ぐのは、どうか…とも、思うが、言った人物が、政治関連や政権を握っていたりする人物となると、国際社会から、
日本はそういう国」
と、結論づけられるので、そういう人種(?)が公の場で口にしたことは、メディアに大いにとり上げてもらいたい。
そうしないと、ただでさえ、この国の行く末は、即、自分たちの生活そのものに関わってくるのに、諦めているのか、単に関心がないのか、日々、「どうでもよい」風に時間を通過させている国民の多くは、より、「どうでもよい風」に任せてしまうから…。
政権も、為政者も、そして、メディアも、本当は、私たちが監視していないといけない存在だ。
それで、
「結局、両者の性質や本質は同じだ」
と、結論した。
一連の騒動(?)の時から、
「よく似ているなぁ」
と思っていたけど…。
そうしたら、6/4の新聞(東京新聞「こちら特報部」)で、検証していた。
題して、
《「慰安婦」 本家は首相》…である。

『安倍氏は昨年九月の総裁選で橋下氏が現在、共同代表を務める「維新」との関係をアピールして存在を高めた。その後も改憲パートナーの橋下氏との接触を繰り返してきた経緯がある。』

人気がある所にすり寄るのは、政治家たちの常である。
なにしろ、選挙で当選することが、その後の政治活動よりも重大なのだから、すり寄る気持ちもわからなくはない(皮肉だけど、ね)。
…でありながら、慰安婦発言での橋下徹大阪市長へのあちこちからの火の手が自分たちにも及ぶのを避けるために(そのためだけに)、小野寺五典防衛相は、
「安倍政権はそのような野党党首(橋下氏)の発言や歴史認識にくみしない」―と強調したとのことだ。
けれど、さる2月に、安倍首相は、1993年の「河野洋平宣房長官談話」(旧日本軍の従軍慰安婦問題への関与と強制性を認めて謝罪した談話)を見直すことに、前向きな姿勢を示した。(河野談話の否定)。この時も米国はじめ、各諸国や、韓国や中国、アジアから、批判された。
また、4月には、1995年の「村山富市首相談話」(大戦中、アジアの人々に損害と苦痛を与えたと謝罪)についても、
「(安倍政権として)そのまま継承しているわけではない」と発言した(村山談話の否定)。
この時も米国を含めた国際社会の目は批判的だったことは言うまでもない。

『橋下氏は現在、「『日韓基本条約で法的に解決済み』と言っていることの方が、元慰安婦を傷つけている」「歴史問題を曖昧にしていることが一番の問題」と、安倍氏や自民党へのいら立ちを隠さない。
 たしかに橋下氏の心情は分からなくもない。元来、慰安婦問題で国内外を騒がせてきたのは自民党であり、その中心人物が安倍氏だからだ。』
と、検証の記事は続く。
もっともであるけど、慰安婦発言云々についての彼の謝罪の言葉は、無い。

安倍晋三という人物は、元々、変わった歴史認識の人であるようだ。
…というより、正しく歴史をとらえていない。
その政局への「デビュー」について、検証記事は語る。

『安倍氏の政局デビュ―は、村山談話を先取りした「戦後五十年決議」をめぐる攻防だった。
1995年の決議案採択の際、衆院本会議を50人以上の自民党議員とともに欠席。当時、衆院一期目の安倍氏は反対派議連の事務局長代理を務めた。
 97年には、故・中川昭一氏らと「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成し、事務局長に就任。従軍慰安婦問題にまつわる歴史教科書の記述や河野談話への攻撃を始めた。
 従軍慰安婦問題を裁く民衆法廷を扱ったNHK番組の改変問題でも注目を集めた。
2001年の放送前、NHK幹部が当時官房副長官の安倍氏と面会していたが、これを朝日新聞が2005年、安倍氏らが「NHK幹部に『圧力』」と報道。安倍氏らが「捏造(ねつぞう)だ」と反発する事態に発展した。
 首相になってからも歴史認識問題重視の姿勢は変わらなかった。
2006年の第一次安倍政権発足当初こそ、村山、河野両談話を継承する考えを示していた。
ところが、2007年3月、慰安婦徴用について「強制性を裏付ける証拠はなかった」と持論を展開。
直後には、これを追認する形の政府答弁書を閣議決定した。』

…で、橋下氏が「(慰安婦の)強制連行はない」と主張する根拠は、この政府答弁書であるから、
「なぁんだ~!結局、両者は同じだ」
と、呆れた溜息がでた。
似ているところは、米国にはペコペコするところ…か。
『性奴隷の問題をごまかしたり、元慰安婦には謝罪しないが、米国に対してはペコペコする姿勢もそっくりだ』―と、評論家の太田昌国氏は講演で語ったとある。

『前回の安倍政権時、安倍氏の「強制性を裏付ける証拠はなかった」という発言は、米国の怒りを買った。慌てた安倍氏は訪米時、ブッシュ大統領らに元慰安婦への「謝罪の意を表明したが、元慰安婦に直接謝ることはなかった。
結局、米下院は日本の首相が公式に謝罪するよう求める決議を採択。これが安倍氏退陣の一因となった。
 太田氏は「北朝鮮による拉致という国家犯罪を厳しく追及しながら、旧日本軍の人権侵害を低く見せ掛けようとする姿勢も米国には理解しにくかった」と説明する。
 さらに「自分の責任を問われると、歴史家などに判断を丸投げする」点も似ている。
橋下氏は、慰安婦問題などは「歴史家が議論することだ」と発言したが、安倍氏も国会で河野談話について「歴史の事実は学者が検討する」と答弁した。』
『NHK番組改変問題の際、同番組のプロデューサーを務めた永田浩三武蔵大教授(メディア社会学)も、
「安倍氏と橋下氏の歴史認識は同質のものといってよい」と話す。
「当時、NHK幹部から聞いた安倍氏側の主張は『日本人だけがやっていたわけではない、文書による証拠がない、強制性がない』だった。こうした論旨は、いまの橋下氏の主張と重なる」
 永田教授は「共通するのは『どの国もやったのだから、日本だけ批判されるのはおかしい』という主張だ。だが、どの国も自らの過ちは時間をかけながら総括してきた。ドイツも『ナチスのホロコーストはなかった』とは言わない」と語る。』

ここである。
歴史認識が違う…云々ではない。
日本は、あの戦争で、どのような事をしたか、どんな事を他国(とりわけ、同朋であってしかるべきのアジアの人々に)にしてきたか―それらの総括をしていない。
なぜ、自国を正当化ばかりしたがるのかなぁ。
ドイツでは、ナチスがした事をきちんと次世代に教えている。
日本はしない。
何故なんだろう。
反省のないところに次への一歩はないのに…。
もっとも、橋下氏と「維新の会」の共同代表の石原氏も「侵略ではない」とか、「軍と売春婦はつきもの」とかいってしまう人物だ。
私が不思議なのは、そういう扇動型政治家の口車に乗ってしまう、その心境だ。
こういう先の見えない時代、厭世的な時代には、扇動型政治家は、「立派なリーダー」に見えてしまうらしいから、仕方ないのか…?
第二次世界大戦に突入する前の(侵略を始める前の)状況と、今、この国に漂っている雰囲気はそっくりなのも、憂える。
そんな状況下なのに、憲法を変える発議をしたくてたまらない政府だ。
その内容は、戦前に戻りそうな、本来、国民の権利と安全を守り、国家権力を縛る存在のはずの憲法を自分たちの都合のよいようにしたい本音が丸見えなのも、憂える。

『作家の保阪正康氏も「両者の性質は同じ」と断言する。
とりわけ「歴史認識を政治的なツールとして利用し、結論ありきで語っていること。
河野談話や村山談話など、時の政権が真剣に向き合った歴史解釈の積み重ねを一切無視している点」が共通項だと分析する。
 さらに保阪氏は安倍、橋下両氏に相通じる歴史認識は、同時に二人がともに抱く国の将来的なイメージと表裏の関係にあると警鐘を鳴らす。
「新しい国権主義が台頭している。例えば、国民総背番号(マイナンバー)制といった国が国民一人一人の教育から生活まで管理する仕組みだ。こうしたシステムを実現するには、戦後、積み上げてきた歴史解釈が邪魔になるのだろう」』

確か、先日、国民総背番号制の法案が衆院で採決された。
国民一人一人にナンバーを付けて、そこから、その人の生年月日や出身地や住所や社会保険などといった基本情報ばかりではなく、たとえば、病歴なども反映され、勿論、犯罪歴も…である。
軽い交通違反なども、生涯、ついてまわる?一個人の全てが、政府、行政には丸見えになるのだろう。
そして、恐ろしいのは、この情報が漏えいすること。
漏えいは絶対無いーとはいえないだろう。
サイバー攻撃が日常化して、情報の流失のニュースは始終聞く昨今だ。
そして、なにより、そういう制度を
「国民一人一人の利益のために導入する」
という政府の答弁を微塵も信用できないこと、これが、大きいなぁ。
だから、この法案には私は反対だ。
何とも、住みにくい世となった。やれやれ…。

長い文章で、読む人もやれやれ…かな?
お疲れ様でした。









舟木一夫、50歳!

2013-06-05 | その他
「嘘ぉ~!」
と言うなかれ。
「舟木一夫」は50歳になったばかりなのだ。
織田信長さんと同郷の18歳の少年が「舟木一夫」になったのが、50年前だから、「舟木一夫」は、今、50歳になったばかり・・。
1963年の生まれだ。
そして、今日は、「舟木一夫」の誕生日。
1963年6月5日生まれ。
奇しくも、今日は、幕末の新選組もデビューの日でもある。
新選組が世に知られたのは6月5日の池田屋事件から・・。

池田屋事件の日からは大分、歳月が経つ(?)けど、「舟木一夫」の誕生日からは、50年。
その半世紀の間に、この国は悪くなったなぁ・・。

・・と、そんな話をすると、また、長~くなるので、打ち切り。

1994年と2000年に「舟木一夫」を綴った本を書いた。
しかし、それで、
「書きつくしたぞ!」とか、
「これで、思い残すことはない」-(笑)
などという心境には、その時ですら、ならなかった。
載せなかったことや、唇かみしめて呑み込んだ思いとか、マァ、いろいろと、心残りのある2冊の本だった。
それで、「舟木一夫、50歳の誕生日」の前日(つまり、昨日)、ちょっと、書いてみた。
勿論、発表の場を作るつもりは、まったく、無い。
まだ、無い。
とりあえず、書き残しておくか―と言ったところか。

50歳は人生の折り返し地点・・ともいう。
そうなると、「舟木一夫」はまだ、出発点・・か。
まだ、これから、思春期も青春も、来る。
「おいおい、何だよ~」
と、舟木さんは、困惑顔・・か(笑)。
そして、「舟木一夫」を誕生させた、織田信長さんと同じふる里の「例の少年」は、50歳を折り返して、
「ちょうど、18歳だ!」
そうなると、私などは、まだ、青春もきていないことになるから、
「よし!頑張るか!」
という気持ちになる。

そうやって、自分にハッパかけて行こう、生きにくくなった、この国で・・。
何だか、世情にちょっと、怒りながら・・???

松永弾正久秀

2013-06-03 | 歴史上の人物
戦国武将の一人、織田信長が最後の主君。
…とはいっても、主君を主君とは思わず、信長に仕える前までは、主君を謀殺し、自らが主君となり、或いは、全力で主君に仕え、信頼を得た後で、主君を手繰り、果ては、時の将軍義輝まで手にかけた。
そうやって、勢力を拡大してきた。
下剋上が当たり前の戦国時代だから、それは、許されない行為ではない。
「誰でもやっていることだ。現に織田信長も主君筋の清州織田を攻め滅ぼし、将軍義昭を追放し、比叡山を焼いたではないか」
と、かつての主君三好一族が籠った東大寺大仏殿に火をかけた松永久秀なら、そう言って、笑うだろう。
そういう男だから、信長に降ってからも、何回も背いた。
一度、背いたら、決して許さない、或いは、謀反の疑いだけで滅亡に追い込まれた武将もいる中で、久秀だけは、城を差し出したり、棄却したり…という程度(?)で許されてきた。
信長は久秀の才を認めていたにちがいない。
そして、どこか、「同じ匂い」を嗅ぎ取っていたのかもしれない。
もしかしたら、久秀は信長の「師」と成り得ていたかもしれない。
勿論、信長も当の久秀も、そんなことは気がついていない。
互いに「駆け引き」を楽しんでいたような所が見える。
久秀にしても、乱世を生き抜いて来て、やっと、「好敵手」に巡り合ったと思っていたかもしれない。
好敵手との出逢い―これは、生きる力や気力を倍増させる。
けれど、久秀が最後に出会った好敵手は彼よりに24才もわかく、久秀は六十路。
このレースは信長が敵の手にかかり、斃れるかしなければ、勝利は若い信長の掌中に落ちる。
久秀最後の裏切りは天正五年(1577)、居城の信貴山城に籠った。
信長はすぐに攻める事をせずに、
「何故の謀反か、望むことがあるなら申し出るように」
と、慰撫に努めたから、余計に久秀は増長した。
挙句、使者が言うことには、信長は、久秀所有の名茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」を所望している―とのことだった。
「平蜘蛛の茶釜を持参して、降参しろ」
ということである。
この時、久秀は思ったろう。
最初に信長に降った時、彼は、名茶器「九十九髪(つくもがみ)」を持参した。
今回は、「平蜘蛛」の茶器である。
「始めも終わりも、茶器…か」
結局、久秀は、「平蜘蛛」の茶器をたたき割り、爆死した。

…と、マァ、本当に「乱世の梟雄(きょうゆう)」というに相応しい生涯を歩いた松永弾正久秀であり、「悪い奴」なのだけど、あまりに悪過ぎて、逆に小気味よい。
それで、私は、結構、この男が好きである(笑)
単行本と文庫本になった自著の『覇星織田信長』にも、勿論、登場するが、出版社の編集の方々いわく、
「結構、松永久秀が好きなのでは?」
と。
割と贔屓して書いているから、すぐわかる(笑)
…というわけで、その後、学研さんから発行の戦国武将の本などの「松永久秀」に関しては、結構、書かせていただき、それが、気にいっていただけたのか、何回か、私の「松永久秀」は掲載していただいた。
そして、また、今月、発行の『戦国武将伝』(学研)に、この松永さん(?)が登場することになった。
この本、コンビニにも並ぶらしい。
…とは、いっても、私もまだ、表紙も本の形(これは聞いたかもしれないけど、忘れた(笑)も、何も、わかっていないのだけど、発行になったら、送ってくるから、その時に、初めて、わかる(笑)
こういう部分は結構、いい加減な私は、いつも、こんな感じ。
随分前、織田信長本がたくさん出版された時の事。
私もいくつか書いて、何故だか、本が書店の棚に並ぶ方が、送られてくるより早かったことがあった。
書店で、
「織田信長関連が多いなぁ、ア、これも新しく出たんだ」
と、一冊を手に取り、パラパラとめくる。
「?!」
手が止まる。
「私、これに書いているよ」
と、一緒にいた友人に言って、あきれられた。
嘘のような本当の話(笑)
2~3人でその本を書いていたけど、その本の表紙も正式なタイトルも知らなかった(聞いたが、多分、忘れたのだろう)、それゆえの笑ってしまうような結果。
勿論、その後で、出版社に電話をして、書店で本を見たことを伝えた(笑)