アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

「許せない」と「許さない」

2016-02-29 | 世情もろもろ
もう2月も終わりだ~と、どこか慌てて思ったら、「おまけ」の一日がまだあった。
うるう年―29日の本日が単なる「おまけ」ではないことは当然で、太陽(宇宙)と地球との関係から、うるう年がある。
つまり、私たち人間(いや、生けるもの全て)という宇宙の規模からみれば、点ですらない存在と、広大な、図ることなど叶わないほどに大きな宇宙・太陽との時間のズレを訂正する為に4年に一度、一年365日を366日にする。
うるう年―暦(こよみ)と季節の違いを訂正するために太陽暦では四年に一度、二月を一日多くし、太陰暦ではある月を2回繰り返す事~と辞書にはあった。
久しぶりに辞書を引いてみた。
ちなみに「太陰暦」の「太陰」とは月のことで、「月が太陽の周りを1周する時間をもとにしてさだめた暦」と、説明されている。
7万5千語収録されているこの辞書をひく手(?)は以前はもっともっと早かった。
この数年、不明の言葉などはパソコンを頼り、簡単に回答を得ていた。だから、辞書を手にすることなどは、相当に久しぶりなのだ。
原稿を書くことにしても、原稿用紙(紙)に綴るのと、キーボードを打って綴るのとは、脳の使い方が違うとのこと。
これは経験したことだが、紙に綴っている場合、「これはどこに書いたかな」と思ったりした時、何枚も前に書いていても、頭の中に残っているから、容易に探し出せる。
しかし、キーボード打ちの原稿書きの場合、入力していくそばから、頭を通り越していく(ような気がする)。だから、探しものとなると、大変な思いをする。
「その違いは、なぜなのだろう」―と、思ったら、答は簡単に齎された。(どこから回答を得たのかは、とっくに忘れた(笑)。
「手で紙に書き残して行くことと、キーボードを打って、パソコンに入力していくのは、脳の使いかた、使う場所が違う」
ということ。
「つまり、手で書くのよりも、バカになっていくということか」
と、私は、その回答の結論を受け取り、理解し、納得した。
…で、確かに、紙(原稿用紙ではなく、メモ用紙などでも)に鉛筆などで、パーッと書き綴っていくほうが、筆がすすむことは確かだった。(漢字も忘れないし…ね。)

そして、タイトルの二つの言葉。
この二つの言葉、私は、ものすごく昔から、気になっていて、気にした瞬間から、私は、
「許さない」
という言葉を、使わなくなった。
たった一文字、「せ」と「さ」の違いだけだが、「さ」の方は随分とエラそうだ。
「許さない」―というのは、上からの目線で吐く言葉に聞こえた。
「許せない」―こちらは、各人の心の底の感情や思いが、ついに表にでてきた言葉だ。
その「さ」の方の言葉を使わなくなっていたはずの私が、最近、「さ」を使うことがあった。
「許さない」ではなく「赦さない」の方が適切だろうか。
「暴走、独裁の安倍政権を赦さない」―と、つい、言葉にして、「上からの目線か」と思ったが、思いなおした。
主権者は国民だから、国民(庶民)は、いわゆる上からの目線で、政権や為政者に物を言ってよいのだ―と。
誰が主権者であるか―忘れ果てている現政権や劣化した政治家たちである。
だから、私たちは「そういう者たちを赦さない」―と言っていい。

…で、そういう者たちのすることに、無関心で、何ら意思も示さずに、一票の権利も行使せずに、次の世代の子どもたちに、沢山のツケを回す事になってしまう結果を生んだ自分たちを、その未来に於いて、「許せる」のだろうか。


追記  民主党が維新の党と合流した。そのニュースの中で両党の代表(党首)が言っていた。
「これで、政権を取りにいける」―と。
私は言葉もなかった。
一度政権を手にした民主党なら、
「これで、安倍政権の暴走を止めに行ける」
「立憲主義を守るべく進む」
―等々、言ってほしかったなぁ。
共産党が民主党と選挙協力などを…云々、提案したとき、民主党内に「共産党と連立政権を組むことはできない」という声があったと聞いて、これにも、言葉を失った…というより、
「政権なんか取れっこないから。まず、今、何をすればよいのか、それも見えていない?」
と思わず、言っていた。
今朝の新聞コラムに、両党の合意の後の党名について書かれていた。
「民主」という言葉を残せ―と。
「民主」とは何とよい言葉であるか―と。
そうだ、「民(たみ)」が「主(あるじ)」である。それこそが、立憲主義だ。


長い追記になった。
明日から3月。
昨年晩秋に頂いた日本サクラソウの苗が冬を越して、満開となった。(画像)


舵(かじ)

2016-02-23 | 世情もろもろ
舵―つまり、ハンドル。
けれど、ここでいうのは、「命(いのち)の舵」―。
それぞれが、たったひとつ持っている人生の舵―とも言える。
Photo 雑誌「DAYS JAPAN 2月号」の特集に
『安倍政権に命の舵は渡さない~2016年をどう生きるか』―とあった。
安倍政権でなくても、政権や為政者に、己れの命の舵を渡してなるものか―と思う。
いずれの政権・権力にも、命の舵は、渡してはならないはずだ。
戦前の過ちから、言論・表現・思想・結社の自由は現憲法で保障されている。
けれど、古今東西、人々の命の舵は時の権力者によって、どのようにもされてきた。
人々は、それを知ってか、知らずか、いつの間にか、命の舵を渡してしまっているかもしれない。いや、奪われてしまっている…のか。
いつ?
一応、民主主義を唱える選挙の終った途端に…??
一応、民主主義を重んじる立憲国家のはずのこの日本でさえ、そうなのだから、かの独裁国家の、つい昨日まで、自分の側近・参謀であったはずの者を「不穏」とか「不審」といったところか、簡単に排除し処刑してしまう―そういう国に生まれおちた時、それぞれの命の舵は生まれた瞬間から、独裁者のものだ。
「私の命の舵は渡さない」
などと、声を大にして叫んだわけでもなく、そう、ふいと呟いたくらいで、「不穏分子」とレッテルを貼られて、舵どころか命も奪われる。
それに比べたら、日本は、まだまだ、数倍、マシな国であるが、その「マシ」がいつまで続くかは、国民の覚悟にかかっているだろう。
全ての人々が、
「命の舵は自身のものだ。誰にも渡さない」
と、覚悟するべき…そういう時期にきているのだろうな―と、心底思う。
どの政党が政権を握っても、私たちは、私たちの命の舵を渡してはいけない。
…で、現政権に、命の舵を渡した人々はどれほどいるのか。
結構、いるだろうなぁ。彼らが何をしても、暴走しても、国民の声に耳を傾けなくても、内閣支持率が高いのをみればわかる。
もっとも、この世論調査、全面的に信じるわけにはいかない。そんなに当てにできるものではない。調査の対象人数があまりに少ない。固定電話を持っている人もかつてよりはずっと少ない。ランダムに選んだ人の1000単位(万単位ではない)の中で、1000何名に回答を得た―といったくらいの少なさだ。
我が家にも数回かかって来たことがあるが、質問内容も、質問数も、「?」と思うもの、選びようがないもの―等々があって、世論調査は、質問の内容からも、再考しなければならないと思う。
しかし、その質問内容のなかでも、国民がデモなどで訴えていることも含まれているが、現政権は、自分たちの意にそぐわない意見・意思は「黙殺」することにしたようだ。
「時間が経てば、国民は理解する」―という首相の言葉が、その証し。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という、この国の諺(ことわざ)にもある。それである。
法律も事例も、そして、憲法さえも、政権の都合のよいように解釈をして、正論にしていく。
そういうやり方である。
そういうやり方で、権力に対する国民の唯一の武器(!)である憲法を踏みつけて、閣議決定した重要案件―そして、それをついに法令化してしまった。その事を私たちは忘れてはならない。
そうして、暴走ついでに(!)、改憲問題も大手を振って浮上してきた。
現憲法は随分前に制定したから、現在(いま)にそぐわなくなっている部分もある。だから、改憲の全てを「否!」とは言わない。
けれど、現政権が行おうとしている改憲は非常に危険な分野だ。
それも随分と都合のよい解釈をして…。こじつけた解釈だから、国会答弁をみていても、「???」の回答が多い。
そんな人々に、私たちの未来を、人生の舵を渡せるものではない。
「戦争と言うのはいつの間にか始まっている」
「戦争は簡単に始まり、終わらせるのは簡単ではない」
「戦争は全てを奪い、悲しみだけを残す」
―等々、先人たちの言葉が身にしみる。
私の、私たちの命の舵は、誰にも渡せない。
自分たちの権利を主張するし、自分たちの義務も遂行する。

それが、「命の舵を渡さない」―ということではないか。



…と、久々にかいてみれば、やはり、憂いやら怒りやらが…。それらが山盛りのあまり、この2月10日に2016年の「concert tour」をスタートさせた舟木一夫氏の奇蹟のような事象を書かない文となってしまった。
それらは、ほかに書き残しはしても、ここに書くことはもう、あまりしないことにした。インターネットは、時に、見当はずれの誹謗中傷をコメントされたりする。良いものを見る事ができた―と、その幸運に感謝したりしたあとに、あきれ果てたり、嫌な気分になったりするのは、馬鹿らしい。

春早く来ないかなぁ、もう立春は過ぎたよ、春~!