アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

孤高のメス

2010-06-07 | 映画・ドラマ
堤真一さんの主演映画です。

奇をてらっていることもなく、ストーリーが複雑な訳でもない。
非常に地味でまじめな映画です。

どんでん返しやサスペンス、裏切りなどが、映像の中で普通になってきた今、
こんなに真っ当で真っ直ぐな映画はないように思います。

クライマックスに「脳死」や「肝移植」という特殊なケースは出てくるものの、
ストーリーを運んでいるのは、それぞれの人物の時間と、役者であります。

数秒の違いで、交通事故に遭ったり、災害に出くわしたり、はやり病に罹ったり、
命を失くす可能性は私たちの周りにいくらでもあります。

そうだ、私は生かされているのだ、
ちゃんと生きなきゃ、

と、

反省をして、
足元を見て、
できる限り、がんばろうと思えた映画でした。

命を落とす人、
命を拾った人、

片手には、どうしようもない
悲しみや苦しさや切なさは存在しているけれど、

しかし、

片手には、
喜びを噛み締めている人、感謝の涙を流す人もいるわけで、

命のリレーというのは、
命だけではなくて、心もリレーしているんだろうと思うのです。

こういう、心の温まる物語を一人でも多くの人が見れば、
きっと、現代人のがさついた気持ちも解けてゆくのではないだろうか…
そう思います。

そして、
そうでありたいと思うのです。

飛浪

しっかりしなくては・・・!国民      萩尾 農

2010-06-06 | その他
長い長い前政権の支配(!)が昨年9月に終わって、政権交代した時に、私はこれを嬉しく迎えて、それでも、この若く新しい政府を国民は「見守り、見張って」いなくてはいけない―云々と。ここに書いた。
それから、8か月半、首相が変わった。
結局、鳩山氏は小沢氏と刺し違えるような形で辞任した。
それで、一気に民主党の支持率が上がった―というのも、あまりにも単純な思考で、危うささえ感じてしまう。この国の国民は、そんなに単純な民族だったのかィ?・・・と、本当に、この先々の不安を感じてしまう。
でも、そうかもしれない。この数カ月、メディアに踊らされた。「報道は公平にしろよ!」と腹が立つ事しばしばだったが、この国の報道は以前から、そうだったっけーと思い出した。そして、それに、踊らされる国民だった。これほどにメディアにとって(そして、時に、為政者にとって)、扱いやすい国民はいない・・と、何か、情けない思いで、納得した。
メディアはこの新政府がもたらした「果実」については、ほとんど、報道せずに、とにかく、叩く、叩く・・で、ついに、少なくはあったが、「無」ではなかった、その実った果実を叩き落としたわけである。
確かに、稚拙な対応が目立った。鳩山氏は政治家にしては(!?)良心的で誠実な人のようで、理想家でもあった。
もちろん、為政者は理想を持っているのが当然だが、政治は理想だけではできない。理想は現実に踏みつぶされ、崩壊するのが昔から常だった。
それでも、沖縄の人々が長い間、どれほどの犠牲を強いられてきたか、それらに目をそむけていたどころか、無関心だった国民の多くが、その実態を知るに至ったのは、この政権の功績といっていい。野党となった自民党は、沖縄問題について、攻撃し続け、メディアも乗った。が、沖縄がこれほどに苦しめられたのは、沖縄を犠牲にした自民党の政策を国民が長いこと支持してきたからだ―そのことを、皆が忘れている。沖縄以外の誰も普天間の危険を引き受けない。自分の地域に基地が来なくて良かった―と、結局、基地は沖縄にーと、問題が落ち着きそうになった時、そう思ったに違いない。
「東京湾の沖に作ればいいじゃないか。羽田が使えなくなる?それなら、羽田も基地にすればいい。滑走路は新たに作らなくても済む」
と、ひどく乱暴なことを、半分は怒りにまかせて、私は言っていたけど、本当に、東京だけが安全圏にある―というのは、不公平だ。安保条約について、ここで述べると、紙幅がなくなるので書かないけれど・・日本の安全のために(?)安保が必要なら、伴う危険性はすべての地域が等分に負わなければならない。そんな当然なことに国民のいくらかでも気がついてくれていればいいなぁ―と、願うことしきり。

そうして、首相はようやく世襲議員ではない人に・・。
激しい論客であるはずの菅直人氏がこの8か月半の間、すっかり、静かになってしまっていた。
「菅さん、どうしたのだろう」「静かになってしまったね」と、私や友人たちは言っていた。その沈黙の意味が、この数日間で納得できた気がする。
「そういうことだったのか」・・と。
出身は市民運動。同じ選挙区だったので、私は、市民運動出身であるこの人に、いつも1票を入れていた。
私も市民運動というものに関わったことも有るし、現在も、関わりがないわけではない。
市民運動という庶民の場所から、どこまで登りつめていくのか、ただの1票であるが、応援し続けていた。
市民運動出身の割に「権力志向」が強いーと書いてあった。それは当然だろう。市民運動に関わってみればわかる。それらは、何かを動かしていくかもしれないが、結局は、「権力」を持たなければ、「救いは無い」という回答に何度も行きついた。
「権力志向」は悪いことではない―と、私は思うようになった。ただし、手にした権力を自分の利益の為のみに使用(利用)するのでなければ・・。
幸い、菅氏は学生時代から「権力がなければ人々の不幸を救えない」との持論をもっているようだ。
市民運動家出身としてどんな手腕をみせるのかーについて、学生時代から付き合いのある人が語る「市民の味方的な国政のかじ取りにはならない。逆に市民ができることは政治家任せにせず、できるだけ市民自身がやる社会を目指そうと考えているはずだ」―と。
増税―昨年、政権交代が成った時、「増税はあるだろう」と思っていた。
自民党政権時代の無駄が次々と露呈されたのも、政権交代の「果実」だ。それでも、いろいろな保障を厚くしたから、足りるわけがない。景気の低迷で企業からの税収も落ち込んでいる。そうなったら、消費税に手をつけるしかない。それでも、仕方ない―と、私は思っていた。勿論、税金は安いに越したことはない。「不景気風邪」には私も感染して、昨年よりも収入が半分になっている。それでも、増税した分をそれなりに使ってくれるなら、それを明確に国民に示すなら、国債を増やし続け、次世代へ(未来を生きる若者たちへ)借金を負わせるよりはずっと良いだろう。こんな社会にしてしまったのは、あまりにも政治家に任せすぎた私たちにも責任がある。
「強い経済、強い財政、強い社会保障は一本として実現できる」と菅氏は言い切った。
その中身について、東京新聞の6/5「こちら特報部」に掲載されていたが、阪大社会経済研究所長で内閣府参与の小野義康教授は「子ども手当や農家への戸別所得補償は税金をそのまま家計に戻すだけだから、ただの“ばらまき”。国民は自分で払った金を受け取っているにすぎないから、雇用も生まれず、所得にもならないから景気もよくならず、税収も増えない」と言い、「増税をし、増収分を財源にして環境や介護の分野で仕事をつくる。国民がそこで働けば、環境や介護のサービスも充実し、若者の雇用も増え、デフレも緩和される。増税分は所得として家計に戻るから消費も減らない、新たな雇用で所得税収も増える。結果、失業、税収減での財政悪化、環境問題、介護サービスの不足という問題がすべて改善に向かう」と、小野教授は今年2月から8回ほど、大臣室で菅氏に講義し、「多くの政治家に会ったが、菅さんほど、真剣に理解しようとする人はいない。数式をしめすと、その数字はどうやってだしたのかとのぞき込み、メモをとる。教える側もやりがいがある」と語った。
だから、小野教授は「増税で景気が回復して財政がよくなる」という説明だけでは誤解されると言う。
当然だ、だから、小野教授の言うような増税分の使い道の説明が不可欠で、それは省かずに丁寧にしっかりと説明してもらいたい。そうすれば、国民の理解を得られる。
同じく、東京新聞の「デスクメモ」欄に『菅新首相が笑顔で発した言葉は、決して、当たり障りのない内容ではない。むしろ追いつめられた国民に「さぁ、どうだ。ついてくるのか」とあいくちを突き付け、迫ったのに等しい。為政者の本気を見極める覚悟がこちらにも必要だ』とある。
前述の「市民ができることは政治家任せにせず、できるだけ市民自身がやる社会を目指そう」と、それと同じだ。
そう、国民は、そろそろ、真剣になっていい。この国の事を人任せにせずに、自分たちの責任として、本気になる時だろう。他人任せにしてきた結果が、こういう社会にした。
民主党政権が誕生した時に「見守り、見張り」と思った。それは今後も同じだ。自分の目で見、自分の耳で聴き、自分の頭で決める。政党や政治家へ任せるだけではなく、沖縄問題にしても貧困や雇用の問題にしても、国民自身が相互に議論し、提案していかなければならない時期にきているのだと思う。
参院選がもうすぐだ。偏向報道に惑わされず、自分の頭で考え、自分の責任で1票を投じたい―と、切に思う。
それから、新首相となった菅氏には、
「市民運動に携わった人としての感覚を、庶民の目線を決して忘れずに。そのために手にした権力だということを・・そう、初心を忘れないで。そうしたら、国民はついていく」と、伝えて、市民運動家であった人の総理大臣の就任を「おめでとう!」と言いたい。

子ども手当についてひと言。
やはり、現金の直接支給はどうかと思った。
社会福祉、社会補償が充実しているという北欧の国々、そこでも、当然のように「子ども手当」はある。しかし、それは現金で親に至急するものではなく、その子ども名義の銀行口座にその子が18歳になるまで振り込まれる。親であっても引き出すことはできずに、本人が18歳になった時、本人のみが引きだす権利があるというものだ。18歳になった時、就職する者、進学する者、いろいろだ。その時に使えるお金だ。この方法は良いと思った。預金していく間に利息運用もできるし、第一にその子どもにしか使えないお金である。現金で支給された場合、情けないが、賭け事や酒代に消える事がないとは言い切れない。
こういう方法について、NHKの番組で取り上げ、厚生労働省の副大臣やらが、その場で話を聞いていたはずだけど、どうして、そういう方法を模索しなかったのかなぁ。だから、“ばらまき”と言われてしまうのだよなぁ。( 私も“ばらまき”だと思うけど・・)


いろいろと書き足りない気持ちはあるが・・時間が無くなった。
とりあえずは、私たちは、まだ、油断せずに、メディアに踊らされずに、再びのスタートを見張っていなければならない。長い長い前政権が齎した負の諸問題が1年や2年で解決できるわけはないのだから、焦らずに、見守っていなければならない。
結局、「見張り、見守り」だ。