∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

C-8>水野筑後守忠徳 No.3

2008-04-02 14:49:25 | C-8 >新宮水野
●C-8 >水野筑後守忠徳 No.3
9.初代外國奉行
『横濱市史稿』政治編二 第九節 神奈川開港準備の施設――
「外國奉行の設置」
 幕府は通商條約を締結するや、愈々(いよいよ)開港の準備に着手した。安政五年(1858)七月八日、はじめて外國奉行を設置して、外國関係の事務を鞅握(おうしょう。忙しく立ち働いて暇のない)せしめた。此時當職に就いたものは、田安家々老水野筑後守忠徳・勘定奉行永井玄蕃頭尚志・下田奉行兼帯井上信濃守直・箱舘奉行兼帯堀織部正利熙・目附岩瀬肥後守忠震の五名であった。彼等は、八月四日、汽船蟠龍丸(英國寄附)で神奈川に出張し、目附津田半三郎正路・御勘定奉行頭高橋平治和貫・菊地大助隆吉等も之に随行して、神奈川を巡し、猶調査する所があって、之を江戸に報告した。九月に、[井伊大老と敵対していた]岩瀬が罷め[させられ]たので、十月、村垣淡路守範忠が之に代わった。同月二十三日、神奈川開港取調御用掛を設置し、右の五名には、右神奈川開港取調方の儀、改めて御用掛は不被仰附候得共、當節差向候兼務にて不容易大業の儀に付、一と通りにては行届申間敷候間、何れも神奈川奉行兼務の心得を以て、萬端引取取扱、諸事無腹蔵一同精力を盡(尽く)し、取調方十分行届候様可被致候。と申渡され、[中略]
各國との條約に従へば、開港の期日は、露・英両國は七月一日(陰暦六月二日)となり、米・蘭両國は七月四日(陰暦六月五日)となり、佛國は八月十五日(陰暦七月十七日)となってゐたのであるが、一日でも二日でも早く開港するのは、幾分たりとも對手國の利益であるから、一番早い英國の條約に従って、他外國何れにも均霑(きんてん。平等に恩恵や利益を受けること)せしめて、五箇國ともに、七月一日(陰暦六月二日)に開港を許したのである。[中略]六月四日、外國奉行水野・堀・村垣・酒井・加藤の五人に、神奈川奉行兼帯すべしとの命があった。海警年表に、左の如く記してある。
    同六月四日
            御小性組番頭次席外國奉行  酒井隠岐守
                             名代浦賀奉行溝口讃岐守   
              御勘定奉行外國奉行兼帯   水野筑後守
                              名代(長崎奉行)荒尾土佐守
        御勘定奉行箱舘奉行外國奉行兼帯  村垣淡路守
               箱舘奉行外國奉行兼帯  堀 織部正           
                              名代御勘定吟味役高橋平作
                        外國奉行  加藤壹岐守
  右神奈川奉行兼帯被仰附旨於芙蓉間老中列座備前守(老中太田資始)申渡之。
是れが神奈川奉行の出来た始まりである。六日。條約面にある如く、外人に居留地内の歩行を許すの旨を庶民に告げた。 [後略]――

 ペリーが安政元年(1854)一月十六日再度来航し、三月三日に日米和親條約を締結した事を切っ掛けとし、日英・日露・日蘭和親條約が次々と締結したことで、外國との交渉が複雑で多方面に渡ったことから専門部署が必要となり、前記のように安政五年(1858)七月八日、外國奉行を新設した。勘定奉行の水野筑後守忠徳、永井玄蕃頭尚志のほかに三名補ない五名定員とし、芙蓉の間席で当初は二千石であった。翌六年(1859)には貿易開始に伴い、六月四日に神奈川奉行を新設した。七月からは水野筑後守忠徳と神奈川奉行村垣淡路守範忠が外國奉行の月番執務に就き、続いて神奈川奉行も兼任した。その職責は横浜港の民政、刑事、運上所(税関)の事務と外交である。
 七月四日は條約に議定するように、神奈川港を開き貿易を開始する期日であった。しかし神奈川とは、條約面に正しく掲載された地名ではあるが、東海道の要所で江戸に往来する勅使を始め諸侯の参勤の外誰しもが経由するところである。このような場所に外国人の商館を営ませるのは敢えて騒動のもとを作るようなものである。従って当局は人目に付かない所を選ぼうと苦心し、横濱を選定し其の地を充てた。横濱は元旗本の領地で小さな漁村であったことから、麦畑を潰し沼地を埋め新たに市街化を図って、貿易商人に移住を勧告しても、自ら進んで従う者は少なかったことから、三井等の巨商には官より勧誘というより寧ろ強制して出店させ、また外人のために幾つもの家屋を建築し、居住商人の便に供し、運上所(税関)を設けるなど力の及ぶ限りの用意をした。その時幕府の中には條約と違うところがあるから、外人の異議があるのを慮れるものもあったが、当時その事に当たる外國奉行は、断然横濱を主張し、横濱は神奈川区内の一区であるから、決して神奈川ではないとは言えない。前年ペリーの横濱で締結した条約を神奈川条約と呼ぶのは、その証拠である。もし外人からごたついた議論があっても論破するのは難しくないとその議を上申した。それに対し、米国のハリスは横濱を以て神奈川に非ずとし英国のオールコックと相談して異議を唱えた。しかし実際の地勢を見れば神奈川は土地は狭く海は浅く元より開港に適さない。それに比べ横濱の港湾は深く穏やかで土地は遮るものはなく広々としていたことから、異議に逆らい外國の商人達はみんな横濱に開港する事を好み、公使等の説に抗して外國奉行の所見に同調した。そこで水野筑後守忠徳を始めとした奉行らは、諸外国に横浜開港を黙認させるに到ったのである。
神奈川奉行所跡の説明文には「横浜開港にともない安政六年(1859) 6月4日、開港場建設の事務に当たった外国奉行酒井忠行・水野忠徳・村垣範正・堀利熙・加藤則著の5名に神奈川奉行兼帯の命があり、青木町(神奈川区)に会所、戸部村宮ケ崎(西区)に奉行役所[神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘9-1]を置き、また横浜村(中区)の中央に運上所[神奈川県横浜市中区日本大通1]を置いて事務を執りました。この地にあった奉行所は戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政の事務を取り扱いました。[後略]」    添付地図の奉行所跡と運上所跡を参照。










▼下の二点の写真は、伊豆猫さんが撮影し恵贈頂いたものです。記して深謝いたします。

・神奈川奉行所址(神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘9-1 神奈川県立青少年センター)
・神奈川運上所址(神奈川県横浜市中区日本大通1 神奈川県庁)





C-8>水野筑後守忠徳 No.4

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。