∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >宇宙山 乾坤院の半鐘

2009-04-19 04:39:38 | B-1 >水野太郎左衛門系
宇宙山 乾坤院

   愛知県知多郡東浦町大字緒川字沙弥田4    Revisit :2009-04-18 07:30



●乾坤院の半鐘
  大工 藤原与四郎則家 銘 (初代水野太郎左衛門)
  総高 69.4cm  口径 40.6cm 鋳銅製

◇銘文[翻刻白文]
――[第一区]――――――――――――――――――――
諸行無常

是生滅法

生滅滅已

寂滅為楽

――[第二区]――――――――――――――――――――
宇宙山 乾坤禪院
 掛堂前半鐘
 緒川下野後室
為利参賢貞大姉

――[第三区]――――――――――――――――――――
 〓(C1)外了禪悲母
為實〓(C2)妙心大姉
 大工藤原与四郎則家

――[第四区]――――――――――――――――――――
 〓(C3)永正十癸酉年(1513)
  十一月十七日

輪差乾坤院住
西明了禪謹誌

――――――――――――――――――――――――――

[銘文文字註]
C1=木偏に土の下に儿。「機」
C2=穴の下に、口の中にタ、その下に心。「窓」
C3=山の下に鍋蓋と日。「時」



◇銘文[訳文]
[第一区]――
諸行無常(しょぎょう むじょう )
仏教の基本的教義である三法印の一。この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないこと。

是生滅法(ぜしょうめっぽう)
〔「涅槃経」にある諸行無常偈の一句〕あらゆる事物は変化しうつろいゆくということこそ生滅の法則だ、という意味。

生滅滅已(しょうめつ めつい)
生死を超えて涅槃(ねはん)に入ること。

寂滅為楽(じゃくめつ いらく)
涅槃経の偈(げ)にある語。寂滅が真の楽しみである、の意。
寂滅とは、煩悩(ぼんのう)をすべて打ち消し、真理の智慧(ちえ)を完成させた状 態。究極的な悟りの境地。涅槃(ねはん)。

[第二区]――
「宇宙山 乾坤禪院
 掛堂前半鐘 」
 ――製作当時は、寺の掛堂前に吊されていたと推察されるが、現在は本堂内西南角に吊されている。

「緒川下野後室
 為利参賢貞大姉」
 緒川下野守とは、永正六年(1509)五月二十九日に卒去した「水野下野守(失諱)信政」太元院殿一初全妙大居士(大源院殿一初全妙大居士)で、水野蔵人法名全通(貞守)の孫・賢勝の子(『乾坤院文書』)、為妙、法名一初(『士林訴』)、『張州雑志』と『尾張徇行記』では貞守の嫡男「水野下野守爲則としている人物ではないかと推測され、その未亡人である法名「利参賢貞大姉」の供養の為に半鐘を寄進したものであろう。

[第三区]――
「〓(C1)外了禪悲母
為實〓(C2)妙心大姉
 大工藤原与四郎則家」
「實〓(C2)妙心大姉」については不明。
「大工藤原与四郎則家」については、鋳物師・初代水野太郎左衛門範家(則家、法家)が、永正五年(1508)十一月十九日、愛知県知多郡の尾張高野山総本山 岩屋寺の梵鐘を鋳造していることから、同一人物と推定される。

[第四区]――
「〓(C3)永正十癸酉年(1513)
  十一月十七日

輪差乾坤院住
西明了禪謹誌」

「輪差」とは、一般辞書では「ひもを輪の形に結んだもの」の意であるが、当山では当時住職は、末寺住職が寺役を順番に交替して務め(輪番)ていたことから、その役僧が「西明了禪」であったものと推測される。


●2008.6.27 補記
1.[第三区]の「機外了禪悲母」に付いて――
 『愛知県史 資料編10 中世3 』(2009.03.31発行)「 P338 永正十年(1513) 十一月十七日 緒川下野の後家、尾張国乾坤院に喚鐘を寄進する。八〇五 喚鐘陰刻銘 東浦町 乾坤院」の項を、先日漸く閲覧したところ、本記事で引用した『新編 東浦町誌 資料編3 原始・古代・中世』(2003.04.01発行)では「機外」と記載されている箇所が、県史では「桃外」と記載されていたことから、愛知県史編さん室に問い合わせた。後日、県史編纂所から回答をいただき「機外」が正しいようだと訂正が入った。
 また、同項には、「延享三~四年鋳造の喚鐘の旧銘である。」と付記されていたことについても、その典拠を問い合わせていたが、併せて回答をいただき、『新編 東浦町誌 資料編6(教育・民俗・文化)』(2001.04.01発行)「 P661 第四節 工芸 喚鐘 乾坤院(緒川)藏」に記載がある旨のご教示をいただいた。早速、同書を閲覧したところ、「1」の「機外」は「桃外」と記されていたことから、東浦町誌編纂室に架電し、そのいずれが正しいのかを問うたところ、新しく書き直された『新編 東浦町誌 資料編3 原始・古代・中世』に記載された「機外」の方が正しいと確認された。この事により「桃外」の典拠も判明した。(*1)
2.『新編 東浦町誌 資料編6(教育・民俗・文化)』(2001.04.01発行)「 P661 第四節 工芸 喚鐘 乾坤院(緒川)藏」に、下記のような付記があることが判明したので、これを引用し追記する。――
 「この鐘は了機住持の代(延享三年[1746]八月一日~同四年[1747]七月三一日)に破損により鋳直(いなお)し、旧名を再刻したものであることが、「宇宙山校割簿(こうかっぼ)(*2)」からわかる。」――
 当初の鐘は上述陰刻のとおり、永正十癸酉年(1513)作であることから、鋳物師は「初代水野太郎左衛門則家」であるが、233年後の了機住持の代(延享三年[1746]八月一日~同四年[1747]七月三一日)に再鋳された現存の鐘は、元文三年(1738)家督を相続し、同代に当主であった「八代水野太郎左衛門孝政」が鋳造したものであろうと推測される。 

[註]
*1=「機」とは、「禅宗では機の語を指導者である師家(しけ)の心のはたらきの意とする。即ち、機は言語思想の及ばぬものであって、それが外に動いて指導を受ける学人(がくにん)に施されるとする。そして師家の機と学人の心がぴったり合うのを投機という。」出典:『総合佛教大辞典』総合佛教大辞典編集委員会 法蔵館 2005.2.15 
*2=校割簿(こうかっぼ)=「校割(こうかつ)」とは、「禅宗の僧堂で役に就いていた者が交替する時、新旧両者が立ち会いの上で公私の器物を点検して仕分けをすること。」つまりその点検状態などを記した帳簿。出典:総合佛教大辞典』総合佛教大辞典編集委員会 法蔵館 2005.2.15 


☆旅硯青鷺日記
 2009年4月18日(土)、小河水野氏発祥の地である愛知県知多郡東浦町で、例年行われている「於大まつり」が開催されましたので、今年こそは見逃すことなく見物に訪れました。於大の方は、水野忠政の娘で岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、翌年徳川家康をもうけた生母です。このまつりの様子は、水野氏史研究会の記事として投稿しましたので、そちらをご参照下さい。【Event】於大まつり(おだいまつり)参加報告 
 ずいぶん前から、『東浦町誌』資料編3 P260 に記載されていた「2-7 喚鐘銘(乾坤院蔵)」が気になっており、再訪し取材したいと思っていましたが、この度「於大まつり」に参加したことで、実に久し振りに「採訪記」として投稿することができました。
乾坤院は、いつもは本堂の扉が閉ざされており、中にはいることはできませんが、まつりの日であることから一般公開されました。この本堂左手の南西角にこの半鐘が吊されており、その下には太鼓が置かれていました。寺の世話人さんにお断りして撮影させていただきましたが、銘文の第一区は、壁側で隙間が狭いことから残念ながら撮影できませんでした。

B-1 >尾張高野山総本山 岩屋寺

R-1>水野太郎左衛門家系譜








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