急きょ、党富山県委員会の災害ボランティア(第1次。先遣隊的な役目)のメンバーの一員として、25日から29日まで、釜石市入りすることになりました。
25日午後出発、途中、猪苗代で素泊まりののち、26日朝から東北道を北上し、ようやく昼12時半に釜石へ到着しました。支援物資(野菜)が後部に満載されていたため、前輪に荷重がかからず、ちょっとした横風でハンドルがとられることが多く、高速道路上ではひやひやしながらの運転でした。
受け入れ先は、党の岩手県東部地区委員会。昼休憩を挟んで、積み込んできた野菜を地区委員会のガレージへおろしました。その後、釜石の党市議・菊池孝さんの案内で、津波被害のひどかった地域を見学にまわりました。
明治29年の三陸大津波の水位の到達地点。これよりさらに上へ津波が到達した。当初、がれきでこの碑が埋もれていた。(両石地区)
付近には、がれきの中から家財道具など必要なものを一カ所にまとめていた。貼り紙には、「勝手に点検、持ち出ししないで下さい。両石町●●-●●、所有者○○○○」と書かれていた。あまりに切ない。(両石地区)
壊滅状態の両石。ほとんど家屋は残っていない。あるのは基礎だけ。
白い建物が避難場所だった。その2階に100人が避難したが、そこも津波が襲い20数人しか生存しなかったとのこと。 今週の「ドキュメント2011」でこの場所で、一緒に避難した母を目の前で失った男性の話を放映していた。不思議な感じだった。鵜居住(うのすまい)地区。
釜石湾。千数百億円かけて造られた防波堤(ギネスにのる世界一の深さのものらしい)がいとも簡単に破壊された。左側岬から延びているが所々切れている。
防潮堤が軽々と破壊され、住宅を破壊していた。唐丹(とうに)地区。
スプレーで、「UK ISAR 16・3・11 15・06」とある。UK ISARという英国の国際救助隊らしい(ネットで検索)が、2011年3月16日、15:06に捜索終了という意味での印だと思われます。(釜石港近く)
東部地区委員会にて、深沢寿郎地区委員長(災害対策本部長、真ん中奥の男性)の報告をうけて、明日以降の相談を行う。市議(坂本良子さん、地区委員長の右隣)から、避難現場の実態なども詳しくお聞きしました。
27日、28日は、仮設住宅住民を対象にして、党事務所に届いている支援物資を無料配布する予定のフリマの案内、要望をお聞きする御用聞き、などを手分けして行います。