Alain Delon―アラン・ドロン、フランス俳優。昨年、俳優の引退を発表した。
映画を1本、舞台をひとつやってから、引退する―と、言った。
1935年11月生まれ。11月になれば83才。
一昨日、『アラン・ドロン―ラストメッセージ』と題して、NHK‐BSプレミアムが一時間の放送をした。
Alainは、タキシードを着崩した格好でインタビューの場所に現れた。
82才。年齢だけを見たら、もうとっくに「おじいさん」である。勿論、昔の破滅的(と、私は思っていた)―破滅的な哀愁を帯びた美貌はない。
顔立ちは同じ、年をとったというだけで、「アラン・ドロンである」という顔をしていた。
「おじいさん」なのに、「タキシードを着崩した格好で」―現れたAlain。そこに、やはり、この人は人間ではないなぁ―などと、ふいと思った。
タキシードを着崩した格好も、計算しつくされているのだ。それが、彼の美なのだ。
パーティで呑み過ぎたその帰り道、着ていたタキシードが着崩れたというのとは違う。
そして、人間ではないArainが語りだした時、「?!」―人間が顔を出した。
タイトルに『俳優アラン・ドロン″ラストメッセージ″ 映画・人生 そして孤独』とあったが、その最後の「孤独」の意味がわかった気がした。
番組の終わりの方に流れた『アラン・ドロンは何でも出来た。幸福になること以外は…』―という評に、私は大きく頷いた。
私が、アラン・ドロンという俳優を知ったきっかけは、勿論、映画『太陽がいっぱい』であったが、そのロードショーは、それより何年も前。私は地方の小さな映画館で、『太陽がいっぱい』のリバイバル上映を見たのだ。まだ中学生なのに、心が震えた。中学生だから、その内容よりも、アラン・ドロンという人の美貌に、驚いたのだ。
それ以来、彼の映画をみな観てきたが、アラン・ドロンは、人間ではなかった。美貌も、映画の中の芝居も―「人」ではなかった。
だから、遠い。
けれど、一昨日のロングインタビューを見て、ひどく近くなった。
自分の人生を生きてきた一人の人間が、居た。
すでに逝った人々を語る時、ふっと、涙が浮かんだようであり、言葉も詰まった。
人が生きて、人生という長い旅をしてきて、人は人間になる―などと、妙な思いをあらためて思ったりした。
心が震えた。
アラン・ドロンという、遠い所にいる俳優の言葉に、人生に、心が震えることなど有るはずがなかったのに、心が、共鳴して、震えて、涙が浮かんだ。
そして、そうやって生きて、自らの「終り」も用意して、
「東京オリンピックの時、日本に行かなければならない。友達が柔道に出る。彼が金メダルを取るための応援をしにいく。日本には悪いが、金メダルは渡さない」
と、「普通の世界」に立って、そう言って笑った。
現在、たった一人で生きて、「幸福になること以外」はできた人間がそこに居た。
「私は何をしているのだ」
と、どこかで自分を叱咤する。
去る五月、西城秀樹さんが逝ってしまった。
彼の『ブルースカイブルー』という歌が、私のこれまでの旅路の最も困難で苦しい時期、凄まじい時を、乗り越える手助けをしてくれた。
「この歌にどれだけ助けられたか」
聴けば、今でも、涙が溢れる。
「あの男は一本貫いた男だった」
と、そんな事は言いそうもない、七十代の半分近くなる知り合いが言っていた。その人は、様々な興業やら、いろんな仕事をしてきた、表街道ばかりを歩いて来たのではないだろうと思われる人生をおくってきたようだが、その人が、西城秀樹という人間をそのように評価していた。
あまりに突飛だけれど、Alain Delonの語るのを聞き、また、数ヶ月前に逝ってしまった西城さんの歌や生きてきた道を想いやり、
「私は、何をしているのだ!」
と、また、自らを叱咤した。
人は、みずからの場に寄って立っている、地に足をつけて…と、当然のことを、こんなに遠くまで歩いてきたくせに、思い入る。
石川啄木の「友がみなわれより偉く見える日」という歌を思い出しながら…。
「私は、何をしているのだ」―と。
「追記」
Alainは、自分が死んだ時、フランスの新聞はどのように書くか、記者たちに聞いたと言った。
『サムライが死んだ』
彼らはそのように書くと答え、Alain自身も、そのように書いてもらえるだろう―と、どこか嬉しそうな表情をした。「サムライ」に寄り添った人生でもあったなぁ―と、私は、単なる「日本贔屓」では片付けられないアラン・ドロンという人の生き方を思いやった。
映画を1本、舞台をひとつやってから、引退する―と、言った。
1935年11月生まれ。11月になれば83才。
一昨日、『アラン・ドロン―ラストメッセージ』と題して、NHK‐BSプレミアムが一時間の放送をした。
Alainは、タキシードを着崩した格好でインタビューの場所に現れた。
82才。年齢だけを見たら、もうとっくに「おじいさん」である。勿論、昔の破滅的(と、私は思っていた)―破滅的な哀愁を帯びた美貌はない。
顔立ちは同じ、年をとったというだけで、「アラン・ドロンである」という顔をしていた。
「おじいさん」なのに、「タキシードを着崩した格好で」―現れたAlain。そこに、やはり、この人は人間ではないなぁ―などと、ふいと思った。
タキシードを着崩した格好も、計算しつくされているのだ。それが、彼の美なのだ。
パーティで呑み過ぎたその帰り道、着ていたタキシードが着崩れたというのとは違う。
そして、人間ではないArainが語りだした時、「?!」―人間が顔を出した。
タイトルに『俳優アラン・ドロン″ラストメッセージ″ 映画・人生 そして孤独』とあったが、その最後の「孤独」の意味がわかった気がした。
番組の終わりの方に流れた『アラン・ドロンは何でも出来た。幸福になること以外は…』―という評に、私は大きく頷いた。
私が、アラン・ドロンという俳優を知ったきっかけは、勿論、映画『太陽がいっぱい』であったが、そのロードショーは、それより何年も前。私は地方の小さな映画館で、『太陽がいっぱい』のリバイバル上映を見たのだ。まだ中学生なのに、心が震えた。中学生だから、その内容よりも、アラン・ドロンという人の美貌に、驚いたのだ。
それ以来、彼の映画をみな観てきたが、アラン・ドロンは、人間ではなかった。美貌も、映画の中の芝居も―「人」ではなかった。
だから、遠い。
けれど、一昨日のロングインタビューを見て、ひどく近くなった。
自分の人生を生きてきた一人の人間が、居た。
すでに逝った人々を語る時、ふっと、涙が浮かんだようであり、言葉も詰まった。
人が生きて、人生という長い旅をしてきて、人は人間になる―などと、妙な思いをあらためて思ったりした。
心が震えた。
アラン・ドロンという、遠い所にいる俳優の言葉に、人生に、心が震えることなど有るはずがなかったのに、心が、共鳴して、震えて、涙が浮かんだ。
そして、そうやって生きて、自らの「終り」も用意して、
「東京オリンピックの時、日本に行かなければならない。友達が柔道に出る。彼が金メダルを取るための応援をしにいく。日本には悪いが、金メダルは渡さない」
と、「普通の世界」に立って、そう言って笑った。
現在、たった一人で生きて、「幸福になること以外」はできた人間がそこに居た。
「私は何をしているのだ」
と、どこかで自分を叱咤する。
去る五月、西城秀樹さんが逝ってしまった。
彼の『ブルースカイブルー』という歌が、私のこれまでの旅路の最も困難で苦しい時期、凄まじい時を、乗り越える手助けをしてくれた。
「この歌にどれだけ助けられたか」
聴けば、今でも、涙が溢れる。
「あの男は一本貫いた男だった」
と、そんな事は言いそうもない、七十代の半分近くなる知り合いが言っていた。その人は、様々な興業やら、いろんな仕事をしてきた、表街道ばかりを歩いて来たのではないだろうと思われる人生をおくってきたようだが、その人が、西城秀樹という人間をそのように評価していた。
あまりに突飛だけれど、Alain Delonの語るのを聞き、また、数ヶ月前に逝ってしまった西城さんの歌や生きてきた道を想いやり、
「私は、何をしているのだ!」
と、また、自らを叱咤した。
人は、みずからの場に寄って立っている、地に足をつけて…と、当然のことを、こんなに遠くまで歩いてきたくせに、思い入る。
石川啄木の「友がみなわれより偉く見える日」という歌を思い出しながら…。
「私は、何をしているのだ」―と。
「追記」
Alainは、自分が死んだ時、フランスの新聞はどのように書くか、記者たちに聞いたと言った。
『サムライが死んだ』
彼らはそのように書くと答え、Alain自身も、そのように書いてもらえるだろう―と、どこか嬉しそうな表情をした。「サムライ」に寄り添った人生でもあったなぁ―と、私は、単なる「日本贔屓」では片付けられないアラン・ドロンという人の生き方を思いやった。