もう2月も終わりだ~と、どこか慌てて思ったら、「おまけ」の一日がまだあった。
うるう年―29日の本日が単なる「おまけ」ではないことは当然で、太陽(宇宙)と地球との関係から、うるう年がある。
つまり、私たち人間(いや、生けるもの全て)という宇宙の規模からみれば、点ですらない存在と、広大な、図ることなど叶わないほどに大きな宇宙・太陽との時間のズレを訂正する為に4年に一度、一年365日を366日にする。
うるう年―暦(こよみ)と季節の違いを訂正するために太陽暦では四年に一度、二月を一日多くし、太陰暦ではある月を2回繰り返す事~と辞書にはあった。
久しぶりに辞書を引いてみた。
ちなみに「太陰暦」の「太陰」とは月のことで、「月が太陽の周りを1周する時間をもとにしてさだめた暦」と、説明されている。
7万5千語収録されているこの辞書をひく手(?)は以前はもっともっと早かった。
この数年、不明の言葉などはパソコンを頼り、簡単に回答を得ていた。だから、辞書を手にすることなどは、相当に久しぶりなのだ。
原稿を書くことにしても、原稿用紙(紙)に綴るのと、キーボードを打って綴るのとは、脳の使い方が違うとのこと。
これは経験したことだが、紙に綴っている場合、「これはどこに書いたかな」と思ったりした時、何枚も前に書いていても、頭の中に残っているから、容易に探し出せる。
しかし、キーボード打ちの原稿書きの場合、入力していくそばから、頭を通り越していく(ような気がする)。だから、探しものとなると、大変な思いをする。
「その違いは、なぜなのだろう」―と、思ったら、答は簡単に齎された。(どこから回答を得たのかは、とっくに忘れた(笑)。
「手で紙に書き残して行くことと、キーボードを打って、パソコンに入力していくのは、脳の使いかた、使う場所が違う」
ということ。
「つまり、手で書くのよりも、バカになっていくということか」
と、私は、その回答の結論を受け取り、理解し、納得した。
…で、確かに、紙(原稿用紙ではなく、メモ用紙などでも)に鉛筆などで、パーッと書き綴っていくほうが、筆がすすむことは確かだった。(漢字も忘れないし…ね。)
そして、タイトルの二つの言葉。
この二つの言葉、私は、ものすごく昔から、気になっていて、気にした瞬間から、私は、
「許さない」
という言葉を、使わなくなった。
たった一文字、「せ」と「さ」の違いだけだが、「さ」の方は随分とエラそうだ。
「許さない」―というのは、上からの目線で吐く言葉に聞こえた。
「許せない」―こちらは、各人の心の底の感情や思いが、ついに表にでてきた言葉だ。
その「さ」の方の言葉を使わなくなっていたはずの私が、最近、「さ」を使うことがあった。
「許さない」ではなく「赦さない」の方が適切だろうか。
「暴走、独裁の安倍政権を赦さない」―と、つい、言葉にして、「上からの目線か」と思ったが、思いなおした。
主権者は国民だから、国民(庶民)は、いわゆる上からの目線で、政権や為政者に物を言ってよいのだ―と。
誰が主権者であるか―忘れ果てている現政権や劣化した政治家たちである。
だから、私たちは「そういう者たちを赦さない」―と言っていい。
…で、そういう者たちのすることに、無関心で、何ら意思も示さずに、一票の権利も行使せずに、次の世代の子どもたちに、沢山のツケを回す事になってしまう結果を生んだ自分たちを、その未来に於いて、「許せる」のだろうか。
追記 民主党が維新の党と合流した。そのニュースの中で両党の代表(党首)が言っていた。
「これで、政権を取りにいける」―と。
私は言葉もなかった。
一度政権を手にした民主党なら、
「これで、安倍政権の暴走を止めに行ける」
「立憲主義を守るべく進む」
―等々、言ってほしかったなぁ。
共産党が民主党と選挙協力などを…云々、提案したとき、民主党内に「共産党と連立政権を組むことはできない」という声があったと聞いて、これにも、言葉を失った…というより、
「政権なんか取れっこないから。まず、今、何をすればよいのか、それも見えていない?」
と思わず、言っていた。
今朝の新聞コラムに、両党の合意の後の党名について書かれていた。
「民主」という言葉を残せ―と。
「民主」とは何とよい言葉であるか―と。
そうだ、「民(たみ)」が「主(あるじ)」である。それこそが、立憲主義だ。
長い追記になった。
明日から3月。
昨年晩秋に頂いた日本サクラソウの苗が冬を越して、満開となった。(画像)
うるう年―29日の本日が単なる「おまけ」ではないことは当然で、太陽(宇宙)と地球との関係から、うるう年がある。
つまり、私たち人間(いや、生けるもの全て)という宇宙の規模からみれば、点ですらない存在と、広大な、図ることなど叶わないほどに大きな宇宙・太陽との時間のズレを訂正する為に4年に一度、一年365日を366日にする。
うるう年―暦(こよみ)と季節の違いを訂正するために太陽暦では四年に一度、二月を一日多くし、太陰暦ではある月を2回繰り返す事~と辞書にはあった。
久しぶりに辞書を引いてみた。
ちなみに「太陰暦」の「太陰」とは月のことで、「月が太陽の周りを1周する時間をもとにしてさだめた暦」と、説明されている。
7万5千語収録されているこの辞書をひく手(?)は以前はもっともっと早かった。
この数年、不明の言葉などはパソコンを頼り、簡単に回答を得ていた。だから、辞書を手にすることなどは、相当に久しぶりなのだ。
原稿を書くことにしても、原稿用紙(紙)に綴るのと、キーボードを打って綴るのとは、脳の使い方が違うとのこと。
これは経験したことだが、紙に綴っている場合、「これはどこに書いたかな」と思ったりした時、何枚も前に書いていても、頭の中に残っているから、容易に探し出せる。
しかし、キーボード打ちの原稿書きの場合、入力していくそばから、頭を通り越していく(ような気がする)。だから、探しものとなると、大変な思いをする。
「その違いは、なぜなのだろう」―と、思ったら、答は簡単に齎された。(どこから回答を得たのかは、とっくに忘れた(笑)。
「手で紙に書き残して行くことと、キーボードを打って、パソコンに入力していくのは、脳の使いかた、使う場所が違う」
ということ。
「つまり、手で書くのよりも、バカになっていくということか」
と、私は、その回答の結論を受け取り、理解し、納得した。
…で、確かに、紙(原稿用紙ではなく、メモ用紙などでも)に鉛筆などで、パーッと書き綴っていくほうが、筆がすすむことは確かだった。(漢字も忘れないし…ね。)
そして、タイトルの二つの言葉。
この二つの言葉、私は、ものすごく昔から、気になっていて、気にした瞬間から、私は、
「許さない」
という言葉を、使わなくなった。
たった一文字、「せ」と「さ」の違いだけだが、「さ」の方は随分とエラそうだ。
「許さない」―というのは、上からの目線で吐く言葉に聞こえた。
「許せない」―こちらは、各人の心の底の感情や思いが、ついに表にでてきた言葉だ。
その「さ」の方の言葉を使わなくなっていたはずの私が、最近、「さ」を使うことがあった。
「許さない」ではなく「赦さない」の方が適切だろうか。
「暴走、独裁の安倍政権を赦さない」―と、つい、言葉にして、「上からの目線か」と思ったが、思いなおした。
主権者は国民だから、国民(庶民)は、いわゆる上からの目線で、政権や為政者に物を言ってよいのだ―と。
誰が主権者であるか―忘れ果てている現政権や劣化した政治家たちである。
だから、私たちは「そういう者たちを赦さない」―と言っていい。
…で、そういう者たちのすることに、無関心で、何ら意思も示さずに、一票の権利も行使せずに、次の世代の子どもたちに、沢山のツケを回す事になってしまう結果を生んだ自分たちを、その未来に於いて、「許せる」のだろうか。
追記 民主党が維新の党と合流した。そのニュースの中で両党の代表(党首)が言っていた。
「これで、政権を取りにいける」―と。
私は言葉もなかった。
一度政権を手にした民主党なら、
「これで、安倍政権の暴走を止めに行ける」
「立憲主義を守るべく進む」
―等々、言ってほしかったなぁ。
共産党が民主党と選挙協力などを…云々、提案したとき、民主党内に「共産党と連立政権を組むことはできない」という声があったと聞いて、これにも、言葉を失った…というより、
「政権なんか取れっこないから。まず、今、何をすればよいのか、それも見えていない?」
と思わず、言っていた。
今朝の新聞コラムに、両党の合意の後の党名について書かれていた。
「民主」という言葉を残せ―と。
「民主」とは何とよい言葉であるか―と。
そうだ、「民(たみ)」が「主(あるじ)」である。それこそが、立憲主義だ。
長い追記になった。
明日から3月。
昨年晩秋に頂いた日本サクラソウの苗が冬を越して、満開となった。(画像)