∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-8>水野筑後守忠徳 No.2

2008-04-01 11:46:35 | C-8 >新宮水野
●C-8 >水野筑後守忠徳 No.2


4.魯西亜使節応接
 嘉永五年(1852)五月、ロシア政府は、ペリーがアメリカ艦隊を率いて日本に向かい開国させようと図っているとの情報を得て、エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチンを遣日全権使節として日本に派遣する事を決めた。九月七日パルラダ号はクロンシュタット軍港を発ち、大西洋からケープタウンを廻って広東に寄港したとき、ペリーが日本に向かっていると聞き急ぎ出立し、途中三隻の僚艦と合流して、翌嘉永六年(1853)七月十八日、ペリーが浦賀沖を離れ帰途に就いた一カ月半後にして、漸くプチャーチン等は長崎に入港した。このロシア艦隊の場合はかつての江戸のようなショックは見られなかった。これはプチャーチンの日本に対する態度がペリーのように威圧的ではなく、また旗艦のパルラダ号は帆船であり、蒸気船は小型のヴォストーク号のみであったことから、日頃異国の帆船を見慣れている長崎の人々にとってはさして珍しいものではなく、江戸でのような騒動には至らなかったのであろう。
プチャーチンはロシア首相と自身の老中宛書翰を長崎奉行の大澤豊後守と水野筑後守忠徳に託した後、頻りにその返事を催促したが、奉行等は将軍徳川家慶が六月二十二日、病のため薨去し国事多難の際であるから返翰は期待しなようにと、あらゆる方面に渡って慰諭した。プチャーチンは返翰を待ち三カ月も海上で待機したものの、その時期クリミア戦争が勃発したことから、十月二十三日上海に情報を得るため一旦退帆した。十二月五日、再び長崎に戻り、幕府より全権として長崎に出張していた筒井肥前守、川路左右衛門尉等と初の日露関係者の交渉が始まった。『幕末政治家』 [史料TN1-2]には「水野は当時魯国使節と談判の為に西下せる筒井川路の諸人に対して、常に強硬説を持したり」と云へり、と記している。
 ロシア側は長崎以外に箱舘、大坂の開港を求め領事を駐在させる事のほか、国境については、千島ではエトロフ以南が日本領、カラフトはアニワのみ日本領という具体案を提示した。『懐往事談』には、カラフトについては幕府で嘉永六年以来種々評議し、幕議は「唐太全島我有なり」とし、カラフト全島は日本領との見解を示しのに対し、ロシア側は「唐太は原来魯國の有たるに日本人が南部より来たりて蠶食(蚕食、カイコが桑の葉を食うように端から次第に奥深く他の領域を侵略すること)したるものなり、然れども今更日本人を該島より退却せしむるも忍びさるに由て、両国の便宜を謀て経界(境界)を定めんと欲するなり」と主張している。この主張覆すため「荷蘭(オランダ)出帆の地球圖を見るに唐太島を北緯五十度の所をば魯西亜と日本との経界(境界)として其色分成したるを験出したり[中略]全権は是ぞ屈竟(屈強)の材料なりと喜びて唐太北緯五十度以内は日本の所属にして世界萬國の共に公認する所なりと揚言し是を以て露國の談判に當るの基礎となしたり」として反撃に出た。この様にして日本側はロシア側の案を何れも認めなかったことから、交渉は六日に打ち切られプチャーチン等は八日に長崎を離れた。
この時の饗応と会談の様子を水野筑後守忠徳は手記に克明に記していることから、別掲載の[史料TN1-5]『江戸』第三巻 渉外編――水野筑後守忠徳手記「嘉永六年(1853)十二月於長崎表露西亜使節應接の時水野筑後守の記事」を参照されたい。



5.日英和親条約と甲比丹の功績
 安政元年(1854)九月七日、イギリス東洋艦隊が長崎に来港し、提督ジェームズ・スターリングは、ペリーに引き続き砲艦外交による圧力の下、日本との通航を要求した。長崎奉行水野筑後守忠徳および目付永井尚志は、同年十月十四日、幕府の全権として日英和親約定を締結した。先の日米和親条約では、アメリカに下田と箱館の開港を認めたが、本条約ではイギリスに長崎と箱館を条約港として開港し、薪・水の供給を認めた。また、治外法権・最恵国待遇などの規則も定められた。ただし通商規定は無かった。
 この条約に際して、忠徳は大澤と共に甲比丹に四日間にわたって、色々と質問し意見を求めている内容が次の書に記されている。「『大日本古文書 幕末外国関係文書之三』嘉永六年(1853)癸丑 一、十月朔日三日五日六日長崎より長崎在住の蘭國船将キュルチュス(甲比丹)へ尋問手續 米船の處置に就て」と題する幕府宛の詳細な報告書の冒頭「御内密御尋手續書」には、通訳の西吉兵衛、森山榮之助奉行を通して、両奉行と甲比丹の問答が記されている。三日には、忠徳からの「オランダ・中国以外の国と条約を結ぶ事は祖法に反するが、どのように対処したらよいのか」との問に対して、甲比丹は「二百年来の日本国の法について、私どもは申しあげるべきではないが」と断った上で、「御當國事も、一時ニ御開弘(港)ハ不可然[る]、先つ一所程も御試ニ御免之方御良策と奉存候」と、現在中国・オランダと長崎の出島において交易している方法で、長崎のような港を一時に開くのは無理としても“試しに一つ港を開いてみるのが良策であろう”と勧めている。これは中国清朝が開港を一切認めなかったことから戦争を仕掛けられ、敗戦した結果、広東を始めとした五港を強引に開かせられた悪例に基づいた忠告からである。
 また忠徳からの「交易により日本に利益がもたらされることは好ましい事とは思っていないが、交易を行う事はほんとうに必要な事なのか」との問に対して、甲比丹はその趣意は理解できるが、産業革命を経て資本主義を体現している外国人には、通用しない理論であると断じている。後に交易の利益で軍備を整えるという老中安部正弘首唱の「富国強兵策」は、明治以降昭和に到るまで実行された事は周知の事実である。こうした甲比丹の情報分析の的確さは、幕府に対し第一級の外国情報であった。



6.日米条約批准の際の様子
 水野筑後守忠徳は、安政元年(1854)十二月二十四日、長崎奉行から勘定奉行に転じ、その直後の安政二年(1855)正月から九月に至る忠徳の雑記が、『大日本古文書幕末外国関係文書附録之三』の「三 水野忠徳雑録之一 」に遺されている。この中から日米条約批准の際の様子が記されている部分を抜粋し別掲[史料TN1-6]に記した。
また、この時幕府からアメリカの国書翻訳を命じられた沼津藩の様子を記した別掲載 「C-4 >沼津藩の黒船対処」も参照されたい。



7.田安館家老に転出
 安政四年(1857)十二月三日、水野筑後守忠徳は、将軍継嗣問題で一橋党に与したことから、辛うじて黜罰(ちゅつばつ。無能の役人を退け罰する)は免れたものの、 田安家老に移された。田安家家老については、『江戸幕府役職集成(増補版)』には、「八代将軍吉宗は相続問題で苦労したことから、将軍家相続の紛争を避けるため、次男宗武を田安邸に、三男宗尹を一橋邸に置いて、賄料として 十万俵を給した。しかし十万石の大名級ではあるが領地はなく、その代わりとして公卿に列せられ、将軍の後継者がない時は、これらの家から立てる事とした。また九代将軍家重も次男重好に清水御門の前に邸を与え、同様の事をしたののでこれを御三郷といった。御三郷にそれぞれ旗本から選んだ家老を付けて老中の直属支配下とした。家老はだいたい二、三千石級から選び、御役料として二千俵ずつ支給し、おおよそ一家に二人の家老がつけられ、新御番頭格であった。」と概ね記されている。
 『昨夢紀事二』(*7-1)(日本史籍協會叢書118)第八巻(安政五年(1858)一月)に――
「水野筑後守ヲ正論ニ復セシム」
一、同日(正月十四日)夕[、]田安御家老水野筑後守殿を御呼寄[に]なり[、]此人ハ近き此迄(最近まで)御勘定奉行ニ而(て)[、]長崎奉行を兼られ外國の事情に熟し(こなし)[、]有志の聞えあり[、]去冬中長崎より帰りて程なく御館附(田安家家老)に轉し[、] 當時外ならぬ勤柄(つとめがら)故方今の時世をも聴かせらるへきと召されたり[。]御座の間におゐて是迄(これまで)諸夷(諸外国)への應接之模様且此節之夷情(世界情勢)等御尋あり[。]魯西亜を初[め]諸國の形勢情實も種々申上られ[、]夫[に]より内地(国内)御変革の御談話に押移し處[、]筑州(筑後守)被申上しハ[、]如何にも大御変革の時期到来ハ勿論候得共[、]筑後守ニ於きてハ行はれかた(難)かるへくと被存候[、]其仔細ハ近く申セハ[阿部]伊勢守[正弘]殿御盛んの比ハ何事もいセ殿の御流儀[、]又今ハ[堀田]備中[守正篤]殿と申如く[、]時相(時制)の見識[は]次第[に]移り換り候事ハ[、]古今同轍(筋道ややり方が同じである)の時勢候處[、]此時相ハ頼み難き者候へハ[、]天下の人心も時につれて暫くハ改まりも可致候へとも[、]不朽に(後世まで長く)貫き候見居へ無之[、]近代の名相と奉称候[、]楽翁(松平定信)公の御政蹟すら罷免之後ハ行はれ難き事のミ多く相成候[。]畢竟(結局)根本固からす物事中途より出候而(て)ハ人心の信服も慥(たしか)ならす已(すで)ニ [後略]
「田安家老朝比奈甲斐守を召ス」
一、此日(安政五年二月廿四日)午後[、]田安御家老朝比奈甲斐守殿を被召御逢あり[、]これハ[田安中]納言郷御建白の儀なとをも水筑州(水野筑後守)へのみ御相談ありてハ両人の間に嫌疑もあらんかとの尊慮(お考え)にて召れたるにて[、]此事をも仰あるに甲州(甲斐守)[は]素より御同意の事なれハ[、]御筋の事共何くれと御相談申上らる[。][後略]
一、此夜(安政五年二月廿四日)師質(中根雪江)を水筑州(水野筑後守)の許へ遣はれ[、]昨日納言郷の宣(のたま)ひし様を告[げ]給ひて[、]猶又安府の内状を問はせ給ふ[。]筑州竊(密かに)申さるゝハ[、]御館にも兎角便佞(*7-2)の輩のみ多くて上旨を誑迷(*7-3)し奉る事の歎かハしくこそ候へ[後略]                      
「水野筑後守ヨリ呈書」
一、[安政五年]二月廿六日[、]水筑州(水野筑後守)より被指上御請書左之通り
 [本文略]
――などと多くの紙面を割いて水野筑後守忠徳のことを記している。

[註]
*7-1=昨夢紀事十五巻(日本史籍協會本四冊)は、越前藩主松平慶永(よしなが・春嶽、田安徳川家第三代当主徳川斉匡の八男で松平斉善の養子)の先生でもありまた腹心の臣で、常に気密に参画していた中根雪江(せっこう)(靱負・ゆきえ、師質・もろかた)の手記である。嘉永六年(1853)六月四日、米艦が浦賀に来航したとの報に接し松平慶永が憂慮を抑え難く、ただちに前水戸藩主徳川斉昭に書を送って所見を問い、かつ奮起を促したのに筆を起こし、安政五年(1858)七月五日、幕府からの責めを蒙り隠居謹慎を命じられたところで筆を置いている。安政六年(1859)十一月七日に起稿して、翌万延元年(1860)六月二十一日に脱稿し、昨夢紀事と名付けたのも、執筆の際「いさや世に語り伝へむ中たえし 昨日の夢のまさしかりしを」と詠んだのによるという。その後雪江は再昨夢紀事二巻・丁卯日記二巻・戊辰日記五巻などを執筆。これら一連の史書は、幕末の諸侯中名君の聞こえが高かった松平慶永が多事多難の秋、国事に献替(善をすすめ悪をいさめて主君をたすけること)した事歴を松平慶永の手録・越前藩の秘記をはじめ諸家の記録・役人諸侯との往復文書を引用しながら、事件の核心に触れて詳述したものである。
*7-2=べんねい。言葉巧みに人の気に入るようにふるまいながら、実は誠意がなく心がねじけている・こと(さま)。
*7-3=きょうめい。人をだまし迷わすこと。



8.中根雪江との書翰交信
越前藩主松平慶永(よしなが・春嶽、田安徳川家第三代当主徳川斉匡の八男で松平斉善の養子)の先生でもあり、また腹心の臣で常に気密に参画していた、中根雪江(師質・靱負せつえ、せっこう)の手記に、有名な『昨夢紀事』(*7-1)がある。
この『昨夢紀事』十五巻(日本史籍協會本四冊)の内、「(日本史籍協會叢書119-120)第三巻・第四巻(安政五年(1858)三月-七月)」の巻には、雪江とは八歳下の水野筑後守忠徳と頻繁に交わされた交信が記録されている。雪江は越前から江戸に赴いて平田篤胤から国学を学んだが、忠徳も篤胤から国学を学んだのかどうかは不明である。また雪江と如何にして知己を見いだしたのかも未詳である。
 これら書翰の内容については、本書を実見していただく事として割愛するが、短期間に多くの交信が行われていた事から、差し当たって見出しのみを抜粋してみる。
『昨夢紀事』第三巻の昨夢紀事九(安政五年(1858)三月)――
 「営中ニ於いて川越候水野筑後ヨリ密事ヲ告ゲラル」(筑後から雪江に宛てた一書)
 「師質(雪江)水野筑州并永井玄蕃頭ト談論ス」
 「水野筑州ヨリ密啓(密書)」
 「水野筑州ヨリ廻サレシ水老公ノ答書」
 「師質水野筑州ニ使ス」
『昨夢紀事』第三巻の昨夢紀事九(安政五年(1858)四月)――
 「水野筑州ヨリ密答書并参上」
 「永井玄蕃頭ヨリ水野筑州ヘ書面」
 「土州候、水野筑州来リテ論断ス」
 「水野筑州ヨリ呈書」
 「水野筑州ヨリノ呈書應接論」
 「水野筑州呈書外國應接論」
 「水野筑州ヨリ呈書」
 「土州候、宇和島候、水野筑等ト會議ス」
 「水野筑州ヨリ密書ヲ呈ス」
『昨夢紀事』第四巻の昨夢紀事十二(安政五年(1858)五月)――
 「水野筑州ヨリノ密書」
 「水野筑州ヨリ呈啓」
『昨夢紀事』第四巻の昨夢紀事十二(安政五年(1858)六月)――
 「水野筑州ヨリ密告数件」
 「水野筑州ヨリ呈書橋公ヨリ内命ノ件」
 「水野筑州ヨリノ呈啓」
『昨夢紀事』第四巻の昨夢紀事十二(安政五年(1858)七月)――
 「水野筑州呈書シテ大樹ノ違例ヲ告ク」
 「水野筑州呈書右同断ノ件」
 「水野筑州ヨリ呈書、大樹醫薬件、身上ノ件」


C-8>水野筑後守忠徳 No.3

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