∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >村木砦址(織田信長篇)

2006-01-27 13:24:10 | C-1 >小河氏系水野
村木砦址(織田信長篇)

◆『信長の涙 ――村木取手懐古――』 木原克之 著 について

2005年12月27日に、「村木砦址(水野金吾篇)」を投稿したところ、この記事を読まれた東浦町誌編纂室の方から、この記事に関する貴重な情報を頂き、上記の研究誌に木原克之氏が、『信長公記』についての聡明な見解を掲載されていることが新たに判明したので「水野氏」および「織田信長公」に関心を示しておられるブロガーの皆様に、ぜひとも紹介したく、続編を投稿することにした。
 早速、南知多町から入手し拝読したところ、今までの疑問が一瞬にして氷解し確知できた思いがした。

 この著書の論旨は、『信長公記』に書かれた「村木砦の戦い」が、一般的には「信長自身のいくさではなく、同盟者水野信元のいくさであり、信長は応援軍として戦いに加わったにすぎない」と、されてきたことに対する、著者の痛快な批評が主旨となって構成されている。つまり「村木砦の戦い」は、“信長こそが主軍”であったと解明していることが、他に例を見ない傑出した見解であるといえよう。また「村木砦址(水野金吾篇)」では、「金吾は忠分ではないか」と記したが、この著では「金吾とは、実は信元の弟であるが、尾張の国緒川水野衆頭で布土城主の水野藤次郎忠分(範方または信吉)である。」と断定されており、まさに我が意を得た思いであった。この序説に始まり、「村木砦攻めまで」と「村木砦攻め」「関係者のその後」へと、8ページに渡り続いていく。「村木砦攻めまで」の章では、村木砦が、“なぜかくも簡単に”「水野金吾の領地」に築かれたのかという謎にも、信元との背景を究明し、納得のいく解説がなされ、他にも同時代の背景および実情が詳らかに書かれていることから、「水野氏」の研究者は勿論のこと、「織田信長」および『信長公記』の研究者にも、是非とも一読を薦めたい。
版権および著作権の関係上、更なる引用は憚れることから、興味を持たれた方は、下記の要領で入手されることをお勧めする。

◆『戦国知多年表』木原克之 編 について
上記の『信長の涙』と同じく、木原氏の著作であり、年表形式を採ってはいるが、各項目毎に解説が書かれており、抄読してもまた面白い。年表は、明徳二年(1391)から慶長六年(1601)までの二百十年間にわたる、戦国時代における知多の事象が記載されており、こちらもまた「村木取手攻め」の背景などが、簡潔な文章で纏め上げていることから、併読されることをお勧めしたい。天文二十三年(1554)正月二十四日、つまり村木砦の戦いの日付では、「二一才の信長は自らを上総介と称し、三才下の忠分には右衛門つまり金吾と名乗らせた。緒川金吾構えとは、居城布土に対する居留館、後の緒川高藪城である。いわば信長は部下の金吾の尾張領地を守る自らの戦いをした。――云々」と書かれ、信元の援軍ではなかったと明言している。


◇郷土研究誌『みなみ』第73号   頒価500円(税込、送料別途140円)
「信長の涙 ――村木取手懐古――」  木原克之 著 (P2~P9)
南知多郷土研究会事務局(火曜日から土曜日、午前8時30分~午後5時15分)で販売。
配達の場合は、下記事務局に、電話・ファックス・電子メールのいずれかの方法で、在庫を確認の上、申し込む。
送金方法は、郵便振替用紙に、口座番号・加入者名「00810-5-38863南知多郷土研究会」と通信欄に注文内容を明記し、その他必要事項を記載し送金。
送金額(1万円以下) 払込料金:窓口扱い70円・ 機械扱い60円
閲覧を希望される方は、南知多町町民会館図書室、美浜町図書館、半田市図書館、武豊町図書館などで書見可能。
〒470-3412 愛知県知多郡南知多町大字豊浜字須佐ケ丘5番地(南知多町総合体育館内) 
    南知多郷土研究会事務局
  電話: 0569-65-2880 Fax: 0569-65-2883 e-mail:syakyou@town.minamichita.lg.jp

◇『戦国知多年表』木原克之 編 美浜町生涯学習センター発行 頒価300円(税込)
 愛知県知多郡美浜町生涯学習センター窓口(月曜休館 午前9時~午後5時)で販売。
配達の場合は、現金書留または小為替で同所に申し込む。注文内容を明記のこと。
配送料は購入者負担で、着払いの「宅配便」や「ゆうパック」となる。
 〒470-2403 愛知県知多郡美浜町大字北方字十二谷125
    美浜町生涯学習センター
   電話0569-82-6464 FAX0529-82-6801  e-mail: gakusyu@town.aichi-mihama.lg.jp


<著者・略歴> (『知多半島を読む』の奥付から抜粋)
木原克之(きはら かつゆき)
 1930年生まれ、半田中学、八高、東大法学部(丸山ゼミ)卒。
 元NHK番組ディレクター、TV番組「新日本紀行」、宇宙中継「われらの世界」、「アポロ11号月着陸」制作参加。
 南知多町郷土研究会々員。美浜町文化財保護委員会委員。 尾張旭市文化財保護審議会委員。
 著作:『知多半島を読む』愛知県郷土資料刊行会発行、『戦国知多年表』美浜町生涯学習センター発行など。


☆旅硯青鷺日記
 『信長の涙 ――村木取手懐古――』の読後、著者の木原氏に簡単な読書感想とともに、拙著「村木砦址(水野金吾篇)」の投稿記事を郵送しましたところ、折り返しご丁寧な返信をいただきました。先生からは、拙稿についてはご異論はなく、また「村木砦の戦い」についてのご見解は同著に盡きているとのコメントを頂きました。また研究課題である「水野氏」について興味あるご見解およびアドバイスをいただきましたので、こちらについても、みなさんにご披露したいと思います――
「三河刈谷水野(自称 源氏)、尾張緒川水野(藤原氏)、瀬戸春日井守山水野(平氏)と三つに大別されましょう。水野忠分は藤原水野と推察します。水野忠政とは、複数の人物を統合した人物とする説もあり、研究には戦国の同時代資料を比較するしかないでしょう。」とあり、さらに上記の著作等のご紹介をいただきました。
 最後になりましたが、東浦町誌編纂室および木原克之氏に改めて感謝申し上げます。


小川水野氏系譜:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
村木砦址(水野金吾篇):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
村木砦址(海賊篇):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/a0c605ae53e3c3bd600464fc09a1613f









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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
南知多郷土研究会事務局 (foxblade)
2006-08-17 22:27:17
南知多郷土研究会事務局のメールアドレス、間違ってませんか。送信できませんでした。

在庫の問い合わせ、しようとしたのですが。電話してみます。



foxblade1123@yahoo.co.jp
返信する
foxbladeさんへ (∞ヘロン)
2006-08-17 22:51:04
foxbladeさん



 初めまして、ようこそマイ・ブログへお越しくださいました。

 ご指摘のメールアドレスは、おっしゃるとおり間違っておりました。



誤)

syakyou@town.minamitita.lg.jp



正)

syakyou@town.minamichita.lg.jp



「chita」が「tita」と誤記しておりました。

お詫びして訂正します。

返信する
『信長の涙 ――村木取手懐古――』読みました (foxblade)
2006-09-23 12:40:09
 木原氏は「信長の涙」で、村木砦の戦いを非常に克明に記載しており、驚かされました。最後に参考文献が掲載されていますので、これに基づいた論考であると思われますが、かなり思い切った戦の背景・推移・結末の記述となっているように感じられます。

 この論考のポイントは水野さんも言われているように、村木砦の戦いは信長領に迫った今川勢に対する信長の反撃とした点です。このために水野一族を複数の派閥に分断し、日和見の信元と信長直属の忠分(金吾)という構図を描いています。それは信元刈谷勢と忠分緒川勢の反目を伺わせるような筆先となっています。

 天文二十三年の時点で、知多半島の勢力に信長がそれほどの支配力を持っていたかどうかは、疑問に感じるところです。この年の前年に三の山、赤塚の合戦があり、鳴海方面が大きく動揺しておりますし、また清洲勢が敵対するなど、まだまだ信長の足元は脆弱であった感がぬぐえません。

 また村木砦を構えた今川の意図がどこにあったのか。「信長の涙」では忠分の緒川城と信長を分断する目的であったように書かれていますが、信長がこの戦でそうしたように海の道があったはずです。また信長と水野氏にとって伊勢湾の交通と産業はその基盤をなしていたでしょうから、海上を陸の道以上に活用していたと思われます。ですので、村木砦が築かれたといって、それで両氏が分断されるとは考えにくいのではないでしょうか。そうすると、村木に砦を構え、義元はその後どうしようとしていたのでしょうか。緒川城を攻めるつもりだったのでしょうか。そして信元は、忠分の力を弱めるため、それも座視しようとしていたのでしょうか。



 雑感ではありますが、以上のような疑問が残ります。この村木砦の戦いには奇妙な点が多々あると思いますが、この「信長の涙」でそれがすっきりしたとは感じられませんでした。



 ところで、水野氏の日和見について、気になることがあります。東浦町誌資料編3に、水野十郎左衛門尉が「美濃の斉藤道三・今川義元・織田信秀と多方面に交信しており、(中略)従来織田信秀・信長との同盟関係のみが指摘されてきた水野信元ら水野一党の動きが単純なものではないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治関係を結びうるものであったことは確認できる。」という一文があります。

 非常に興味深い指摘ですが、この水野十郎左衛門尉について何かご存知でしょうか。とても気になる謎の人物です。



 長々と書いてしまいました。水野さんのブログの趣旨に沿って、このブログが活況をていするのに少しでも役立てば思い、コメントとして記載しました。
返信する
foxbladeさん (∞ヘロン)
2006-09-24 11:12:38
foxbladeさん



>水野さんのブログの趣旨に沿って、このブログが活況をていするのに少しでも役立てば思い、コメントとして記載しました。

 とっても嬉しいコメントをいただきまして深謝いたします。これからもどうか沢山の書き込みをよろしくお願いいたします。m(__)m



木原氏の『信長の涙 ――村木取手懐古――』の読後感を書き込み下さいまして、どうもありがとうございました。

「村木砦を構えた今川の意図がどこにあったのか」という問題提起には、今まで木原氏の論に同意していましたので、深くは考えが及びませんでした。

 陸地を通行することに目的をおいた東山道などの「山道」や、他方、海や川を通行するとことに主眼をおいた東海道などの「海道」の二通りの道がありますが、今川は信長との交信を遮断するため「山道」つまり「陸路」を封鎖しようとしたというのが木原氏の論ですが、そのためだけに当時としては、かなり本格的な「砦」というよりは、むしろ「羽城」と称してもおかしくないほどの拠点を築いたのは、おっしゃるように何故なのでしょうね。

>信長と水野氏にとって伊勢湾の交通と産業はその基盤をなしていたでしょうから、海上を陸の道以上に活用していたと思われます。

 確かに物資や大量の兵を運ぶのには船の方が効率が良いので、ずいぶん活用されたようですが、海上は天候に左右されることで、いつでも通れる陸路が、通信手段の重要な路となっていたと思われます。ですから、その陸路をたたれることは、通信の伝達であるのろしや、太鼓・鐘などの音信をたたれることとなりますね。それから海路は海岸線や川岸しかアクセスできませんが、陸路なら信長の清洲城の外、領内の至る所に幾通りかの交信が可能であったと思われますので、やはり陸路は最も重要であったと考えられます。



>東浦町誌資料編3に、水野十郎左衛門尉が「美濃の斉藤道三・今川義元・織田信秀と多方面に交信しており、(中略)従来織田信秀・信長との同盟関係のみが指摘されてきた水野信元ら水野一党の動きが単純なものではないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治関係を結びうるものであったことは確認できる。」という一文があります。

>非常に興味深い指摘ですが、この水野十郎左衛門尉について何かご存知でしょうか。とても気になる謎の人物です。



 このBBSを御覧頂いている皆様の理解を助けるために、引用された箇所の前文である『東浦町誌資料編3』349ページの[解説]を転載します。

[解説]後世の家譜類には登場せず、謎の人物(『刈谷市史』)とされている水野十郎左右衛門の関連文書である。内容からして信元と同時期である天文十三年(1544)頃から元亀三年(1572)頃までに知多半島にいた水野氏の一族であることは間違いない。美濃の斎藤道三……

 とあるように、この「水野十郎左右衛門」は私にとっても、未だ謎の人物です。

小河水野の祖とでもいうべき水野貞守は「水野九郎次郎十郎左右衛門蔵人貞守」というのがフルネームですが、やはり「十郎左右衛門」を名乗っています。この後裔にかの有名な 幡随院長兵衛と争った旗本「水野十郎左右衛門」がいますが、彼は岡山藩主水野勝成の孫で成之といいますが、二人とも時代が違い明らかに別人ですね。

 小生の作成した年表の天文十三年(1544)水野十郎左右衛門の項に「戦闘状態にある織田信秀・斎藤道三の両者と交信する『古今消息集』」と記載していますが、この『古今消息集』の写本は「国立公文書館写本所蔵」(東京都千代田区北の丸公園3番2号)です。しかしながら、今はメンテナンス中で詳細は見ることが出来ないようですが、東京近郊の人なら同館で閲覧できるそうです。

国立公文書館http://www.archives.go.jp/gyomu/gaiyo.html



 信元の時代にこれだけの勢力を持っていた人物の正体とは、いったい誰なのでしょうかね。私も興味津々なのですが、これから研究課題の一つとなっています。

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遮断と水野十郎左衛門尉 (foxblade)
2006-09-24 13:53:27
 早速の回答ありがとうございます。

 水野貞守のフルネームは「水野九郎次郎十郎左右衛門蔵人貞守」だったのですね。そうなればこの謎の人物は、貞守直系の人物である可能性が高いわけですね。実に面白いです。



 ところで、村木砦が築かれたことによる「遮断」の議論ですが、試みに少し掘り下げて見たいと思います。

 まず村木砦の規模ですが、『信長の涙』には次のように記載されています。

「南北百二十間、東西百間」。一間を1.82メートルとしますと、南北220メートル、東西180メートルほどのかなりの規模となり、確かに砦というよりは城といったほうが良い大きさです。この「南北百二十間、東西百間」という規模の典拠は、『尾州村木捕手城責聞書』であると思われますが、東浦町誌は信憑性に欠ける作品であるとしています。

 ともあれ城と言うにふさわしい規模の砦が村木の地に築かれたとして、これで陸路が遮断されるとはどいうことでしょうか。『信長の涙』では、「知多半島と名古屋との連絡を断たれて大変だ」としていますが、使いの騎馬一頭も通れなくなったということでしょうか。猪鹿垣でもめぐらしていたなら(知多半島に?)ともかく、通信という意味の連絡が断たれるという意味ではないでしょう。ここはやはり、いざという時の救援という意味でなくては、話が通じないと思われます。

 木原氏がこのように村木砦が構築されたことの意義を受け止めたのは、『信長公記』に次のような記述があるからであると思います。

「寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり、小河への通路を取切り候」

 つづけて『信長公記』では「御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候」と書かれています。この「御後巻」は、後方からの攻撃として理解されていますので、陸路を正面とするなら渡海による後方進出となります。そして実際に信長は熱田から大野城のあたりでしょうか、嵐をついて着岸するわけです。

 結果から見るようですが、今川方の意図が知多半島あるいは緒川城、あるいは信長直属の忠分の勢力を信長から遮断することにあったとしたら、あっけなくくじかれている訳です。それでは今川は、海路の活用を見抜けなかったのでしょうか。戦国期の今川に水軍があったこと、駿府には友野という豪商が居て、海運でも手広く商売をしていたことなどから考えると、陸路を遮断すれば信長の救援は無いなどとは見ていなかったでしょう。ここはやはり、信長に水野を救援する余裕が無いと見ていたと考えるべきではないでしょうか。実際に信長は道三を頼み、安藤守就の支援を受けています。

 また水野氏の掲載する図1地図を見ますと、大高城が今川方とされており、村木砦-鳴海城-大高城-寺本城で知多半島の入り口を封鎖していたかに感じます。しかしながら、水野さんの当ブログでは、「戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子が居城した」と書かれています。そうすると、この村木砦の戦いがあった天文二十三(1554)年の時点で、大高城が今川方であったというのは矛盾しているわけです。



 「遮断」について見解を述べてきましたが、結局このことは何を意味するかというと、村木砦を構えた今川の意図はなんだったのかが大きな問題だということです。

 信長直属の忠分勢を信長と分断し、救援できない状況に追い込むのが目的だとすれば、後はこれを軍事的に粉砕するだけです。今川にとって相手が信長直属の勢力であれば、これしかありえないと思うのです。しかしながら、村木砦は信長勢を軍事的に分断できていないのであって、そうである以上、木原氏の掲げる知多半島の信長勢力と信長の共同戦線による戦いではなかったのではないかと思われるのです。

 そもそも今川の意図がそうしたことには無く、標的はやはり水野信元、知多半島に勢力を張る水野一族そのものであったのではないかと思えるのです。実は先に示しました『尾州村木捕手城責聞書』に、次のような記載があります。

「此処ニ御軍配ノ捕手ノ城構ヘラレ候ハ、忠政父子モ是非ノ心底必定可仕ヤト言上スレハ・・・」

 信憑性に問題があるということですが、ここにあるように水野信元が今川方に加担するようにしむけることにその意図があり、そのための恫喝として村木に砦を構えたのではないかということです。

 そうなると水野さんの疑問である、水野が制海権を掌握している衣浦を活用してなぜも易々と村木に砦が構築されたのかという点が振り出しに戻ってしまいます。

 この点は当時の大名における家中の議論や、地下と大名権力の問題などを検討する必要があると考えています。戦国の真っ只中にあるこの時期、あらゆる勢力は非常に錯綜する関係を構築していたようで、従来の近世的な色合いが濃い視点では中々見通せない情況が多々あったと考えられます。私はこの点を考慮しながら、村木砦の合戦を読み解きたいと思っております。

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遮断と水野十郎左衛門尉の訂正 (foxblade)
2006-09-24 15:07:29
本文中、「また水野氏の掲載する図1地図を見ますと」と書きましたが、「また木原氏の掲載する図1地図を見ますと」の間違いです。
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foxbladeさん、その3 (∞ヘロン)
2006-09-24 19:35:37
foxbladeさん



>水野さんの当ブログでは、「戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子が居城した」と書かれています。そうすると、この村木砦の戦いがあった天文二十三(1554)年の時点で、大高城が今川方であったというのは矛盾しているわけです。



「戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子が居城した」と記載したその出典は、『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』(第三版 1998年 3月31日、名古屋市教育委員会発行)の「243 大高城跡」の項に記載されている文章が基であり、ブログの写真にもある大高城跡の案内板に書かれた文章もまた同じものです。

 ご指摘のように、天文二十三(1554)年の村木砦の戦い時においては、水野近守父子が居城し、六年後の永禄三年(1560)の桶狭間の戦い時点では、二年前に近守父子は城を去っていたことになりますね。

 この『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』の記事については、名古屋市教育委員会に照会しても、明確な答えは得られません。つまり文責は当会にあるにも拘わらず、記事の内容を掌握し切れていないというお粗末さです。従って困ったことに筆者も誰であるかも不明とのことです。



この話題の核心である「村木砦を構えた今川の意図がどこにあったのか」について、これを精確に解明できれば、次の戦い「桶狭間の合戦」の謎解きにもきっと大きく影響するのでしょうね。

 村木砦については、もう一つ、当ブログ記事「上世山 傳宗院」に記載した、信元の女婿「水野対馬守與次右衛門」のことも考慮しなければならないと考えています。ある人が

水野氏を分類する上で、小生の分類しているほかに「村木水野氏」を挙げています。

村木には、砦が出来る前から「臨江庵」という、衣浦を行き交う船の管理を行う、村役人の詰め所がありました。この軍事的にも重要な施設と、新たに造られた砦との関係も見のがしてはいけないと考えています。



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はじめまして、 (かぎや散人)
2006-12-18 15:56:48
はじめまして、私も最近「桶狭間合戦の真実」というホームページを立ち上げたばかりですので、興味深く拝見しました。紹介されておられました『戦国知多年表』と「みなみ73号」も読ませていただきました。
面白くはありますが、史実を説明できないことが多い仮説だと思います。
例えば、大高城が駿河方に奪われたときに、なぜ信長は大高城の南側に付城を作らなかったのでしょうか。
木原氏のおっしゃる通りならば、水野信元に遠慮する必要などはないはずです。南側に付城なければ攻囲は不完全になります。松平元康による兵糧搬入などは起こらなかったと思います。大野湊には駿河方に心を寄せていたといわれる佐治氏がおりますし、桶狭間合戦時には、二之江の服部氏や渥美の太郎兵衛によって海路、兵糧の搬入が行われているからです。逆に、付城が大高城の南側にあった場合には、何故牛一は信長公記に書かなかったのかという疑問が生じます。それも、大高川よりも南が水野領であったならば話は別です。
また、緒川(高薮)城主とされた忠分は、信長に属したといいながら、村木砦の戦いから後には大きな働きをしていません。村木砦攻めにおいて、すでに一手の大将を承っていたような勢力のある武将が、その後の重要な合戦に一手を率いていないというのは、おかしなことです。特に、水野信元も出陣している姉川合戦でも一手を率いておらず、長島一向一揆攻めでも安宅船に乗っておりません。
木原氏の説のポイントは、「金吾」が誰かというところにあるようですが、水野忠分が「衛門」を名乗った史料を発見しない限り、かれを金吾と見做す木原説は成立しそうもありません。「寛政重修諸家譜」には、水野信元は「藤七郎、四郎衛門、下野守」を名乗るとありますが、忠分は「藤二郎」としか記されておらず官名は伝わりません。これらのことからみますと、父祖が任官していた官職名を、幼名、あるいは通称の一部に使用する場合があるから、『四郎衛門』といった信元が「金吾」と呼ばれるのは妥当でだと思います。しかし、信元が名乗る以上それ以外の兄弟が、父祖の官命を名乗ったとは思えませんから、小河金吾が忠分であるというには無理があると思います。
ヘロンさんが問題にしておられる信長公記の記述ですが、
なぜ信長公記は「金吾」に統一せずに一箇所だけ「下野守」を使ったのかという理由を考えてみますと、これは恐らく村木砦後詰の記事に、あとから、山城道三の応援を頼んで出陣した記事を割り込ませたことによって、氏名に不統一ができたものと思われます。即ち、「併し、(中略) 一、正月廿四日払暁(後略)」が後から挿入されたと考えればよいのではないかと思うのです。牛一はメモを基にして公記をものしたといいますから。
系図については、まるっきり無知ですが、緒川水野氏と刈谷水野氏とは、一枚岩などではなく、立場が微妙に違っていたような気がします。
また、村木の「臨江庵」というのは、「庵」とあるように住職がいない寺だと思います。従って、「衣浦を行き交う船の管理を行う、村役人の詰め所」というようなものはなく、緒川から対岸の刈谷への「渡し舟」を管理していたという程度であったと考えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
返信する
歓迎>かぎや散人さん (∞ヘロン)
2006-12-19 14:27:45
 ようこそマイ・ブログにお越し下さいました。レスポンスが遅れまして申し訳ありません。
かぎや散人さんは、先週ホームページを開設されたとのこと、まことにおめでとうございます。(^^)
私も「桶狭間合戦」については強い興味を持っており、これからの研究課題にしたいと目論んでいます。
かぎや散人さんは、色々ととても精しく研究なさっておいでのご様子、感服いたしました。現在あまり時間が取れませんので、後日ゆっくりと貴ウエブページを拝見したと思っております。
 さて、数々のご指摘感謝いたします。「金吾」につきましては、「村木砦の戦い」シリーズに尽きておりますが、おっしゃるように小生もいずれ「水野忠分が『衛門』を名乗った史料」を発見できればよいと思っています。
なお、村木の「臨江庵」については、現在某氏と共同研究中であり、未だ発表できる段階に至っていません。いずれ何らかの形で纏めてみたいと思っております。
これを機会に、また当ブログにお越し下さい。

返信する
刈谷水野氏と村木砦について (かぎや散人)
2007-01-12 17:42:45
今年もよろしくお願いします。
前回お便りしてから、村木砦の謎について考えてきまして、一つの仮説を思いつきました。
根本は「刈谷市史」の説に拠っているのですが、信元の三男が刈谷水野家を継いでおり、刈谷水野氏は今川方、緒川水野氏は織田方であったと考えて、戦国時代の水野一族が他の多くの戦国大名家と同じように父子・兄弟が独立していたし、争うのが当然であるとみなせば、納得の行く説明ができそうに思えます。
詳細は、私の「桶狭間合戦の真実」の「おまけ」に「尾三国境・前編」として掲載しました。長くなりますので、暇なときに覘いていただき、ご批判・意見をいただければ幸いです。納得いくように改訂していきたいと思います。
返信する

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