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アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

舟木一夫の『恋唄』 in  Nagoya

2013-07-29 | 音楽
舟木一夫の歌う『恋唄』の歌詞(詩)がとても好きだ。
その詩を知った時、彼(舟木)本人の「詩の感性」に、決して大げさではなく、脱帽した。
そう、この歌は、本人の作詞。
以前のこのブログに、「シンガーソングライター舟木一夫」と書いたが、『恋唄』は詩のみ。
それでも、この歌は詩とメロディがぴったり合っている。
詩が描いている『恋唄』の世界を、目の前に見せてくれるようなメロディだから、この歌が大好きな私は、まず、僅かなイントロで、
「…!『恋唄』が来る!」
と、妙な思い方をして、待ち構える(?笑)。
3コーラスを聞くのは久しぶりだった。
3コーラス聴かないと、『恋唄』の世界が、少し、欠けてしまう―と、思っている。
彼に限らず、歌番組などでも、通常、歌は1番と3番を歌い、2番を抜くことが多い。
時間の関係だそうだが、勿体ない事をしているなぁ―と、たまに歌番組をみると思ったりしていた。

6月の新橋演舞場の公演でも夜の部は『恋唄』が流れた。
でも、1番と3番の仕様。
勿論、それでも、この歌が好きな私は喜んではいた。
『恋唄』を聞くと、いつも、「舟木一夫は歌がうまい!」と思い、2コーラス仕様でも、それは、思った。
歌の心を声に乗せて届けてくる―それが、現在(いま)の舟木一夫の歌だ。
それ(心)がすごく感じられるのが、『恋唄』―と、私は、勝手に思っていて、勿論、他の歌に心を感じる人もいるだろうけど…。
3コーラスを聴きたかった。
特に2番の「あなたがとても好きだった竹の葉末の露の色」という詩に接した時、この人の感性に驚愕した。
そういう言葉が浮かんでくる感性の豊かさに、一応、物書きの私は、驚愕の次に、ちょっと、その感性に羨望を…「いいなぁ、そういう言葉が脳(心か)から出てくるなんて」と(笑)。

『恋唄』は、その情景が浮かんでくる歌である。
「想い出つもるふる里に、昔あずけた恋ひとつ」―「想い出」→「つもる」、「昔、あずけた」→「恋」という言葉綴りにも驚いた。
イントロの次に、この言葉から歌が始まる。
そうすると、まず、目の前に、昔、恋をあずけてきたふる里の風景が浮かんでくる。そのふる里を知らないはずなのに…。
それが、『恋唄』の世界、情景だ。
だから、『恋唄』は3コーラスで聴くのが「最高!」なのだ。
物語が示されるから…。
ふる里は勿論、都会ではなく、太陽燦々と降り注ぐ、太平洋側の温かい(暑い)地方ではなく、日本海側の、或いは、日本海に浮かぶ島かもしれない、そんなふいと暗いような、それでも、慎み深く、温もりのあるふる里が、目の前に浮かぶ。
そこで、昔、恋をした。その恋は、ふる里に置いてきた…云々と、情景と物語が、この歌の心を乗せた彼の歌声によって、脳裏を巡る。
その感覚が、ひどく、心地よい。
昔恋したそれを歌っているのに、多分、その恋は実らずに終っているのだろうが、それでも、「悲しさ」はこの歌には、無い。
ただ、ただ、懐かしさと温もりとふる里の情景が在る。
だから、心地よいのだろう。
だから、温かいのだろう。
…というわけで、先日、名古屋中日劇場の7/26~7/27の「舟木一夫コンサート2013」で、ステージの終わりのアンコールで、念願の『恋唄』3コーラスを聴いて、大満足の私だった。

whiteの中にある歌にも、この人の豊かな感性はあり、今の声で聴いて、そして、その言葉のそれぞれに、改めて、勉強させていただいている私である。(ゴメン、舟木さん、授業料も払っていません)

本日の東京は、外は現在、26℃、涼しい。
5月の頃は、25℃を越した時点で「暑い」と言っていたのに、梅雨明け直後の灼熱の日々で、体が暑さに慣れてきたのか。

地球は太陽系宇宙の中で水が存在できる位置にあり、これ以上太陽に遠くても近くても、水は存在できないので、生命は生まれなかった、とても、うまく、天の配剤がなされている。
そして、この星が過ごしやすい温度に保たれているのは、海洋深層流のおかげだと、先日、新聞のコラムに書いてあった。(以下次の通り)

『〈掌に掬(すく)へば色なき水や夏の海〉は、大正俳壇で活躍した原石鼎の句。
手ではすくえぬ海の青さ。その蒼海の底、ひそかに大河が流れている。海洋深層流だ。
海水は北極や南極付近で冷やされ、重くなって沈んでいく。
それが一キロ以上もの厚さの巨大な水の層となり、1秒に1センチほどのゆったりした速さで海底近くを流れていく。
水温は赤道付近を通る時でも零度近く。
地球がこれほど過ごしやすい温度に保たれているのは、深層流がエアコンの役割を果たしているからだという。
その旅は壮大だ。東京大学大気海洋研究所の羽角博康教授によると、北極付近で沈んだ水が大西洋を下り、南極付近で折り返して北極に戻るまで最長ルートで十万キロ。地球を二周半するほどの長旅で、三千年から四千年もかかるらしい。
旅の発着点となる北極は海氷に覆われているが、今年はその面積が観測史上で最小になりそうだという。
地球温暖化で今世紀後半の夏場には、氷がほぼ消滅するという予測もある。
 極地で海水を冷やす力が衰えれば、深層流も弱まる。人類は二酸化炭素を大量排出することで環境を変えてきた。
「いったん海洋深層流に影響が出れば、いくら排出削減対策をとっても効果が出るのは何百年、何千年も先なのです」と羽角さんは言う。
悠久の時を刻む海の大河。その流れを私たちは変えてしまっているのだろうか。』

やはり、「神」は存在する。自然の力、宇宙の力が「神」だ―と、つくづく思う。
人類は、謙虚であらねばならない―と、いまさらながらに思う。

『恋唄』から、波及して、そんな所まで、ふっと考えてしまった、天候異変の多いこの夏のふいと涼しい、これもまた、異変であろう中で。

舟木一夫のWHITEシリーズ

2013-07-15 | 音楽
シリーズという表現は適切ではないかな?
でも、すでに三部まで発売されているから、やはり、「シリーズ」だ。
そして、実は、その四部の発売があるといいなぁ―と、心待ちにしている私だ。
…と、書いて来ても、舟木一夫ファンの人々なら、誰でも知っているだろうが、この「WHITE」って、何?
その正体はCDアルバム。
「舟木一夫は、シンガーソングライターでもある」
といった事を以前、どこに書いたか、忘れたが、どこかに書いた。大雑把な私だ(笑)
30代から40代で彼が書いた(作詞作曲)作品が収められている。
音源(レコード、CDになっている)が無い作品も含めると、彼の自作の歌は、かなりの数に上るはずだ。
数年前から、コンサートなどでも、自作の数曲を聞くことが多い。
「歌は、歳月を経て宝物になる」
と、思ったのも、それらを現在(いま)、ここまでの遠い距離を歩いてきた果てに聴いたから…。
同じ歌をCDで聴いた時、30代のまだ、少年のような声質の歌声が流れてきた。
それは、それで、よかった。
どの歌も、その歌詞に、彼の心が存在していたし、感受性の豊かさが十分に感じられる言葉が並ぶ。
その言葉の(或いは表現の方法)豊かさに、物を書いてきた私は驚いたし、十分に勉強させていただいた。
「感性なんぞは、もう、無い。何も浮かばねぇ~!」
と、数年前に、彼は言ったが、それは、誰しも、同じ。
感性は歳月と共に、年令とともに、枯渇していく。悲しいが、それが、事実。
いや、感性が枯渇するのではない。
感性は、生涯の終わりまで、心の内に存在している。
感性を表現する方法が、枯れていくのだ。
でも、これは、もの書きを含めて、アーティストには、危機だよなぁ…。
その「危機」なるものは、私も十分に感じている。怖いくらいに、ね。
話をWHITEに戻すと、「何も浮かばねェ」とは言う彼について、私は「そんなことはない」と思う。
なぜなら、舟木一夫は、自作のそれらの作品を現在の彼の感性で歌っている。
「あの頃こんな事を考えていたのか~」
と、トークしたが、あの頃考えていた事が、ここまで歩いてきた果てに、「宝物」になったなぁ―と、私は思う。
そして、自らを振り返り、私の宝物を探す。
かつて、書いた数多の作品の中に、それは、あるのか―と。
そこには、かつては、私の想いの中、いや、この脳から、溢れてきた、それこそ、ペン運びも間に合わないほどの「感性という激しい流れ」があった。
それらが、作品の一つ一つに、確実に残されていた。
「あの頃、こんな事を考えていたのか」
と、私も、思った。
それなら、私も、現在の私の感性で、物事をとらえ、書いていくことができるのではないかーと、やはり、こんなに遠くまで歩いてきたのに、舟木一夫のWHITEに、また、助けられたかな。
長い歳月、人生と言う道の端にはいろんな出来事があり、人生には、思い通りにいかない事の方が多いのだ―と、ようやく理解する頃、自分が作りだした、生み出した、それらは、いつの間にか、「宝物」に変身を遂げている。
変身してくれたから(?)、これから、まだ、歩いていく己の旅路を助けてくれる存在になっている。
私は、そんな風に思うのだ、舟木一夫の自作の歌を、そのステージで聴くと…。
その思いは自らに跳ね返って、私を助けてくれる。

そう思っていたら、6月の新橋演舞場の公演、千秋楽の歌のステージの方は、1カ月公演の終わりとは思えない内容で、当初は千秋楽を観るつもりは全くなかった私も、「どうしても行きたいからネットでチケットGetして」と誘ってくれた友人に感謝、ひどく、得をした気分。
全曲、自作の歌だった。
芝居と歌のステージの1カ月公演の場合、歌は、大体おなじみのヒットナンバーであることが多い。大ヒットの「高校三年生」は絶対に外せない内容となる。
しかし、今回の千秋楽公演に関しては、最初からスタンディングで、最初から面食らったが、「全て、自作の歌で」と聞いて、「よしっ!」と、心でガッツポーズ(笑)
何が、「よしっ」なのか(笑)

それにしても、WHITEのNo4がでてくれないものか―と、アルバム1枚を作成するのに、どれだけの時間と労力が必要か、わかっているのに、ちょっと、望みをもってしまう。
音源になっていないものが、そのまま、消えてしまうのは、何とも、勿体ない。
しかし、それもまた、よい…というのか。
いや、絶対に、よくない!(わがまま~!)。

初体験の家庭菜園なるもの、作り手の願いに応えてくれて、収穫が~!!嬉しい限り。
彼ら、彼女らのように、「作り手の願いに応えてくれる」といいなぁ、私の作品群も(笑)

画像は今朝収穫、すぐに、私の朝食となった胡瓜とミニトマト。

舟木一夫さん言うところの「その人」     萩尾 農

2010-03-27 | 音楽
舟木一夫さんが先日、2010年のコンサートツアーを開始した。
この人のステージはパワーと温もりが溢れていて、心の中が暖かく、元気になる。
「パワー」と「温もり」は、全くちがう種類のものと認識されそうだけど、その両方が、この人の作る空間には存在している。いろいろある道を歩いてきたこの人の「心」が・・ある。
最近のステージで「その人は昔」を歌う事が多い。
「その人は昔」という歌(というより歌劇・・といってもいいような)は当時のLPレコードの裏表に渡る長い歌だ。だから、ステージではそのテーマ曲部分を熱唱(まさに、熱唱!)。
「その人は昔」は青春の物語。映画にもなっているからDVDがある。
舟木さんは「その人は誰にでも居る」と言う。
「その人」は恋人であったり、友人であったり、先生であったり、あるいは両親の場合もある、人それぞれだと言う。
頷いた。そう、確かに、そうだ・・と、人生の道のある程度の距離を歩いてきたら、理解できる。
今の時点で、「年齢としての青春期」にある人々にはわからないかもしれないなぁ。その時は「その人」は恋人である場合が多いし、自身のその昔を振り返れば、友人を「その人」と思うことはなかったし・・。
けれど、本当に歳月が重なり、いろんな事を理解し、人が生きていく途上で思い通りに行くことの方がずっと少ない事を知り、それでも、ただひとつでも光があれば、それは、かなり幸せなことだと、よ~く、わかった頃、自分の中の「その人」の数は増えていた。
数が増えたから(?)というわけではないだろうけど、友人たちも「その人」の中にいた。
早々に逝ってしまった友人は、その昔、その頃の私では理解できないだろう問いかけのいくつかを私に投げかけてきた。振り返ってみれば、やはり、その頃、私は理解していなかったことが、書棚の引き出しの奥から、数年前に出てきた彼の昔の手紙を読み返して、よくわかった。
幼馴染の保護者のような雰囲気(?)の彼は、その昔、その若さで、こんな事を考えていたのか、そんな風に悩んでいたのか、答をいつも探していたのか―と、手紙を読んでみれば、今なら、あるいは答を返せたかもしれないと思う。それは遅かったかもしれないけど、そういう友人が、私にはいたのだと、そういう出逢いがあってよかったと、その昔は、どうにも素直ではなかった私は、今、素直に思う。
それで、その友人がとても好きだった岡林信康さんがコンサートツアーを始めたので、5月、行ってみることにした。
しかし、正直に明かせば、彼が岡林信康さんを好きだったことは、つい最近まで忘れていた。岡林ライブに「一緒に行こうよ」と誘った古い友人が、「○○は岡林信康、好きだったものねぇ」と言ったので、「そうだったっけ」と思い出した私のこの大ボケだ。・・で、もうひとつ明かすと、その友人についても「岡林ライブ・・行かないだろうなぁ」と半分以上思いながら(ゴメン!N子)、あきらめ半分で誘ってみた。そうしたら、意外にも(これも、ゴメン!)、「行く」という返事。彼女の気持の中には多分、その昔、彼女にとっても「幼馴染の保護者のような友人」であった彼の事があるのだろうな・・と、これは、私の勝手な推測。
でも、私は、天の彼には本当に悪いけど、自分が「今の岡林信康の歌」を聴きたいと思ったから―これが、本当の所。マ、彼は多分、そういう私だということは、昔も知っていただろうけど・・。
その人の葬儀の時、その人の友人が私とN子に、こんな風な事を喋った。
「あいつは、昔、二人の女の子のことを言っていた。二人はいつも一緒にいるが、一人はことごとく、俺に反発する」と。
「その女の子は私だ」と、思った。
本当は屈折していたのに(「屈折」という言葉は正しくないかもしれないが、「まっすぐ」に対する言葉として、ここでそう表現する)、その頃の私には「まっすぐ」に見えた彼が苦手だったことは確かだ。
それらの事も、その頃、関わった友人たちも、好きになった人も、みんな、これほどの歳月の果てには「その人」になった。勿論、「その人」の中に入れたくない人は入れない(!)しかし、その数よりも「その人」の数の方が多く、それを思えば、「悪い人生」ではなかったな・・と、安心する(ゲンキンな私だ)。

3月ももうあと少しで終わり。
昨日は暖かくなると言っていたのに、寒かった。夜はものすごく寒くなり、春は「足踏み」どころか、「尻込み」して、来た方向にクルリと向きを変えて、戻っていってしまったのかもしれない―とさえ思った。今日は、どうやら、ようやく、晴れた。でも気温はさほど、高くないから、桜も、まだ、足踏みかも・・。
せめて、春のように・・と先日、青空の桜の壁紙にしたが、あまりに青空が青く明るすぎて、ちょっと、気おくれするので、また、変えた。早く、「夜桜」の壁紙にしたいなぁ。



鹿賀丈史コンサート    萩尾 農

2010-03-08 | 音楽
昨日、気温は10℃を越えていないーと書いたけれど、10℃どころか、18:00台の渋谷の気温が3.8℃とTVのニュース番組の片隅に出ていて、余計に寒さを感じてしまった。雨も降っていたし・・。
本日は、一応(?)曇り時々晴れ・・だったはずだけど、曇りっ放しで、気温も低かった。
寒い春に、熱い涙が浮かんだ。
鹿賀丈史コンサートに行った。
デビュー作の「ジーザスクライストスーパースター」からつい最近の「シラノ」まで、演じてきたミュージカルのナンバーを歌った。
知り合ってどのくらいか・・つい何年か前に30年を越した・・とか、思っていたはずだけど、何と、38年くらいになっていた。当然、38年前は彼も俳優ではなく、私も物書きではなかった。
青春の只中、目の前には、それぞれがこれからやることがいっぱい存在している・・といった頃だったなぁ。
だから、当然、鹿賀丈史デビュー作、中野サンプラザでの「ジーザス・・」は観ている。その後、全て観てきたから、本日のコンサートのナンバーは全部知っている。
知っている・・というより、どれを聞いても、その時の舞台、芝居のその場面がかなりしっかりとした形をもって脳裏に浮かんできた事に自分で驚いた。忘れているものだと思っていた。あまりにも前の事だし、あまりにも沢山観てきたのだ。
きっと、「良いもの」はずっと脳裏に蓄積され続けるのだ。
その記憶の扉が、歌を聴いて、パッと開いた。
そして、私は、それらを脳裏に抱えながら、正体不明の感動に、何度も泣きそうになった。
「私はいいものを、ずっと、観させてもらってきたんだなって、あらためて思った、ありがとう!」
と、あらためてお礼を言った。
それにしても声量も声も衰え知らずだった。
声の質は天性のものと聞いた事がある。そうすると、良いものを神様からもらって生まれてきたということになるが、日々の努力や訓練なければ、あの声はない。
そういえば、昔、その声や声量に「胃や腸なんか、少ししかなくて、胴体のほとんどが肺でしょう?」と馬鹿な事を言ったことがあったっけ(笑)

寒い寒い真冬のような春だけど、本日は「良いもの」をみて、熱い涙と幸福気分で、ちょっと、ほっこり・・かな。

悼む 浅川マキさん         萩尾 農

2010-01-24 | 音楽
2010年になったなぁ・・と思っている間に、もう1月も終りにちかい。『光陰矢の如し』・・で、本当に時間は全速力で駆け抜けているようだ。「少年老い易く」などという時期はもう、とっくの昔に過ぎた私が(いや、友人たちも月日の経つのが早いと一年ごとに感じているから、「私」ではなく「私たち」かな)、このところ、時間の速度はより速くなったと感じているのは、訃報を聞くからだろうか。
これまでにも早くに逝ってしまった友人(17歳で病で去った同級生もいた)もいた。けれど、時間の流れの速さを今ほど感じなかったのは、自分が若かったから・・かな。
あるいは、若すぎた日に聞いた歌のアーティストたちが、良い年の取り方をして、再び、活動を開始している姿を目にするからだろうか。彼ら(あるいは彼女ら)の面立ちや姿は当然、以前とは違う。時間の流れを見る。その流れは自分自身にも突きつけられる。けれど、私が昔、聞いた歌のその歌い手の人々は皆、良い表情をしていた。それがとても嬉しかった。活動をしているのなら、一度、そのライブを見に行きたいと思ったりした。
そういう中で、先週、浅川マキさんの突然の訃報が夕方のTVニュースでもたらされた。
「エッ?!」と立ちつくした。結構、ショックだった。
私が彼女の歌を聞いていた昔、私は彼女の年齢も出身地も何も知らなかったが、歌が好きだった。が、考えてみると、「歌が好きだった」というほど、その当時、彼女の歌の深さを理解していたのかと問われたら、「?」。
ちょっと、やりきれないような歌詞に生意気にも(?)惹かれていた。
そして、今なら、やはり、それらの詩に、ある部分は身に染みて頷けるのは、こちらもその分、年齢を重ねたから・・。
「つい昨日までの幸せは船出とともに去りました」とか、「真っ赤な港の彼岸花」とか・・歌を口づさめば、その風景が今でも浮かんでくる。
もう随分と時間が経っているのに、歌(歌詞)を忘れていない。(それが、「歌の持つ力」なんだろうと思うけど)。
彼女の歌では「夜が明けたら」が有名だったけど、その他にも沢山の歌がある。その昔に購入したので、私の持っているのはLPレコードでCDではなく、なかなか聴くことができない。
いや、我が家のコンポにはレコードプレーヤーがあるので、聴くことはできるのだけど、音があまりに良すぎて近所迷惑にならないか・・と。実は聴きたいのは夜なのだけど、それを思うとなかなかできない。加えて、ヘッドフォンで音楽を聴くのは嫌いな私(笑)。
でも、近いうちにレコードを引っ張り出して聴いてみようと思う。
きっと、昔とは違う思いを持つだろう。
昔はわからなかったことが、ちゃんと理解できるだろう。

浅川マキ様 たくさんの心に染みる歌をありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします(合掌)






一年の終わりに(その3) 岡林信康・・さん   萩尾 農

2009-12-30 | 音楽
12月27日のTBSテレビ『情熱大陸』は岡林信康・・さんだった。
彼は2年前の2007年の野音(日比谷野外音楽堂)で30数年振りでライブを開いた。
1970年代「フォークの神様」と呼ばれた彼は全く違うものを抱えて帰ってきた(?)。バックには「岡林信康」ではなく、「御歌囃子信康」という幟がいくつもあった。
20代前半で「フォークの神様」といわれ、その呼び名が一人歩きして、それが嫌で(?)隠遁し、農耕生活に入った。その間に彼は日本の音楽の原点は「演歌」にあるのではないかとの思いに至り、「エンヤトット ロック」という独自の音楽に辿り着いた。それを抱えて戻ってきた。勿論、そこではかつての「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」なども歌ったが、表情がひどく穏やかで、その時、私は少し驚いた。「良い年齢(とし)の取りかたをした人の顔」をしていた。
そうそう、余談だが、その野音ライブのバックに舟木一夫ライブでバンドリーダーを務めている平野融さんがいた。あとで知ったが、平野さんは岡林信康バンドのメンバーをずっとやっているーということ。この事は岡林ファンの方がネットに、「岡林信康と舟木一夫・・というのが不思議。まったく違う世界のようだけど」と書いていたくらい意外な関連だった。私個人としては、岡林と舟木ー決して、別の世界とは思っていない。でも、例えば舟木一夫の昔の姿、昔の歌しか知らない人々は「違う世界」と思うかもしれない。
私は、岡林信康の「君に捧げるラブソング」(1979年)を舟木一夫に歌ってもらいたいとずっと思っているくらい。この歌は、その頃、去っていった人が私に渡したレコードだったけど・・、こんな歌を渡すなら、自分から別れを切り出すなよ、馬鹿!ーと思ったが、好きな歌である。この歌を聴いた時も、「岡林はラブソングは書かない」と勝手に決め込んでいた私は、これまた勝手に岡林の変化に驚いた。
2007年から2年後の今年、岡林信康の全アルバムが復刻したという。
「60過ぎて、全部の歌が発売されるというのは快挙」と笑う62歳の岡林信康は、確かに、優しくなったーと、これは番組内でも言っていた。「岡林さんのいう自由とは?」の問いに
「空に浮かんでいる凧」と答えていた。
「糸を切れば自由になれるかというと、糸を切れば地上に落ちるしかない。地上に糸でつながれているから凧は飛べる。自由とはそういうもんであろう・・と。若い頃は凧の糸を切ろう切ろうとしていた。もっと飛べる、もっと自由になろうとしていた。それで、ドタ~ッと落ちる」
そういって笑った。
「自分は過去のものは聴かないのだけど、最近、復刻版などが出たので聴いてみた。そうして、感動している。この歌いいなぁ・・とか。よくこんな歌を書いたなぁ・・とか、楽しんでいる」
と、言う。その気持の有り方は何だか、私にも理解できた。
私も過去のものは殆ど読まない。そんなに過去でなくても読まないくらいだ。原稿を渡して、初稿ができて、校正しながら読む。(読むのはここで終る)その後、段階を経て本が発行される、当然、著者にも届くのだけど、実はそれを読むことはあまりない。
それらの作品にこの数ヶ月の間、ちょっと、目を通した。やはり、私もどこかで感動した、楽しんだ。それで、私も、次の段階を考えた。
ここまで歩いてきたら、自分のもっとも好きな事は何かーなど、しっかり、掴んでいる。だから、それを決して捨てまい・・と思う。
岡林信康さんにしても舟木一夫さんにしても、昔(そして今も)心を留めたアーティストたち(人々)は、本当に良い年の取り方をして、それで、私は、
「男を見る目がないといわれた私もかつては見る目があった。彼らの現在をみてごらん」と、変な自信を持つ(笑)。

今年もあと二日。
そうそう、パソコンのこと。今はまだ、チビパソコンでこれを綴っているが、結局、XP君を諦めて、セブン君(WINDOWS7)を購入した。これまた、余談だけど、Windows7というと、なぜか、ウルトラ7が思い浮かんでしまう私は、実はウルトラマンの歌は全部歌える(笑)。
新パソコンは地上デジタルテレビも見ることができるが、我が家はまだ、地デジなるものを引いていないから、見ることができない。再来年7月まで現TV(何と、1985年製。あまりTVをみないから、いまだに画面はしっかり・・だ)で我慢しておくつもりでいた。でも、あの画面の端にずっと「アナログ」と出続けているのは御免こうむりたいなぁ。
碧い馬同人会の今後の活動の仕方についても、模索中。

とりあえずは、今年一年ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

続・納豆狂騒曲と日本の歌百選    (萩尾)

2007-01-23 | 音楽
「狂騒曲」と「日本の歌百選」の続編なので、カテゴリはまた、無理やり、「音楽」。
新聞その他の報道でご存知だろうが、例の納豆ダイエット騒動―結局、捏造ということが判明。
私は番組はみていないが、番組中で用いたデータが捏造もの。実験の結果・・云々をいう前の問題だ。
しかし、問題なのは、それよりも視聴者の反応だ。
TVでやることは、みんな正しいと思っている、いや、TVも報道機関なのだから、不確かな事を「こうだ!」と断言して報道するはずがない―と、善良な視聴者は信じているのだろうなぁ・・・。「鵜呑み」状態。
が、それにしても、売り場から納豆がなくなるほどの狂騒は・・いかがなものか。
これで、製造が間に合わないほどの注文に応えようと業者が作りすぎた納豆が、今度は、余ってくる。(業者も悲鳴!だそうだ)。
日本民族―国民性は、非常に扇動されやすい。
ひとつの論・一事に熱狂する。
今回は納豆だったからよかった(?)ものの、こういう一事に熱狂する国民性が、かつては、「アジアを救うのはわが国の義務だ!」などという美辞麗句、偽の大義名分に扇動され、熱狂し(マ、その前に「教育」で洗脳!されていたけど)、「否!」を誰も唱えることなく(「違う!」と叫んだら「非国民」である)、アジアへの侵略を始めたのだ。資源を持たないわが国が、アジアの資源に目をつけたことは紛れも無い事実。咎められれば、国連を脱退。そして、世界を相手の戦争へ・・・この戦争で逝った命たちは、この戦争を起こした人々ではなく、一般国民。
その悲劇から60年余の現在、あの頃と非常に似ている世相らしい。
為政者たちは一方向に向かおうとしているし、首相は、現実を(ついでにこの国の歴史も)全く知らないかのような、好戦性にあふれたひどく、危険な人物であるし・・。
彼は訪欧中ブリュッセルで言った。
「今や、日本人は国際的な平和と安定のためなら、自衛隊が海外で活動する事をためらわない」と、発言。
日本が「納豆狂騒曲」に酔いしれている間に、こんな危険な発言をこの国の為政者はしている。
そういえば、西武の松坂選手が大リーグに60億円で落札・・云々のニュースをTVはしつこいくらいに放映し、新聞も第一面に大きく取り上げたが、確か、その頃、「教育基本法改正案」が国会で通っていたのだったっけ・・。(目くらまし!・と、思ってしまった。マスコミも情けない!・・と、口惜しかったなぁ)。
話がそれたが、為政者のその発言は、吉田司氏(ノンフィクション作家)のコラムによれば、
「自衛隊の派遣先が流血の激戦地なら、ほとんど、お国のために死んでくれと、国民に告げるに等しい。こんな好戦性を見せる宰相は戦後一人もいなかった」
と、憂う。
日米同盟を大事に大事にしている首相は、その立場にいる人間がまず、考えなければならない国民の事が僅かでも頭にあるのか(無いだろうなぁ)。
その米国の大統領もイラクへの米軍派兵二万増員をきめた。議会が反対しても「それを決定して、前進させる」と譲らない。こいつ(ア、つい、本音が)、この人も、国民の事は考え無しの類(タグイ)の、吉田氏いわく、「日米の冷血宰相」の片方である。
前首相も日本にあった良いものを悉く費えさせたが、今度は、もっと、危険な状態になった。こんなに好戦性の高い為政者二人の下、どうなっていく?!この国は・・。
日本が今、向かっている方向「改憲」→「軍事立国」・・・これを阻止するのは国民の力だが、こんなことを書くと、次の国会で首相と与党が狙っている共謀罪が成立したら、逮捕・拘束・・かな。
が、大丈夫、「これを阻止するのは国民の力」と、一部の人間が言い立てたって、もはや、立ち上がるような日本民族ではなくなっているから(皮肉~!)・・。変な方向には熱狂し、扇動されるくせに、考えることをしないから、本当に拳を振り上げるべき時と事態がわからない(いや、それこそ、考えもしないだろうなぁ、悲しい、本当に悲しい)。
歴史が好きで、この国の歴史を大事に思ってきた私だから、余計に、先人たちの心に思いを馳せて、このままでは、ついに喪失してしまうであろう日本らしさ、この国の良さ、いや、それこそ、「アメリカのひとつの州のような日本が・・」と、北朝鮮が言っていたような形になり兼ねないこの国の未来が、悲しいやら、口惜しいやら、情けないやら・・である。

それでも、ホッと安心したことがあった―と、前回、納豆狂騒曲と一緒に書いた「日本の歌百選」だった。これにコメントをいただいた。
童謡や唱歌が音楽の教科書から消えたのは、
「歌詞が古くて、意味がわかりにくい。不適切な歌詞がある」といったことから、文部省が随分前に教科書から外した―とのこと。
随分と見当違いな理由で、外したものである。
確かに、たとえば、唱歌「ふるさと」を初めて習った子供の頃、その歌詞の「ウサギ オイシ カノ山」で、「何で、ウサギが美味しいのかな、ウサギを食べちゃうのかな」と思ったけど(笑)、先生が「ウサギが美味しいのではなく、ウサギ追いし・・ウサギを追いかけた」と、説明してくれた。(「教師が語る言葉」・・これも、今の教室から失われつつあるという。現場の教師が悪いのではない、悪いのは文部科学省の学習指導要領かな)
「古くてわかりにくい歌詞」というなら、
「君が代などは、もっと、わからない」―と友人が言った。
「親から子にうたいつぐ日本の歌百選」に、「君が代は入っていない」―と、新聞の読者の発言欄の片隅の「笑ケース」なる所に投稿されていた。
もっとも、君が代を国歌とするところに、実は無理がある。あの歌は明治天皇を讃える礼式の歌であるから、それを現代の国歌とするところに最初から無理があった。
マ、君が代について論じると、今度は国旗掲揚が・・云々となってくるから、その話は後日として、その「日本の歌百選」の中で、「揺籃のうた」というのが、わからなかった。
このブログを呼んでいる人で、歌詞を知っている方、どうぞ、コメントで歌詞をお知らせくださいませ。歌詞を読んだら、あるいは、わかるかもしれない・・と、期待しつつ・・。

長い文章、言いたい放題の一文となったが、ブログ(日記)だから、私の独り言である(と、弁解する私は、やはり、国家権力を恐れる弱い一国民??)。

納豆狂騒曲と日本の歌    (萩尾)

2007-01-16 | 音楽
協奏曲ならぬ、「狂騒曲」である。
「曲」と付くから、カテゴリは無理やり「音楽」に(笑)。
でも、「日本の歌百選」についても、書くから、マ、いいか―と、勝手に納得して・・(笑)。
数日前の新聞記事で、「納豆が品不足」という、納豆大好きの私にとっては、不測の事態が起こっていることを知った。
あるTV番組で納豆がダイエットに効く―といったことを放映したらしい。
・・で、人々が納豆に殺到(?)したとの事。
納豆は作るのに、3~4日かかるので、生産が間に合わないほどだという。
ダイエットに効くかどうかはわからないけど、体にいいのは確か。でも、大豆イソフラボンは、摂取し過ぎるのは良くない・・といったことが、数ヶ月前に新聞やTVで報道して、その時は、納豆生産業者らが、「そんなことはない!」と、躍起になって反論していたはずだが・・。
今度は、「一日二個の納豆を食べるとダイエットに・・」云々らしい。(「エ、摂取し過ぎは良くないのではなかったの」と、一瞬、思った私)。
それより、何より、納豆が売り場から消えるなどという事態が、納豆中毒の私にとっては、緊急事態!
・・といっても、私は、一日二個は食べないが、一日一個食べないと気がすまない・・やはり、中毒だ~(爆)。
10年以上前、福岡小倉に行った時、二日目には納豆を求めていた。が、どこにもなくて、飛浪に聞くところによると、納豆を食べる習慣がない―という。
「九州にはもう、来れないなぁ」と、半分くらいは本気で思った(笑)。
マ、今は、九州でも大阪でも(その頃は関西にもなかった)納豆はあるらしいけど・・。
TVで「これがいい」―特に、「ダイエットに効く」となると、その食品に殺到する傾向は、これまでもあった。高野豆腐、寒天・・・等々。
日本人の特質だろうか、ひとつの論にワァッと熱狂する。熱病に冒されたみたいに、その論以外は受け入れない、考えもしない、それどころか排除にかかる。そうして、この国は、かつて世界を相手の戦争に突入した。
こういう国民性を前首相はよ~く知っていた。一つの言葉が平均7秒だったという彼は、選挙も、たった一言「改革を止めてもいいのか!?」・・・当然、国民は問題の多い現状況を改革しないといけないと思っているから、「止めてはいけない!」との返答(投票)をする。その改革の中身を見つめる事は忘れて・・。いや、7秒の言葉では、中身までの説明はできるわけもないし、その短い言葉で、国民(選挙民)は熱狂するから、説明は必要ない、当選してしまえば、そんな物(!)は後から考えればいい―といった風な選挙が展開された。
一つの考え、一つの論に国民が熱狂していくほど、怖い事態はないのだけど、深く考えることを放棄したようなこの国の民は、「任せっきり」で、何だか、とても不安。自分が選んだ(投票した)政治家をそんなに信じているのかなぁ。その為政者たちと「運命共同体」とちゃんと覚悟しているのかなぁ。
「いや、いや、そんな覚悟などないよ。その前にそんなこと考えもしないよ」
という声が聞こえる気がする(泣!)。
それでは、為政者たちが下した結論に、それが、どんな結末であっても(大袈裟に言えば、再びの戦乱であっても)、黙って従う覚悟が・・いや、覚悟は、最初から無いのだったっけ・・有無を言わさず、従わされる運命ということか・・ワァ、先は暗いなぁ。
納豆騒動から、また、国民性をみてしまったが、まさか、この納豆好きの私も日頃、何の苦労もしないで買っている納豆の購入が「!!??」ということになろうとは・・。おまけに、いつもの納豆を買う事ができなかった(涙)。
「そんな納豆騒動は他の町のことさ」
と、思いきや、昨日、納豆売り場にはひとつの納豆もなかった!
「生産が追いつかないので、日頃から、納豆を買って下さっている方々には申し訳ありません」
と、店員が頭を下げた。
いや、店員が悪いのではない、この国の国民性が・・・云々、言っている場合ではない。納豆中毒の私はどうしたらいい(爆!)。
その15分後、入荷してきたが、目当ての「いつもの納豆」は生産が間に合わないということで入ってこなかった。仕方なく、違う納豆を・・(泣)。
そこで、小耳に挟んだ店員と上司らしき人の会話。
「明日、入ってくるかどうかわからないから、全部は出さないように、それは、明日の分」
う~ん、まさに、「納豆狂騒曲」。
この狂騒曲が、やがて、「改憲狂騒曲」にならないように・・・どうして、こうなってしまったか、大和民族―と、嘆きながら、売り場を後にした。

それでも、同じ昨日、ホッする記事も目にした。
そういう催しをやっていることは知らなかったのだが、文化庁が、
「親子で歌いつごう 日本の歌百選」
という公募を昨年9~11月にやっていたらしい。
その発表があった。
学校の音楽の授業や音楽教科書には唱歌や童謡がなくなったと聞いて、心を痛めていた。この百選も、昨今の音楽教科書と同じように、J-ポップが多くを占めているのだろう―と、思いきや、結果は、「アア、日本人!」と、感嘆!
幼い頃に歌った童謡、唱歌が多くを占めていた。殆どの歌が全部とはいえないが、その何小節かを口ずさむことのできる歌ばかり・・。
中に、流行歌だった(もはや、その粋を脱している)歌が数曲。
「上を向いて歩こう」
「川の流れのように」
「高校三年生」
「見上げてごらん夜の星を」
「時代」
「幸せなら手をたたこう」
「涙そうそう」
坂本九さんの歌はさすがに、流行歌ではなくなっている。
我らが(!)舟木一夫さんのデビュー曲「高校三年生」が、歌い継ぐ歌の中に入ったのは、嬉しいばかり・・。確かにあの歌には、良い意味での「魔力」がある。
アア、良かった。日本人は、まだ、次代に遺すべき童謡も唱歌も歌も忘れていなかった。

「納豆狂騒曲」やら「日本の歌百選」やら・・不安とホッと安堵の両極端、気持の忙しい(笑)昨日だった。

吉田拓郎 & フォークソングとか・・・  (飛浪)

2006-11-03 | 音楽
一週間ほど前か、「吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006」という番組をNHKで観た。オーディエンスの平均年齢実に47歳だとか何とか。拓郎も、ばしばしテレビに登場するようになって随分経つし、年を取ったよなぁという感慨よりもむしろ、よくそんなに沢山ミドルエイジが集まったことに驚いた。

吉田拓郎のはじめのうちの活躍は、私がまだ理解するには幼すぎて本当はよく知らない。拓郎認識は、彼の一世代後に出るアルフィーの坂崎幸之助くん経由による。当時、坂崎くんは「オールナイトニッポン」第二部のパーソナリティをやっていて洋楽フォークも日本のフォークもよく曲をかけた。その頃のアルフィーの(フォークがかった)曲も沢山流れたが、吉田拓郎や井上陽水の曲(古いもの)もよくかけた。

中学にあがったばかりで、ギター一本でジャカジャカ唄うフォークの意味だとかわかりはしなかった。拓郎の「人間なんて」や「落陽」も然り。だが、友人たちとの話題に出てくるアイドルたちや歌謡曲とは違う、フォークシンガーたちの歌がもつ「直接心にぶつかって、はじけて、やがて胸に沈殿していく何か」は確かに残ったような気がする。

たかが音楽、とどこかのミュージシャンは言った。
だけど、私は「されど音楽だ」と思う。
救われ、同期化し、どこか希望を求めている。

今の音楽の中にもきっと未来に歌い継がれる歌があるだろう。
しかし果たして、平均年齢47歳の「つま恋」のような、懐かしく少し切なく青春を重ねられるものになるのかは疑問だ。

若くて綺麗な女の子たちがうらやましい時もある。
だけど、多感な時期に、吉田拓郎時代そしてその後のフォーク時代を青春としてきたことは、本当によかったと思っている。

「ロック新選組」が登場?         (萩尾)

2006-10-03 | 音楽
飛浪の北九州の民謡となると、やはり、『炭鉱節』か―と、納得。
それでは、東京は・・というと、『東京音頭』かというと、昨今はそうでもない。いや、「昨今」ではなく、ずっと、昔から(私が子供だった頃の昔?!)東京の盆踊りや夏祭り、秋祭りの民謡(踊り)は、さすがに、雑多な人々の集る東京らしく、いろんな地方の民謡が歌が流れた。『炭鉱節』あり、『花笠音頭』あり、いろいろである。が、『炭鉱節』が一番、多く歌われた。当然、『炭鉱節』は踊れる(笑)。
・・で、昨今は、『東京音頭』かというとそうではない。
『ソーラン節』である。それも、昔の『ソーラン・・』ではなく、「ど」が付くほどの派手な『ソーラン節』。派手だけど、結構、好きだ。長~い法被を着て、飛んだり跳ねたりも含めて・・ひどく、元気だ。何十人も揃って、踊ると見ていても気持がいい。
それで、先日、学校の体育館で市民祭りに備えての『ソーラン・・』の練習があり、ちょっと、見るだけのはずが・・ちょっと、踊ってしまった(爆!)。
最初の構えを、恥ずかしがってやらない人がいた。足を開いて、腰を落として、左手を後ろの腰に、右手を前に突き出して構える。歌が始まると、まず、右手で波を描く・・・といった具合。
確かに気持いい、が、翌日、腰痛に悩まされるかもしれない(経験者は語る???)
民謡とは、また、ちがう分野だが、昨夜・・というより、本日、の午前1時から30分間、TV東京系列の『ROCK FUJIYAMA』で、「ロック新選組」なる即興のバンドが登場した(笑)。
実は、山本耕史クンがゲスト。
彼は実に多才な人だ。俳優以外の部分でもいろんな事ができる。できるように、ものすごく頑張る人である。時々は、もうちょっと、気を抜いてもいいよ・・と、ふと、声をかけたくなるような、努力家だ。(本人は、自分自身をそう思っていない風だけど)
「ロック新選組」には近藤、沖田がいて、もちろん、山本耕史クンは土方。
「土方耕史」と名前が出たとき、2004年5月の函館を思い出した。
「そういえば、彼は、何度か、土方耕史さんと呼ばれたっけ」
と。
2004年NHKの大河ドラマは『新選組!』―その番組宣伝兼ねてのイベントがあちこちで催されたが、この時は、NHK函館主催の「山本耕史VS萩尾農トークショー」で、私は、実に17年ぶりに、「青年山本耕史」に会った。
17年前、ニッコリ笑って、楽屋の廊下を元気に駆けていった「少年山本耕史」が・・・好青年になっていた。
子供の17年を実感した一瞬、そして、己れの年も感じた一瞬(爆!)。
・・で、トークショーの中で、NHK函館のアナウンサーのS氏、話が進むうちに、とてもいい声で(この人はとても声がいいアナウンサーである)、
「それで、土方耕史さんとしては・・」
と、すまして、言った(笑)。
それはあまりに自然で、言ったS氏は開場の笑いで始めて気が付いた風・・。
これより、3週間くらい前のやはり、函館駅でのイベントで、山本耕史クンは一日駅長を務めた。
JR北海道では、函館~札幌間の特急列車のスーパー北斗の車体に山本土方の姿(写真)を大きくペイントして走らせたので、やはり、一日駅長は「山本耕史」ということに・・。
その時もスピーカーから大きく聴こえたのは、
「土方耕史さんの登場です」
だったそうである(笑)。
2004年は毎週日曜日が楽しみだったなぁ(勿論、大河「新選組!」ゆえに)―「ロック新選組」の素晴らしい演奏を聴きながら、そんなことを思い出していた。
そういえば、この番組で、長淵剛の「乾杯」をロックにして演奏していたが、結構、よかった。
・・で、『ソーラン節』をロックにしたら、どんなになるだろう―なんて、馬鹿な事を考えた(笑)