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ヘナチョコ革命 2020年版

世界を変える・・・

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」

2022-08-14 07:03:28 | 優生思想
天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」
2017年4月28日 10:40
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-486778.html

 天皇メッセージを発見した進藤栄一筑波大学名誉教授に、その今日的意味などについて話を聞いた。(聞き手 滝本匠)

 ―対日講和条約発効では昭和天皇からの沖縄長期占領の提案内容を踏まえる格好で、日本独立の裏で沖縄の米占領が継続された。

 「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

 ―当時の背景は。

 「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

 「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

 ―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

 「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」

 ―安倍政権は「辺野古が唯一」と米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の埋め立て作業を強行している。日本の沖縄に対する姿勢は今も天皇メッセージと通底しているようにも見える。

 「まさにその通りだ。安倍政権の対米追随姿勢が象徴的に表れている。オバマ大統領に続いてトランプ米大統領とも『辺野古が唯一』と確認した。沖縄を米国に差し出すことが、昔も今も日米軍事同盟の結節点となっているといえる」


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ヒロヒトは沖縄を3回捨てた!

2022-08-14 04:37:36 | 優生思想

<社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ
2014年9月10日 06:02
https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html




 沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった。
 宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。
 しかし、沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や、戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「見つからなかった」との理由で、盛り込まれなかった。編さんに24年かけたにしては物足りず、昭和史の空白は埋められなかった。
 昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
 私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。

“天皇メッセージ”
 https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)
 同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。
【資料コード:0000017550】

 内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
 メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
≫PDF画像(2頁)(226KB)




※追記:最後に、食後の最悪のデザートってか。トンデモ保阪正康の提灯記事──


保阪正康氏「新時代の天皇らしい」3代の”沖縄”おことばの変遷
毎日新聞 2022/5/15 17:00(最終更新 5/16 20:20) 有料記事 3492文字

https://mainichi.jp/articles/20220515/k00/00m/040/084000c

 太平洋戦争で国内唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄は1972年5月15日に日本復帰を果たした。復帰に関する式典で天皇がおことばを出されるのは今回が3回目となる。特異な歴史を歩んだ沖縄に対し、歴代の天皇はどのような気持ちを抱えてきたのか。復帰の日の昭和天皇、復帰20周年の上皇さま、そして今回の陛下のおことばについて、近現代史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんに分析してもらった。そこから垣間見える天皇の思いとその時代背景とは。



 72年の復帰記念式典は沖縄と東京の2会場で行われ、昭和天皇は東京都千代田区の日本武道館であった式典に出席した。昭和天皇は戦後の46~54年に46都道府県を巡ったが、米国統治下にあった沖縄のみ訪問できず、復帰後は何度か訪問が検討されたが、地元の反対や健康問題などもあり、ついに沖縄の地を踏むことなく亡くなった。


 式典では、復帰を「多年の願望」と表現して喜び、「さきの戦争中および戦後を通じ、沖縄県民のうけた大きな犠牲をいたみ、長い間の労苦を心からねぎらうとともに、今後全国民がさらに協力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展のために力を尽くすよう切に希望します」と述べた。


 昭和天皇は戦後、国防の観点から沖縄における米軍駐留の必要性を感じていたとされる。保阪さんは「沖縄戦や米軍基地が残ることへの県民への申し訳なさとともに、東西冷戦の中では基地を残すことは仕方がないとの思いを抱えていた。おことばからは現実を肯定しながらも、その中での沖縄の平和や発展を願っている複雑な思いを読み取る必要がある」と話す。


 上皇さまは皇太子時代を含め計11回沖縄を訪問しており、訪問のたびに国立沖縄戦没者墓苑などで拝礼することを欠かさない。


 92年5月の政府主催の復帰20周年式典は千代田区の憲政記念館であった。出席した上皇さまは、おことばで「先の戦いで多くの命が失われ、苦難の道を歩んできた沖縄県の人々のことを思いつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」と述べたうえで、復帰から20年間で「沖縄県が発展し、県民の福祉が向上していることは、心強いことであります」と述べた。


 保阪さんが注目するのは、…


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日本低国の「ナチス」問題 ~櫻井ジャーナル:米国が軍事支援する理由は自分たちのターゲットと戦わせるため ~

2022-08-13 04:44:16 | 優生思想

 優生学の親玉アメリカはナチスと相思相愛だから、当然ながら日本低国の「ナチス」も温存利用する。安倍晋三銃撃事件は統一教会問題(国際勝共連合問題)をあぶり出し、安倍晋三が岸信介の孫であったため、岸信介と同様に温存利用された、ヒロヒト、児玉誉士夫、笹川良一、及び石井四郎の名前をあぶり出すはずだった。だがメディアからはヒロヒト・石井四郎の名前は挙がってこない。よってカルト天皇教という過激宗教問題や生物兵器問題は無視された。
 ウクライナ問題では生物兵器研究所問題が出てきたのだから、アメリカが温存した石井四郎の名前が出てくれば、ウクライナ問題の本質にせまる可能性もあったはずだ。
 要するに、日本低国の「ナチス」問題とは、過激カルト宗教天皇教、戦犯教祖、戦犯政治屋、マフィア、右翼、政商、麻薬、生物兵器など多種の問題を抱えていたわけだ。
 そしてウクライナ問題で、ネオナチと生物兵器研究所の問題が出てきた。プーチンはウクライナの非ナチ化を主張している。生物兵器研究所の資料からは人口削減計画グッドクラブ会員のジョージ・ソロスの名前も出てきた。こうしてウクライナ問題は新型コロナ大騒動問題と直結し、アメリカが生物兵器を中国、イラン、ロシアを標的にして散布していた可能性も排除できなくなったわけだ。もちろん人口削減計画の切り札は「ワクチン」だから、そこではビル・ゲイツが大活躍だ。
 テロ国家アメリカはアフガンに過激宗教を注入して男女平等をぶち壊し、麻薬の大生産国にしてCIAの資金を増やした。教育費・医療費ゼロの国──イラク・リビアを侵略して崩壊させ、そこでも人口削減計画を実施。もちろんキューバには生物兵器攻撃をはじめあらゆる妨害をしかけている。
 ところが日本低国民といえば、こんな悪の帝国のアメリカが大好きだ。よって「左翼」からも反米原理主義批判などという珍奇な論考が出てくる。アメリカとナチスの相思相愛問題を知らないから、「ナチスは嫌いだがアメリカは好きだ」というトンデモが多いのだ。
 人口削減計画始動中の今、起きていることは単純だ。ロックフェラーが鎮座するアメリカでは人口削減計画はずーっとやってきた。キューバへの生物兵器攻撃のようなことを中国やイランにもやったのであろう。ウクライナやジョージアを使い、ロシアにも生物兵器攻撃を仕掛けたかもしれない。
 スパイクタンパク質はアメリカの世界各国に分散する軍事基地(170カ国800)や生物兵器研究所(世界30ヶ国で計336ヶ所)を使い拡散させた。致死率がインフルエンザ並のスパイクタンパク質は効果的に拡散し、「ワクチン」(強毒スパイクタンパク質生成装置)の出番だ。殺す側には想定外だったのが特効薬イベルメクチンであったが、それもビル・ゲイツなどの活躍で潰した。これらの超富裕層の「人道に対する罪」も(「超富裕層の代理人」)メディアの広報が大活躍で大多数の地球臣民は何も知らない。
 優生学の親玉アメリカ問題とは、私たちが虫けらのごとく殺される問題だ。この私たちを日本低国に限れば、多くの住民は名誉白人を含む差別主義者だが、まあ言い方をかえてれば臣民で、「人間は平等」という真理に例外を認める立場だ。例外を認めると何が起こるのか、ヒロヒト語録で考えて見よう。
★(戦争責任について聞かれて)そういう言葉のアヤについては、私 はそういう文学方面はあまり研究もしてない で、よくわかりませんから、そういう問題につ いてはお答えができかねます。
★原子爆弾が投下されたことに対して は遺憾には思ってますが、こういう戦争中であ ることですから、どうも、広島市民に対しては 気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っ てます。 
おまけでパパブッシュ──
★ジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ): 米国戦艦がイランの旅客機を打ち落とし、290名の命を奪ったときに、副大統領として発言──『ニューズウィーク』1988年8月15日、「私はアメリカ合衆国について決して謝罪しない。事実がどうであるかはどうでもよい。」
 
 こんなゴロツキどもを仰ぎ見ていれば、人間は虫けらになるしかない。「変身」する必要もない臣民という名の虫けらだ。王制を維持するヨーロッパなどを民主主義国などと妄想しているから、天皇教を維持しながらの「ナチス」日本低国を民主主義国などと妄想するのだ。天皇主義者が論壇を跋扈するのだ。
 日本低国の非ナチ化を徹底しなければ人口削減計画に反撃もできない。そう天皇ナルヒトは「ワクチン」接種済みだと宮内庁が言っている。こんなウソに騙されていては生き残れない!
 
 
 






2022.08.13

米国が軍事支援する理由は自分たちのターゲットと戦わせるため 
 
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202208120001/

 アメリカ/NATOはウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー政権に対し、軍事支援を続けている。言うまでもなくロシアと戦わせるためだ。その戦闘が始まる切っ掛けは2013年11月から14年2月にかけてバラク・オバマ政権がキエフで実行したクーデター。その実行部隊はNATOの軍事訓練を受けたネオ・ナチだった。

 ロシア軍がウクライナに対する攻撃を始めた今年2月24日以降、ウクライナの中央銀行は124億ドル相当の金を売却したというが、その金塊の一部は兵器に化けているだろう。アメリカが基軸通貨ドルを発行する特権を持ち、そのドルを回収する仕組みを作り上げているため、帳簿上は問題なく兵器を供給できる。ドル体制の崩壊はアメリカの支配層にとって深刻な問題だ。ドル体制を揺るがしているという点でもロシアと中国は打倒すべきアメリカの敵ということになる。

 ジョー・バイデン米大統領は今年5月、ウクライナに対する400億ドル相当の支援を行う法案に署名している。軍事的な支援に限ると、8月8日に10億ドル相当の支援を発表、2014年からの支援を合計すると118億ドルになるが、9日には国務省が8900億ドル相当の追加支援を今年度中に行うと表明している。

 供給された兵器を見ると、アメリカはHIMARS(高機動ロケット砲システム)、イギリスはM270-MLRS(M270多連装ロケットシステム)という高性能兵器をウクライナへ供給していることは知られているが、アメリカ製の空対地ミサイルAGM-88 HARMを秘密裏に供給していたことも発覚している。AGM-88は防空システムを破壊することを目的として開発された兵器だ。

 アメリカやイギリスをはじめとするNATO諸国がウクライナへ兵器を供給、将兵を訓練、特殊部隊や情報機関員を送り込んでいるのはロシア軍とウクライナ人を戦わせるためにほかならない。明治維新後、アングロ・サクソンが日本に対して行ったことと基本的に同じである。手先になる戦闘集団の育成だ。明治体制になって政府が国民に反アジア教育を徹底させたのも侵略のためにほかならない。その洗脳は世代を超えて伝わり、今でも影響を及ぼしている。

 反アジア教育で国民の多くが洗脳されている日本をアメリカやイギリスは中国との戦争に使おうとしている。明治維新の後、日本は米英両国に煽られ、アジア侵略を始めた。手始めに琉球を併合、次いで台湾に派兵し、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと進んだ。東アジアでは当時と似た状況が作られつつある。

 日本で戦争の準備が本格化したのはウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成された3年後の1995年。その時に何があったのかは本ブログで繰り返し書いてきた。そして日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれたのである。

 ウクライナ、EU、日本、台湾などに自分たちのターゲットと戦わせる一方、米英の支配層、つまり巨大資本は安楽椅子に座って殺し合いを眺めるつもりだろう。世界的に見るとそうした仕組みから脱出しようとする国が増えているのだが、日本はどっぷり浸かっている。それは破滅への道を歩んでいるということでもある。


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脱亜入欧とカルト天皇教の両輪で虫けらとして轢き殺される・・・

2022-08-11 03:42:34 | 優生思想
 新型コロナ大騒動問題、ウクライナ問題ではほぼ挙国一致国会だった。この惨状は主に日本共産党の右傾化に起因するものだが、それを加速させるものに日本低国の言論界の「左翼」思想の崩壊が根本にある。
 差別語「ブラック」問題でそれが顕著だが、差別語「ブラック」を拡散させたのが労働運動及び市民運動。だから、差別語「ブラック」の大氾濫は言論界の「左翼」思想の崩壊の前触れと言ってもよい。 
差別語「ブラック」拡散は、白人の奴隷制や植民地主義を支えるエセ科学に加担する恥ずべき行為だが、戦前の侵略思想と不可分であった脱亜入欧思想を今頃になって深化させるという意味も持つ。そう名誉白人低国の誕生である。名誉白人といえば、真っ先に想起されるのが石原慎太郎だが、彼はこう言っている──「アメリカでは黒人を使って能率が落ちている。黒人に一人一票やって も南アの行く先が混乱するだけだ、独立してもやっていけない」(日本・南ア友好議員連盟 幹事長、1984年発足)。日本低国の「左翼」は人種主義者の石原慎太郎程度の右翼の対極にも立てないのだから、完全崩壊するのも不思議ではない。ましてや『週刊金曜日』などは「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動を賞賛した本多勝一という編集委員が存在しながら、差別語「ブラック」を率先して拡散する役目を果たしのだから、ある意味完全に終わっている。
もう一度、人種について再確認する。
★カトリーナ・アームストロング(ハーバード大教授)──「人種は欧州の科学者が植民地支配や奴隷制を支えるために政治的意図を持って発明した概念だ」。
★竹沢泰子──ヨーロッパ人を白色人種と呼んだり、白い肌が美しいとする考えは、元来極めてユダヤ=キリスト教文化圏の伝統に支配された考え方だと思います。ユダヤ=キリスト教文化圏では旧約聖書にあるように白を光、黒を闇として、善である白い色を自分たちの色に当てはめたわけです。
江戸時代には黒より白の方がプラスイメージが強かったのだが、白人英語の流入や脱亜入欧意識により、そのイメージは逆転した。警察用語の「クロ」はその典型であろう。こうしたことは英国の植民地であったインドでも見られるから、英語帝国主義が美意識までも従属させていく恐ろしさを銘記すべきだ。
さて表題だが、安倍晋三銃撃事件は、日本低国の温存された「ナチス」問題を噴出させたが、それに触れる論調はほとんどない。ヒロヒトラーの温存と2発の原爆の人体実験は密接に絡み合うが、原爆式典でそれが語られることは絶対ない。それどころか、ロシアやベラルーシが式典に招待されずに、2発の原爆の人体実験を反省しないアメリカが参加するという正邪逆転の政治的式典になっている。というのも、ウクライナの非ナチ化を日本低国に適用するとどうなるのか?という問題は俎上にも上っていない。だからプーチンの発言は、日本低国の戦後を再検証する意味合いをもっていることになる。
こんな中、安倍晋三銃撃事件が起き、日本低国の温存された「ナチス」問題が噴出したが、メディアが何も報ぜねば、国民はまた大本営発表状態におかれ、統一教会問題だけが語られ、温存された過激カルト天皇教問題はタブーのままなのだ。
そして政党名の元号が入る政党が安倍晋三の国葬に反対するという支離滅裂も起きてくる。思い出して欲しい、安倍晋三・麻生太郎・アキヒトの昼食会風景を!そう、日本共産党議員が国会で頭を垂れて天皇の話を聞く時代には、支離滅裂は通常のことだ。真理も叡智も論理もうっちゃれば、まともな言説が誕生するはずもない。
というわけで、私たちは超富裕層に虫けらとして殺されている最中だ。だって「人間は平等」という真理に例外を認める王制維持のヨーロッパをずーっと見上げてきた。そう脱亜入欧とカルト天皇教の両輪で虫けらとして轢き殺される・・・





■れいわ山本太郎氏、安倍晋三元首相の国葬に「やる必要ない。そこに税金投入するなんてふざけた話」
8/5(金) 17:28配信
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臨時国会が閉会し、不定例会見を開いたれいわ新選組の山本太郎代表(左)と神妙な表情で聞き入る水道橋博士氏(撮影・寺沢卓)
https://news.yahoo.co.jp/articles/48390275371907ce21ba80f97d7fad55a9f92b6c
 臨時国会が閉会した5日、れいわ新選組の山本太郎代表(47)が会見し、安倍晋三元首相の国葬について「国葬自体やる必要がない。儀式として自民党が勝手にやろうとしているだけ、そこに税金を投入するなんてふざけた話です」と語った。  参院議員水道橋博士氏(59)は会期が3日間だったことに「あきれました。3日しかない会期なのに2日目は休み。“異議なし”をいうだけの集まり。意味がない」と語気を荒げた。
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ウィリアム・イングドール:毒物学対ウイルス学:ロックフェラー研究所と犯罪的ポリオ詐欺

2022-08-06 06:52:21 | 優生思想
12.07.2022 著者: F. ウィリアム・イングドール

毒物学対ウイルス学:ロックフェラー研究所と犯罪的ポリオ詐欺

https://journal-neo.org/2022/07/12/toxicology-vs-virology-rockefeller-institute-and-the-criminal-polio-fraud/



2019年に公に出現したとされる新しいSARSCovidウイルスの結果の1つは、ウイルス学の医学的専門化がメディアでほとんど神のような地位に引き上げられたことです。ウイルス学の起源と、今日の医学実践における主導的な役割へのその上昇を理解している人はほとんどいません。このためには、アメリカ初の医学研究機関であるロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の起源と政治、そして彼らがポリオウイルスであると主張したものに関する彼らの研究を見る必要があります。
1907年、ニューヨーク市で病気が流行したことで、ロックフェラー研究所の所長サイモン・フレクスナー医学博士は、恣意的にポリオと呼ばれるものによって引き起こされる目に見えない「ウイルス」の発見を主張する絶好の機会を得ました。ポリオという言葉は、単に脊髄の灰白質の炎症を意味します。その年、約2,500人のニューヨーカー(大半が子供)が、麻痺や死を含む何らかの形のポリオに指定されました。
フレクスナーの詐欺
20世紀前半の米国におけるポリオ・サーガ全体の最も印象的な側面は、ビジネスのあらゆる重要な段階がロックフェラー医療陰謀団となったものに結びついた人々によって支配されていたという事実でした。この詐欺は、ロックフェラー研究所のサイモン・フレクスナー所長が、彼と彼の同僚ポール・A・ルイスが、目には見えない、細菌よりも小さい病原体を「隔離」したという主張から始まりました。彼らはどのようにしてこの考えにたどり着いたのでしょうか。
1909年にJournal of the American Medical Associationに掲載された論文で、フレクスナーは彼とルイスが原因のポリオウイルスを単離したと主張した。彼は、彼らがポリオをサルからサルまで、いくつかのサルを通して首尾よく「通過」させたと報告しました。彼らは、おそらくウイルスで死亡した少年の病気のヒト脊髄組織をサルの脳に注入することから始めました。サルが病気になった後、その病気の脊髄組織の懸濁液が、同じく病気になった他のサルの脳に注入されました。
彼らは、ロックフェラー研究所の医師が、このように謎の病気に対するポリオウイルスの因果関係を証明したと宣言した。彼らはそのようなことは何もしていなかった。フレクスナーとルイスは、「私たちは、フィルム製剤でも培養物でも、この病気の原因となり得る細菌を発見することに全く失敗しました。そして、サルにおけるウイルスの長い一連の伝播の中で、病変において、以前の研究者によって記述された球菌を示さなかった動物は1匹もおらず、私たちが研究したヒト材料からそのような細菌を得ることに失敗したので、私たちはそれらが考慮から除外される可能性があると感じました。彼らがしたことは、科学的な主張ではなく、奇妙な仮定、信仰の飛躍をすることでした。彼らはウイルスの外因性エージェンシーの仮説をとって、何の証拠もなくそれを事実にしました。彼らは断言しました:「それゆえ,......流行性ポリオの感染物質は、これまで顕微鏡下で確実に実証されていない微細で濾過可能なウイルスのクラスに属する。「だから?
サイモン・フレクスナーは、他の説明が見つからなかったため、サルを殺すポリオウイルスに違いないと単に主張しました。実際、彼は病気の別の原因を探していませんでした。これは科学的な孤立ではなかった。それは野蛮な憶測だった:「...これまでのところ、顕微鏡下で確実に実証されていません。彼らは、1909年12月18日にJAMAで「流行性ポリオのウイルスの性質」と題されたフォローアップでこれを認めた。
彼らがサルに注入していたいわゆる「ウイルス」は、ほとんど純粋ではありませんでした。それはまた、不確定な量の汚染物質を含んでいた。その中には「純粋な脊髄、脳、糞便、さらにはハエさえも粉砕し、麻痺を誘発するためにサルに注射した」ことが含まれていました。ジョナス・ソークが1955年4月に米国政府からポリオワクチンの承認を得るまで、ポリオや乳児麻痺を引き起こすウイルスの存在を示す科学的証拠は証明されていなかった。それは今日までそうである。医療界は皆、ウイルスに「ならなければならない」というフレクスナーの言葉を受け入れた。
ロックフェラー研究所、フレクスナー、アメリカ医師会
ロックフェラー研究所は、1901年にジョン・D・ロックフェラーのスタンダード・オイルの財産から、アメリカ初の生物医学機関として設立されました。フランスのパスツール研究所(1888年)とドイツのロバート・コッホ研究所(1891年)をモデルにしています。初代所長のサイモン・フレクスナーは、承認されたアメリカの医療行為の進化において極めて重要かつ最も犯罪的な役割を果たしました。ロックフェラーの目標は、アメリカの医療行為を完全に支配し、少なくとも当初は、ロックフェラーの権益によって承認された医薬品の宣伝のための道具に変えることでした。その時までに、彼らは石油でやったように、石油精製から生産された医療薬を独占しようとしていた。
ロックフェラー研究所のサイモン・フレクスナー所長がポリオに関する彼の決定的ではないが高く評価された研究を発表していたとき、彼は医学的背景のない学校教師である彼の兄弟、エイブラハム・フレクスナーに、アメリカ医師会(AMA)、ロックフェラー一般教育委員会、ロックフェラーの親友アンドリュー・カーネギーによって設立されたカーネギー財団による共同研究を率いるよう手配しました。
1910年の研究は「フレクスナー・レポート」と題され、その表向きの目的は米国のすべての医学部の質を調査することでした。しかし、報告書の結果はあらかじめ決まっていた。恵まれたロックフェラー研究所とAMAの関係は、腐敗したAMA長官ジョージ・H・シモンズを貫いた。
シモンズは影響力のあるジャーナル・オブ・ザ・アメリカン・メディカル・アソシエーションの編集者でもあり、この出版物はアメリカ全土の約8万人の医師に届けられました。彼は医師会に対して絶対的な権力を振るったと伝えられている。彼は、製薬会社がAMAの医師に彼らの薬を宣伝するための広告収入の増加をコントロールしました。彼はロックフェラー医療クーデターの重要な部分であり、それは、容認できる医療行為を、矯正や予防的治療から、しばしば致命的な薬物や高価な手術の使用に完全に再定義することでした。AMAの長として、シモンズは、当時認められていたカイロプラクティック、オステオパシー、ホメオパシー、自然医学を含む医学部の急増との競争が、1880年の約90から1903年の150以上に増加したため、AMA医師の収入を減らしていることに気付きました。
私立学校の元校長エイブラハム・フレクスナーは、1909年にアメリカの様々な医学部を視察し、彼が「標準以下」と定義したように、165の医学部の半分を完全に閉鎖するよう勧告した。これにより、病気を癒すための他のアプローチとの競争が減少しました。彼らは、当時広まっていた自然療法医学校、カイロプラクティック医、オステオパシー、そしてAMA政権に加わりたくない独立したアロパシー学校を容赦なく標的にしました。その後、ロックフェラーの資金は、教授がロックフェラー研究所によって吟味されることを条件に、選ばれた学校に行き、カリキュラムは、予防や栄養、毒物学ではなく、治療としての薬物や手術に焦点を当てています。彼らはパスツールの病気の細菌理論を受け入れなければならなかった、それは1つの細菌を1つの病気に還元主義を主張する。ロックフェラーが支配するメディアは、あらゆる形態の代替医療、漢方薬、天然ビタミン、カイロプラクティックなど、ロックフェラーの特許取得済みの薬によって制御されていないものすべてに対して、協調的な魔女狩りを開始した。
1919年までに、ロックフェラー一般教育委員会とロックフェラー財団は、セントルイスの医学部にあるジョンズ・ホプキンス、イェール大学、ワシントン大学に500万ドル以上を支払った。1919年、ジョン・D・ロックフェラーは「合衆国における医学教育の進歩のために」さらに20,000万ドルの有価証券を供与した。これは、今日の約3億4,000万ドルに相当し、巨額です。要するに、ロックフェラーの金権益は、1920年代までにアメリカの医学教育と医学研究をハイジャックしたのだ。
ウイルス学の創造
最も影響力のある医師の組織であるAMAとその腐敗した頭、シモンズに支援されたこの医療買収は、サイモン・フレクスナーがロックフェラーの規則の下で文字通り現代のウイルス学を創造することを可能にしました。非常に物議を醸したトーマス・ミルトン・リバーズは、ロックフェラー研究所のウイルス学研究所の所長として、1920年代に細菌学とは別の独立した分野としてウイルス学を確立しました。彼らは、目に見えない細菌や「ウイルス」である致命的な病原体を主張できると、はるかに簡単に操作できることに気付きました。皮肉なことに、ウイルスはラテン語で毒を意味する。
還元主義的な医療詐欺であるウイルス学は、ロックフェラー医療カバールの創造物でした。その非常に重要な事実は、今日の医学の年表に埋もれています。天然痘や麻疹、ポリオなどの病気は、特定のウイルスと呼ばれる目に見えない病原体によって引き起こされると宣言されました。科学者が目に見えないウイルスを「隔離」することができれば、理論的には人々を害から守るワクチンを見つけることができます。だから彼らの理論は行った。当時、痔核のための準備Hや疼痛緩和のためのアドビルなど、効果の証拠のない薬物を誤って宣伝したアメリカンホームプロダクツが含まれていた製薬会社のロックフェラーカルテルにとって大きな恩恵でした。スターリング・ドラッグは、第一次世界大戦後にドイツのバイエルAGのアスピリンを含む米国の資産を引き継いだ。ウィンスロップ化学;アメリカンシアナミドとその子会社レデルレ研究所。スクイブとモンサント。
まもなく、ロックフェラー研究所のウイルス研究者は、ポリオウイルスの発見を主張することに加えて、天然痘、おたふく風邪、麻疹、黄熱病を引き起こしたウイルスを発見したと主張しました。その後、彼らは肺炎と黄熱病の予防ワクチンの「発見」を発表しました。研究所が発表したこれらの「発見」はすべて虚偽であることが証明されました。ウイルス学の新しい分野における研究の支配により、ロックフェラー研究所は、AMAのシモンズと彼の同様に腐敗した後継者、モリス・フィッシュバインと共謀して、アメリカのすべてのメンバーの医師に行った影響力のあるAMAジャーナルで、新しい特許取得済みのワクチンまたは薬物「救済策」を促進することができました。AMAジャーナルの広告費の支払いを拒否した製薬会社は、AMAによってブラックボールされた。
ポリオ研究の抑制
サイモン・フレクスナーと非常に影響力のあるロックフェラー研究所は、1911年にポリオと呼ばれていた症状を「空気媒介性ウイルスによって引き起こされる伝染性感染症」として米国公衆衛生法に盛り込むことに成功しました。しかし、彼らでさえ、この病気が人間の体にどのように入るのかを証明していないことを認めました。ある経験豊富な医師が1911年に医学雑誌で指摘したように、「伝染の可能な方法に関する私たちの現在の知識は、ロックフェラー研究所でこの都市で行われた研究にほぼ完全に基づいています。1951年、ロックフェラーがポリオの伝染病に関する判断に急いでいるのを批判するラルフ・スコービー博士は、「これはもちろん、臨床調査ではなく動物実験に頼っていました...」と指摘しました。スコービーはまた、ポリオが伝染性であるという証拠の欠如を指摘した:「...この病気に罹患した子どもたちは一般の病棟に収容され、病院の病棟の他の囚人のうち、この病気に罹患した囚人は一人もいませんでした。当時の一般的な態度は1911年に要約されました:「絶対的な証拠がないにもかかわらず、伝染性の観点から病気に関してコミュニティの最善の利益が私たちによって保存されるであろうと私たちに思われます。(原文ママ)。
目に見えない、外因性または外部ウイルスとされるものによって引き起こされる伝染性の高い疾患としてポリオの症状を分類することによって、ロックフェラー研究所とAMAは、化学農薬または他の毒素への曝露などの代替説明のための真剣な研究を遮断することができ、病気や麻痺、さらには死の季節的な発生を説明するために、 主に非常に幼い子供たちで。それは現在まで続く致命的な結果をもたらすことでした。
DDT を入力します。
食品中の化学物質の危険性の可能性を調査する米国下院への1952年の声明で、Ralph R. Scobey医師は、「ほぼ半世紀にわたり、ポリオの調査は、人体に侵入して病気を引き起こす可能性のある外因性ウイルスに向けられてきました。現在、公衆衛生法が述べられているやり方は、この種の調査のみを課している。一方、いわゆるポリオウイルスが人体に全く入らない外因性因子、例えば食毒に起因する自生化学物質であるかどうかを判断するための集中的な研究は行われていません。原因としての毒素は、膨大な証拠にもかかわらず、調査されなかった。
1930年代には経済不況とその後の戦争で、ポリオの新たな大流行はほとんど見られませんでした。しかし、第二次世界大戦が終わった直後、特にポリオのドラマは爆発的に広がりました。1945年から毎年夏になると、アメリカ全土でますます多くの子供たちがポリオと診断され、入院しました。実際に血液検査や尿検査を受けた症例は1%未満でした。約99%は、四肢の急性疼痛、発熱、胃のむかつき、下痢などの症状の存在だけで診断されました。
1938年、ポリオ被害者と推定されるフランクリン・D・ルーズベルトの支援を得て、ポリオ研究に資金を提供する非課税の寄付を募るために、国立乳児麻痺財団(マーチ・オブ・ダイムズ)が設立されました。ドイツ人の医師で研究者のヘンリー・クム博士は米国に来て、1928年にロックフェラー研究所に加わり、1951年にポリオ研究のディレクターとして国立財団に加わるまでそこにいました。クムは、ロックフェラー研究所のもう一人の重要な退役軍人、いわゆる「ウイルス学の父」トーマス・M・リバーズ(Thomas M. Rivers)が国立財団に加わり、ジョナス・ソークの研究を監督する財団のワクチン研究諮問委員会の議長を務めた。この2人のロックフェラー研究所のキーパーソンは、ワクチンの開発を含むポリオ研究のための資金をこのように管理しました。
第二次世界大戦中、ロックフェラー研究所に在籍中、ヘンリー・クムはアメリカ陸軍のコンサルタントであり、イタリアでのフィールドスタディを監督しました。そこでクムは、ローマとナポリの近くの湿地で発疹チフスやマラリア蚊に対するDDTの使用に関するフィールド研究を指示しました。 DDTは、1940年にスイスの製薬会社Geigyとその米国支店によって殺虫剤として特許を取得し、1943年にシラミ、蚊、その他多くの昆虫に対する一般的な消毒剤として米軍兵士への使用を初めて承認しました。戦争が終わるまで、アメリカでのDDT生産のほとんど全ては軍に費やされた。1945年、化学会社は新しい市場を熱心に探しました。彼らはそれらを見つけました。
1944年初頭、アメリカの新聞は、発疹チフス、"歴史上のあらゆる大戦争の後、続いてきた恐ろしい疫病"が、陸軍の新しい"シラミ殺し"粉末DDTのおかげで、もはやアメリカ軍とその同盟国にとって脅威ではなくなったと、勝利を収めて報じた。ナポリでの実験では、アメリカ兵が灯油で溶解したDDTで100万人以上のイタリア人にほこりをまき散らし(!)、発疹チフスを広げた体のシラミを殺しました。ロックフェラー研究所のヘンリー・クムとアメリカ陸軍は、ある研究者が言ったように、「DDTは毒だったが、戦争には十分安全だった。DDTによって傷つけられた者は、戦闘で容認された死傷者となるでしょう。米国政府は、1944年に科学研究開発局が発行した殺虫剤に関する報告書を「制限」し、ヒトおよび動物におけるDDTの累積的な毒性影響について警告した。モリス・ビスキンド博士は1949年の記事で、「DDTは累積的な毒であるため、アメリカ国民の大規模な中毒が起こることは避けられない。1944年、米国国立衛生研究所のスミスとストールマンは、DDTの累積毒性に関する広範な研究の後、「DDTの毒性は、その累積的な作用および皮膚からの吸収性と相まって、その使用に明確な健康上の危険をもたらす」と指摘した。彼らの警告は高官によって無視された。
それどころか、1945年以降、アメリカ全土でDDTは、30年後のモンサントのグリホサートによるラウンドアップのように、奇跡の新しい「安全な」農薬として宣伝されました。DDTは人間に無害であると言われていました。しかし、政府の誰もその主張を科学的に真剣にテストしていませんでした。1年後の1945年、戦争が終わると、アメリカの新聞は新しいDDTを「魔法の」物質、「奇跡」として称賛した。タイム誌はDDTを「第二次世界大戦の偉大な科学的発見の一つ」と呼んだ。
テストされていない副作用、つまり食物連鎖に蓄積しやすい持続性で有毒な化学物質であるという孤立した警告にもかかわらず、米国政府は1945年にDDTを一般使用のために承認しました。ロックフェラー-AMA-薬物権益に支配されている食品医薬品局(FDA)は、食品中の最大7ppmのDDT含有量を「安全」と確立したが、誰もそのようなことを証明していなかった。DDTの化学会社は、写真や逸話で報道陣に情報を提供しました。新聞は、新しい奇跡の化学物質であるDDTが、マラリアを運ぶと信じられている南部の蚊に対して米国でどのようにテストされているかを熱心に報道し、「アリゾナのブドウ畑、ウェストバージニア州の果樹園、オレゴンのジャガイモ畑、イリノイ州のトウモロコシ畑、アイオワの酪農場を保存している」と熱心に報じました。DDTは1940年代後半にアメリカのいたるところにありました。
米国政府は、DDTは、戦前に使用されていたヒ素や他の殺虫剤とは異なり、人間、さらには乳児にさえ無害であり、自由に使用できると主張した。1945年からシカゴのような都市は公共のビーチ、公園、スイミングプールを散布しました。主婦は、キッチン、特に子供の部屋、さらには彼らのマットラスをスプレーするために、家庭用エアロゾルスプレーDDTディスペンサーを購入しました。農民は、作物と動物、特に乳牛にDDTを散布するように言われました。戦後、アメリカでは、DDTは、とりわけ、ブラックフラッグエアロゾルDDTスプレーを搭載したアメリカンホームプロダクツやモンサントのようなロックフェラー製薬会社によって促進されていました。1945年から1952年にかけて、DDTの生産量は10倍に増加しました。
1945年以降、ポリオの推定症例が文字通り米国全土で爆発的に広がったため、この壊滅的なポリオ病はDDTのような有毒な農薬ではなく、蚊やハエによって人間、特に幼児や乳児に伝染したという理論が、何の証拠もなく進められました。DDTは、悲惨なポリオから家族を安全に守ることができるというメッセージでした。公式にリストアップされたポリオ症例は、米国でDDTが民間で使用される前の1943年の約25,000件から、ピーク時の1952年には280,000件を超え、10倍以上に増加しました。
1945年10月、ロックフェラー研究所のヘンリー・クムの監督下で米軍によって使用されていたDDTは、蚊やハエに対する殺虫剤としての一般的な使用のために米国政府によって承認されました。人間と動物におけるDDTの毒性作用を警告する反対意見のある科学者は沈黙させられた。家族は、DDTが恐れられている昆虫を殺すことによって、恐ろしいポリオから子供たちを救うことができると言われました。
米国農務省は、蚊やハエと戦うためにDDTの解決策で乳牛を洗うよう農家に助言しました。トウモロコシ畑には、果樹園だけでなくDDTも空中散布された。しかし、それは信じられないほど持続性があり、植物や野菜に対するその毒性作用は洗い流すことができないほどでした。1945年から1952年にかけて年々、米国全土に散布されたDDTの量は増加しました。特に、ポリオのヒト症例の数もそうでした。
最悪のポリオの流行
1950年代初頭までに、米国議会や農民の間では、DDTだけでなく、さらに有毒なBHC(六塩化ベンゼン)など、このような重い農薬使用の危険性についてますます注目が集まっていました。1951年、数百人のDDT中毒患者の治療に成功した医師のモートン・ビスキンドは、麻痺性ポリオと毒素、特にDDTとBHCとの関連の可能性について米国下院に証言しました。彼はこう記している。
「殺虫剤「DDT」(クロロフェノタン)の公衆による制御されていない一般使用のための導入とそれに続く一連のさらに致命的な物質は、歴史上以前の対応物を持っていません。疑いもなく、人類が知っている物質の中で、これほど急速に発達し、これほど短期間で地球のこれほど広範囲に無差別に広がった物質は他になかった。DDTが一般向けにリリースされた時点で、この薬剤が多くの異なる種の動物にとって非常に有毒であり、体脂肪に累積的に貯蔵され、牛乳に現れたことを示す大量のデータが医学文献ですでに利用可能であったため、これはより驚くべきことです。この時、ヒトにおけるDDT中毒のいくつかの症例も報告されていた。これらの観察は、ほとんど完全に無視されたり、誤解されたりしました。
ビスキンドはさらに1950年後半に議会で証言し、「昨年初め、私は人間のDDT中毒に関する一連の観察を発表した。先の大戦の直後から、全国の医師が多数の症例を観察し、その中でも最も顕著な特徴は胃腸炎、持続的に再発する神経症状、極端な筋肉衰弱であった。彼は、DDTおよび関連する毒素への曝露が排除されたときに麻痺を含む重篤な症状が消失した患者のいくつかの症例例を説明した:「私が昨年初めに報告した200以上の症例に関する私の元の経験は、それ以来かなり延長された。私のその後の観察は、DDTが他の方法では説明できない人間の障害の多くに責任があるという見解を確認しただけではありません。また、ポリオの症例が最も多かったのは、昆虫に対するDDT散布が最大だった夏季であるという事実も指摘されました。
ロックフェラー研究所の工作員とAMAは、米国政府のエージェントを通じて、ポリオと呼ばれる1946-1952年の米国の健康緊急事態を作成しました。彼らは、恐れられている病気の神話上の昆虫拡散者を制御する安全な方法として、毒性の高いDDTを故意に宣伝することによってそうしました。彼らのプロパガンダキャンペーンは、DDTがポリオの蔓延を止める鍵であるとアメリカ国民を納得させた。
ポリオは突然減少
ロックフェラー研究所の二人の医師、ヘンリー・クムとトーマス・リバーズの指導の下、国立乳児麻痺財団(NFIP)は、ビスキンドやスコービーのような批判者を拒否した。乳児の麻痺にビタミンCを静脈内投与するなどの自然療法治療は、「クソ」として手に負えないほど拒否されました。1953年4月、ロックフェラー研究所のDDTコンサルタントを率いるヘンリー・クム博士がNFIPのポリオ研究ディレクターに就任しました。彼はジョナス・ソークのポリオワクチン研究に資金を提供しました。
ノースカロライナ州の勇敢な医師の一人、フレッド・R・クレンナー博士は、化学と生理学も学を学んでいたが、彼の患者が毒素中毒の犠牲者であり、ビタミンCが強力なデトックスであるという仮説に基づいて、大量の静脈内アスコルビン酸(ビタミンC)を使用するという考えを持っていた。これは、1949年から1951年にかけての夏の流行で、ライナス・ポーリング博士のビタミンC.クレンナーのノーベル賞研究が数日以内に200人以上の患者に対して目覚ましい成功を収めるずっと前のことでした。ロックフェラー研究所とAMAは、改善の見通しには興味がなかった。彼らとロックフェラーが支配する国立乳児麻痺財団は、ポリオは伝染性ウイルスであり、環境毒の結果ではないという証明されていないフレクスナーの主張に基づいて、ポリオワクチン開発に資金を提供していただけです。
その後、1951年から1952年にかけて、ポリオの症例が史上最高潮に達したとき、何か不愉快なことが現れ始めました。米国でポリオと診断された症例数は減少し始めました。ポリオ被害者の減少は、国立財団とジョナス・ソークのポリオワクチンが一般向けに承認され、広く普及するずっと前の1955年まで、年々劇的に減少していました。
ポリオ症例が急激に減少する約1年前、乳牛がDDTの深刻な影響を受けていた農家は、米国農務省からDDTの使用を減らすよう勧告されました。1951年にDDTとポリオに関する米国上院の公聴会が公表されるなど、DDTが人間にとってどれほど安全かについての世間の懸念の高まりは、DDTが1972年まで米国で正式に禁止されていなかったにもかかわらず、1955年までDDT曝露の大幅な減少につながった。
いわゆる「ポリオ」の症例は、DDTの使用の減少と並行して、1952年から1956年の間に約3分の2減少しました。その減少からかなり後の1955年後半と1956年に、ロックフェラーが開発したソークポリオワクチンが、ラーグ・エ・ポピュレーションに初めて投与されました。ソークとAMAはワクチンにすべての信用を与えた。ソークワクチンの結果としての死亡と麻痺は、紙に書かれました。政府はポリオの定義を変更し、公的症例をさらに減らしました。同時に、急性弛緩性麻痺、慢性疲労症候群、脳炎、髄膜炎、ギランバレー症候群、筋硬化症など、同様のポリオ様脊髄神経疾患の症例が顕著に増加しました。
なぜそれが重要なのか
1世紀以上前、世界で最も裕福な男、石油男爵ジョン・D・ロックフェラーと彼の顧問のサークルは、米国と世界の他の国々で医学がどのように実践されていたかを完全に再編成し始めました。ロックフェラー研究所とサイモン・フレクスナーのような人物の役割は、目に見えない伝染性の無関係な細菌、ポリオウイルスが若者に急性麻痺や死さえも引き起こしたという主張をめぐる巨大な医療詐欺の発明を文字通り監督しました。彼らは、DDTやヒ素の農薬、あるいは汚染されたワクチン中毒からであろうと、この病気を毒素中毒に結びつけるいかなる努力も政治的に禁止した。彼らの犯罪プロジェクトには、AMAのリーダーシップとの親密な協力、新興医薬品産業の支配、医学教育が含まれていました。同じロックフェラーグループは、1930年代にドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所とアメリカ優生学協会でナチスの優生学に資金を提供しました。1970年代、彼らは、ロックフェラーの化学農薬会社のグループ、モンサント、デュポン、ダウによって開発された特許取得済みのGMO種子の作成に資金を提供しました。
今日、公衆衛生と医療産業複合体のこの支配は、デイヴィッド・ロックフェラーの弟子で優生学の擁護者、ビル・ゲイツ、WHOと世界のワクチンに関する自称皇帝によって行使されている。NIAIDの責任者であるトニー・ファウチ博士は、証拠なしにワクチンの義務を指示している。第二次世界大戦後のポリオウイルススキャンダルの背後にある詐欺は、Covid19からモンキーポックス、HIVまで、致命的なウイルスとされるものを次々に進めるために、今日、コンピュータモデルやその他の策略を使用して洗練されています。ポリオと同様に、これらのどれも科学的に分離されておらず、主張されている病気を引き起こすことが証明されていません。何一つ。今日、慈善団体を装った同じ非課税のロックフェラー財団は、COVID19の背後にある世界的な医療暴政と世界経済フォーラムの優生学アジェンダの中心にあります。彼らのポリオウイルスモデルは、彼らがこのディストピア的な医療暴政を作り出すのを助けました。私たちは「科学を信頼しなさい」と言われます。
F. William Engdahlは戦略的リスクコンサルタント兼講師であり、プリンストン大学で政治学の学位を取得し、オンラインマガジン「New Eastern Outlook」の独占的な石油と地政学に関するベストセラー作家です。

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