6月11日(月)
年には何回?他人様のご葬儀に出かけるのか、何かしら若い時分に比べますと数珠を持って出かけるケースが年毎に増えて来た感があります。先日も友人の御尊父様が他界されて、どうにか葬儀の時間に間にあい合掌しました。こうして葬儀の場で親族より故人の生前について、その生涯を知らされますと、人にはその地に住むべく宿命があったのかと、見えない天からの糸を見る思いがしました。
何はともあれ、男の生き方として生涯を誓った嫁、その育った地で生活することは、家庭をしかと支える大黒柱にも思えます。自分の嫁が育った地を生活の場にするには、それなりの試練があり、超えるべき峠が一つや二つあるもの。その地で生涯を捧げて、役目を果たしますと、何かしら次のステップが現れる!
故人の遺影に頭を下げて、その様な事を思っていますと、僧侶の読経がいつしか日本語になっております。仏教経典の内容が良く伝わってきます。始めて仏教のお経で日本語を聞くようで、日本語に翻訳された仏教経典の意味がなんと素晴らしい事かと、気づきました。読経の中で日本語に翻訳された部分が有るとは、仏教徒として、始めて認識する事柄かと思いました。
本来、宗教とは人間の住む地であれば、先住民が彼の地にとどまるならば、地球上の果てまでも出向くのが宗教人の姿だと思います。つまり、人間の住む地には宗教が果たす役割があります。到底、宗教関係者でなくては出来ない作業もあります。葬儀に於いて、浄土真宗の僧侶は親鸞上人の言葉を読経の後には必ず拝読します。その中で説く言葉とは、人間のはかなさ、無常の風が吹きますと、人はわが身すらこの世に残して旅立っていきます。魂は来世へ向かいますが、わが身はこの世に残されたままです。その身を荼毘へ伏して灰とする。灰にも出来ない処はインダス川へ亡骸を流す。流れ着いた所が安置場所となる。さらには大河も荼毘にふす薪もない国では鳥葬の風習があります。チベット仏教が誕生した高原の邦チベット、葬儀とはかようなものと聞きます。つまり、高原にすむハゲタカが人の亡骸のをきれいに片づけてくれると。
ここでも僧侶の役目があり、鳥葬の邦チベットに於いては、葬儀を終えてコンドルが亡骸を迎えに来るまでに、僧侶の務めがあります。文明の利器も時には人間の風習を細やかに記録するものです。改めて、宗教とは何ぞや?宗教に携わる僧侶が長い年月を修行に当てるのは、死者との対峙、亡骸の処理を如何にするか、凡人の目には過酷な儀式であります。人間を深く見つめる宗教家には本来近よりがたいものがあります。現世と来世の橋渡しをする役柄、葬儀の場でふと気づきました事柄、日本語の読経がこれほど胸に響くとは始めて知りました。根本仏教蔵書も日本語へ翻訳の途上にあるのかと思います。
こうして、同じ年代の方々が、ぼちぼち来世へ向かわれますと、意識しますことはこの世から来世にかけて、まだ認識しない事柄がかなりあるのではないか!どんな事柄か、人間を魂と亡骸に分けるからには、それなりの根拠がありそうで、日本語の読経にも想いが広がりましたので、機会を得ますと納得する場面が現れそうです!
年には何回?他人様のご葬儀に出かけるのか、何かしら若い時分に比べますと数珠を持って出かけるケースが年毎に増えて来た感があります。先日も友人の御尊父様が他界されて、どうにか葬儀の時間に間にあい合掌しました。こうして葬儀の場で親族より故人の生前について、その生涯を知らされますと、人にはその地に住むべく宿命があったのかと、見えない天からの糸を見る思いがしました。
何はともあれ、男の生き方として生涯を誓った嫁、その育った地で生活することは、家庭をしかと支える大黒柱にも思えます。自分の嫁が育った地を生活の場にするには、それなりの試練があり、超えるべき峠が一つや二つあるもの。その地で生涯を捧げて、役目を果たしますと、何かしら次のステップが現れる!
故人の遺影に頭を下げて、その様な事を思っていますと、僧侶の読経がいつしか日本語になっております。仏教経典の内容が良く伝わってきます。始めて仏教のお経で日本語を聞くようで、日本語に翻訳された仏教経典の意味がなんと素晴らしい事かと、気づきました。読経の中で日本語に翻訳された部分が有るとは、仏教徒として、始めて認識する事柄かと思いました。
本来、宗教とは人間の住む地であれば、先住民が彼の地にとどまるならば、地球上の果てまでも出向くのが宗教人の姿だと思います。つまり、人間の住む地には宗教が果たす役割があります。到底、宗教関係者でなくては出来ない作業もあります。葬儀に於いて、浄土真宗の僧侶は親鸞上人の言葉を読経の後には必ず拝読します。その中で説く言葉とは、人間のはかなさ、無常の風が吹きますと、人はわが身すらこの世に残して旅立っていきます。魂は来世へ向かいますが、わが身はこの世に残されたままです。その身を荼毘へ伏して灰とする。灰にも出来ない処はインダス川へ亡骸を流す。流れ着いた所が安置場所となる。さらには大河も荼毘にふす薪もない国では鳥葬の風習があります。チベット仏教が誕生した高原の邦チベット、葬儀とはかようなものと聞きます。つまり、高原にすむハゲタカが人の亡骸のをきれいに片づけてくれると。
ここでも僧侶の役目があり、鳥葬の邦チベットに於いては、葬儀を終えてコンドルが亡骸を迎えに来るまでに、僧侶の務めがあります。文明の利器も時には人間の風習を細やかに記録するものです。改めて、宗教とは何ぞや?宗教に携わる僧侶が長い年月を修行に当てるのは、死者との対峙、亡骸の処理を如何にするか、凡人の目には過酷な儀式であります。人間を深く見つめる宗教家には本来近よりがたいものがあります。現世と来世の橋渡しをする役柄、葬儀の場でふと気づきました事柄、日本語の読経がこれほど胸に響くとは始めて知りました。根本仏教蔵書も日本語へ翻訳の途上にあるのかと思います。
こうして、同じ年代の方々が、ぼちぼち来世へ向かわれますと、意識しますことはこの世から来世にかけて、まだ認識しない事柄がかなりあるのではないか!どんな事柄か、人間を魂と亡骸に分けるからには、それなりの根拠がありそうで、日本語の読経にも想いが広がりましたので、機会を得ますと納得する場面が現れそうです!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます