ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

不信を越えて、新たな一歩を踏み出せるか―――大震災後の日本

2011-07-22 21:24:00 | 社会
いまの日本には本当の政治家はいない。政治をなりわいにしている人だけだ・・・こうした厳しい声が経団連から発せられています(7月22日:産経・電子版)。漂流する日本の政治。政治家のイニシアティブなしで、日本は立ち上がれるのでしょうか。官僚がいる、と胸を張って言えるのでしょうか。それとも、企業が頑張るしかないのでしょうか。あるいは、企業の中でも、現場が頑張るしか再生の道はないのでしょうか。

「大震災後の日本」・・・フランスから見た日本の現状と今後について、13日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

ここ半世紀で最悪の原子力災害となる危険性のある福島原発事故。その制御という、長い時間を要する戦いを、日本はようやく受け入れたようだ。その一方で、将来へ向けての第一歩を踏み出そうという前向きな意見も聞こえてくる。例えば、日経・論説委員の岡部直明氏は「今回の災害は、失われた数十年の最終点になるかもしれない」と書いている。失われた数十年というのは、1990年代初頭のバブル崩壊とその後の経済危機により、日本がなかなか抜け出せずにいるリセッションのことなのだが、岡部氏は、「日本が自らの落日を目にすることはない。今回の惨事を再生へのスタートとすべきだ」と述べている。再生とは被害に遭った地域の復興だけではなく、日本の成長という大きなフレームワークを再考することだ。

復興には16兆から25兆円という巨額の予算が必要だ。しかし、その衝撃の大きさ、戦後最大の人的被害にも拘らず、世界第3位の経済大国である日本が再建のためにその経済力、技術力を総動員することは疑いのないことだ。その中でも特に、日本には節度と我慢を示すことのできる人的資源がある。そうした国民的特徴は、節電あるいは被災者への連帯を示すために消費を控えることなどに見て取ることができる。日本は社会の道徳観によって、予想されている以上に早く苦境から脱することだろう。しかし、この再生はどのようなベースの上に成し遂げられるのだろうか。

国や電力会社の責任、危険なエネルギーの管理にさらなる透明性を求めることさえできない政治の影響力のなさ、こうしたことが問題として提起されるべきである。さらには、日本はその経済、特にエネルギー政策のベースをどこに置くかを、専門家に丸投げするのではなく、国家として再考するよう求められている。

それは、原発建設の地元住民、特に自分たちの視点や現状から反対意見を言ってくる少数の農家や漁師に対して、居丈高に振る舞えば良いということではない。かれらは官僚の自信満々で横柄な態度の前では何ら力を持ちえないのだ。「原発の利用は専門家の知識を超えた次元での再考が求められるべき事柄だ」と、経済評論家の内橋克人氏は語っている。

1960年代以降、日本は急激な経済成長を遂げてきたが、国民には大きな危険の伴うものだった。例えば水俣病のように国民の健康を害するという結果をもたらしている。被害者は数千人に上っている。市民による長い闘いが功を奏して、汚染をもたらした企業の責任を問うことはできたが、健康被害を抱える被害者への補償はまだなされていない。水俣病と福島原発の事故は、その歴史的、経済的背景、およびその危険性において、それぞれ異なっている。

しかし、事故の予防に努め、地域住民の健康を優先するという原則を守っていないという点で、両者のメンタリティはかけ離れていると言えるのだろうか。水俣病などの汚染のケースは、断固とした臆面もない対応だった。福島原発の場合も、十分には責任を認めておらず、たぶん似ているかもしれない。両者とも、短期的な採算を長期的な安全の原則よりも優先させてしまった。このことは東電だけの問題ではない。すべての電力会社が同じ傾向を示している。

しかし、福島原発の事故を日本独自の問題として片づけてしまうのは間違いかもしれない。日本では、政治的指導力の欠如、行政と国民の利害の衝突といった点が際立っているだけだ。原子力であろうと他の課題であろうと、同じ問題が至る所で見て取れる。原子力の管理を、採算のロジックで動く民間企業に任せておくべきなのだろうか。もしそうであるなら、地域住民の利害を守るべき政府はどのように、いわゆる企業の社会的責任を尊重するよう企業に命ずることができるのであろうか。

国家によるコントロールの強化には、選択が加わる。「日本人はジレンマに直面している。今では現実のものとなった危険があるにもかかわらず、今までと同じように権力の座にあるエリートに唯々諾々として従っていくべきなのか、あるいは永続性のある発展を選択すべきなのか、というジレンマだ。同時に両者を選択することはできない」と、立教大学教授のアンドリュー・デウィット(Andrew DeWitt)は強調している。

福島原発の事故はまだまだ収束からは程遠いが、この惨劇によって日本は新たな時代に入ったようだ。それは、歴史の転換点にいること、これからは自ら主張すべきこと、現在の指導者層に自らの人生や社会を委ねるべきでないことなどを国民が自覚したことであり、日本の将来はこの国民の自覚にかかっていると言えよう。

・・・ということで、福島原発事故の被災者の皆さんには再起へ向けてエールを送るものですが、しかし同時にこの事故を奇貨として新たな日本へのスタートとすべきなのではないかという声が、日本でも、フランスからも聞こえているようです。

政治はお上のもの、という伝統から脱却して、国民一人ひとりが自分で考え、自分で判断をしていく社会。国民主権を実践する社会です。

新たな時代へのターニング・ポイントで、権力の座にしがみつくための政局しか行わなかったがゆえに、結果として国民が主役の社会へと国民の背中を押してくれた内閣として菅内閣は歴史に名を残すかもしれません。

状況は整いつつあります。後は、国民が一歩を踏み出すだけです。右顧左眄して、みなさんに合わせるのではなく、一人ひとりが主体的に一歩を踏み出すことです。その覚悟は、大丈夫ですか。
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