アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

挑む男たち―春田、舟木、長瀬       萩尾 農

2008-11-30 | その他
本当に本当に久しぶりの書き込みのタイトルが「挑む男たち」などと、大層なものになっている。
タイトルに登場の男たちはこの数日間で目にした順番、それ以外のこの順番の意図は全く無し。春田は春田純一のことで、今は、「ら抜きの殺意」という芝居をやっている。舟木は舟木一夫のこと、昨日、ひと月ぶりのコンサート(というより、内容はライブ感覚)、長瀬は長瀬智也、一昨日NHKのドキュメンタリー番組で放映されたが都合で見ることができなかったので、タイマー録画し、昨夜、見た。
長瀬クン(年下なので「クン」)はこのタイトルの「挑む」がピッタリ。ボブ・デユランの「天国への扉」のカバーをデモテープからレコーディングから全て自分の手で作り上げていた。その真剣な眼差し。TVなどではアッケラカンとした部分がよく見られて、彼の持ち味(?)のように思われている風があるが、こちらが「ナマの彼」か。大人になったなぁーと思ったら、もう30歳との事。すると、もう15年くらい前になるわけだが、あるドラマに前述の春田純一さんが出演していたので、見ていた。そこに14.5歳の頃の長瀬クンが出ていた。その頃は、あんなに大きくなくて、春田氏より背が低かったように記憶している。その時に、「この子はいい目をしているなぁ」と思って、気になった。
それから15年、中学生の頃から憧れていたという「天国への扉」という曲のカバーを制作し、映画も主演で撮った。ホント、向かう目は「挑む」ような目をしていた。
なんだか、いろんな事がスッキリ抜けて、自分のやる事を摑んだーそんな表現が当てはまる、今後が楽しみな「長瀬智也」だ。
11/28、飛浪が九州から上京して「ら抜きの殺意」という芝居を見た。スケアクロウズの芝居。この演劇集団は役者が揃っている。専属ではなく、企画の度に集るのだが、皆、ある程度のレベルに達している役者ばかり。永井愛作のこの作品は笑わせるが、その分、下手な役者たちがやると白けたろうなぁーという芝居。レベルの高い役者たちが演じたので、笑い、考えさせられ、そして、ふっと暖かくなり、しんみり目頭が熱くなる、そういう最高の芝居になっていた。
残念なのは上演の期間が短い事、本当は、各地に持っていって上演して欲しい作品なのに、経済的な理由から、それが、できない事。「たかが経済面の理由、されど、お金・・か」と飛浪と溜息をついた。
勿論、出演者たちにギャラが入るわけではない。春田さんは映画やTVドラマ、また、興業要素の強い演劇でも活躍しているのに、あえて、稽古期間も長い、ギャラもないであろう芝居をやる。けれど、多分、その時が「生きている」事を感じる時なのだろうと、こちらは勝手に解釈している。
芝居が終ってから、昭和の匂いがする喫茶店で待っている私と飛浪の前に現れた春田さんは「普通の男」「ふつうのいい人」、「挑む男」の雰囲気は無し。しかし、これが、この人の持ち味だと付き合いが長いから私達はよく知っている。舞台に上がって狂う。アア、そうだ、昔、つかこうへいさんが言っていた。「役者は舞台で2時間狂ってくれればいい」と。
映画やTVドラマをやっていても、芝居から離れる事のできない「春田純一」もやはり、「挑む男」だと確信。
11/29、8月から10月まで芝居と歌のステージという1ヶ月の長い公演をやっていた舟木一夫さんがひと月の休みののちにコンサート活動を再開。本人はきっと、「挑む男」などというタイトルはただただ、照れるだけのものかもしれないが、彼も「挑む男」なのだとつくづくと思ったのは、今年8月、鬼のように(?)暑い大阪で1ヶ月の公演を行い、初めて近松門左衛門に挑戦した時のこと。
1年以上前から飛浪と私は「近松が見たい!」といい続け、「誰か近松をやってくれないか」と願っていたが、まさか(!)舟木さんが近松物をやるとは、本当に予想外。しかも、劇場側や興業会社からのオファがあったのではなく、彼本人が望んだものだったことを知った。始まりは「歌手」だけど、沢山芝居をやってきて、演劇の大賞なども受賞し、今では、ネットや雑誌での最近の舟木一夫の紹介欄は「歌手・俳優」。確かに、いろいろな作品をやってきた。が、近松物は新分野。「梅川・忠兵衛」=「冥土の飛脚」である。梅川役は池畑慎之介にオファした。全てが今までとはちがい、これが挑戦でないわけがないーと私はまた、勝手に解釈して、真夏の大阪などは絶対に行かないのに、出かけて行き、泣かされて、見惚れて、良いものをみた嬉しさを抱えて帰ってきた。そして、ひと月置いただけで、10月にはまた、まったくちがう芝居に挑戦(あえて、この言葉を使いたい)。今度は新派の名作「鶴八鶴次郎」。この時に、忠平衛の影は微塵もなく、挑む→終る→次に挑む→終る→さて、次は何をやろうかーというのがこの人の中に見えて、そのくせ、まったく「挑む」を感じさせない男なので、その分、「すごいなぁ」と思ってしまうのだ。
コンサート(というよりライブ感覚ーどういうのをコンサートといい、どのスタイルをライブというのかわからないが、)こちらは毎回、迫力ある2時間なのに、温もりの中に観客を巻き込む。最近は男性ファンも増えた。同性である彼らがいうのだから間違いがないだろう「舟木一夫は実にいい男になった」と。いい男、そして、挑む男なんですよーと私は胸内で言葉を続けている。

さぁ、こうやって、「挑む男」の事を並べて、それでは「挑む女」にならないのか、お前は・・と自分に矛先(?)をむけて、少しばかり、苦笑い。
生活をして行くだけで忙しくなってしまったという言葉に逃れて、本の形だった会誌「碧い馬」を廃刊したのは間違いだったーと、飛浪と話した。書いていなくてはだめだ、新たに始めるのはものすごいエネルギーがいるから・・と。それでも、このままで終るわけには行かないという思いが心の中に存在している。
飛浪は新しいもの、自分の向かうべきものを見つけ、まさに歩き出す、もう一度、戦おうとしている自分があるという。
もういいや・・ではなく、男たちが「挑む」限り、私も頑張るかーと、実は最近、体調が最低状態だが、もういちど、パワーを取り戻し、やることをやろう。
それだから・・というわけではないが、ホームページが1年以上も更新もないので、リニューアルしようと、飛浪と相談をした。
まずは要らない部分をなくしてスッキリしますので、また、ホームページに遊びに来てくださいませ。

長い長い文章になりました。私の勝手な言い分、解釈を読んでくださった方々、お疲れ様でした。ありがとうございました。