源氏物語と共に

源氏物語関連

伊勢集

2009-05-26 15:35:44 | 関連本

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いづれの御時にかありけむ。
大御息所(おほみやすんどころ)ときこゆる御局に、
大和に親ありける人さぶらひけり。
親いと愛(かな)しうして、男などもあはせざりけるを、
御息所の御せうと、年ごろ言ひわたりたまふを、しばしはさらに聞かざりけるに、いかがありけむ、親いかが言はむと嘆きたりけるを、
年頃へにければ聞きつけてけり・・・ (伊勢集)




新インフルエンザ騒ぎも少し通常になり、本を返した図書館で
清水好子「王朝女流歌人抄」新潮社 を見つけました。
 
最初の「伊勢」の所に、
この伊勢集の最初の文は源氏物語冒頭文に似ている、
源氏物語「桐壺」の冒頭文は、
この伊勢集の文を念頭において書いたと指摘されていましたので、
驚いてこの本を借りてみました。



いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらふなかに、
いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり・・  (桐壺)




くらべてみると、本当に似ています。


私は伊勢というと、歌人というぐらいしか名前を知りませんでしたので、
この本で色々と勉強をさせてもらいました。


冒頭文はすなわち、まずその女主人公の親について述べ、素性を明らかにし、
その半生を語る古代物語の発端形式をふまえている。
それを意識して紫式部も同様に源氏物語冒頭文を書いたという事でした。


伊勢は宮仕えに出た時に、
父・藤原継蔭が伊勢守だった事から、名前をそう呼ばれます(父は後には大和守)
伊勢はだいたい9世紀末頃の人。


伊勢集の成立はいつごろなのでしょう。


勅撰の古今和歌集と区別して、
伊勢集などの「家集」(現在では「私歌集(しかしゅう)」と呼ばれるようになった)は、
平安中期ごろから流行し、
後期には三十六歌集などが編まれるようになったそうです。


伊勢集は1110~1113年頃頃成立された西本願寺本三十六人集の中にあり、
現存の諸本の中では書写時代が最も古いそうです。


しかし、すでに1005年頃成立の拾遺和歌集に
伊勢の娘「中務」と村上天皇(946~967)との伊勢集に関するやりとりがあることから、成立はそれ以前といわれています。


883年に在原業平の「伊勢物語」で有名な二条の后(藤原高子)が生んだ清和天皇の第一皇子・陽成天皇が、
宮中で乳母子を殺すという大事件が起こりました。


それで急遽、天皇が高齢ながら55歳である光孝天皇となり、
3年で崩御後、その第7王子・宇多天皇(887~)となった
その後宮に入った藤原基経の娘温子(おんし)(当時17歳か?)に
伊勢は仕えたそうです。


伊勢の生没年は不明。
宮仕え後、温子の3歳下の弟・藤原仲忠に愛され、
2歳年上の兄時平とも恋の贈答があることから、
温子と伊勢はほぼ同年かと清水氏は指摘。


また後に宇多天皇の寵を受けて皇子を産みます(896年頃か?)
色好みで有名な平中とも呼ばれた平貞文(さだふみ)にも思いを寄せられという大変魅力的な歌人のようです。


温子は体が病弱で内親王を1人生んだものの、
体の弱い温子にとって、身分の低い伊勢はライバルにはならず、
温子は幼い皇子を桂の宮に置いてきた伊勢の心情を思いやる歌を伊勢に贈るという
今では信じられないような主従関係のようです・・^^;


その皇子も幼くして夭折。温子も早くに亡くなり、
宇多天皇崩御後はその息子・敦慶親王(10才年下)との間に、
女流歌人として名高い中務を生むという驚くべき女性です@@


和泉式部や「とはず語り」の二条も真っ青?(笑)
源氏物語では、朧月夜を思い出しますが、
伊勢をも頭に描いて紫式部は源氏物語を書いたのかもしれません。


伊勢の時代にも「伊勢物語」は有名で、
「伊勢集」の恋の贈答には伊勢物語の歌を踏まえて和歌のやりとりがあります。


源氏物語には、この「伊勢集」からの影響もあるようです。


和歌の教養が大切だった時代、
枕草子でも古今集を全部暗記していた女御が寵愛を得たとする記述がありましたが、歌は貴族にはなくてはならないもの。
伊勢も歌人として大変優れていたのでしょう。


また、温子は庭の花を愛でたり、屏風絵を好んだという事です。
前栽の花が散ってしまいますよ、早く帰っていらっしゃいという
温子と伊勢との歌のやりとりもあります。


展覧会でよく見る屏風絵ですが
色紙絵の中に書かれた花なり人物の絵を、
その描かれた状況の心情で歌に詠むという遊びだそうです。


女同士のやりとりでも男とのやりとりのように見せたり、
男側の気持ちになって女が歌をよむといったような
非常に高度な和歌の遊びだったようです。
物語絵巻のはじまりだったかもしれませんね。


優雅というか・・庶民はバタバタと疫病にかかっていた時代に(ーー゛)と、
私はいつも庶民のひがみ根性が出てしまいます・・(^^ゞ


この本には他にも
斎宮女御徽子(きし)女王・和泉式部・道綱母・赤染衛門・清少納言が載っています。


歌の行間のなかに含まれた意味も勝手に想像出来そうです。


ちなみに先ほどの温子は、
宇多天皇の皇子の母(藤原胤子)が早く亡くなったこともあって、
早くから新帝となった皇子の母の立場でした。


源氏物語に語られる藤壺と光源氏のような関係。
実際に宮中であったのかどうかそれはわかりませんが、
何か伝えるものがあったのでしょう。


紫式部が仕えた彰子も、亡くなった定子の息子敦康親王を
幼い時より引き取っていましたが、
敦康亡き後に、その娘を自分の次男と結婚させています。


本名も出没年もはっきりわからない平安時代の女性達がどう生きたか。
行間のなかに含まれた意味やその生きざまも勝手に想像して
生きたあかしを見つめるのも楽しいかと思います。


新インフルエンザ騒ぎで大変ですが
皆様くれぐれもお気をつけください。


画像は「しのぶれど」という名前のバラ。植物園に飾ってありました。
 「忍ぶれど色に出にけりわが恋は
   ものや思ふと人の問ふまで  平兼盛」 よりネーミングのバラです。
「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
         ひと知れずこそ思ひそめしか  壬生忠見」


村上天皇の天徳内裏歌合の時に優劣がつかず、
天皇の判断で勝ったしのぶれどの歌。
壬生忠見がこの事でガッカリして後に死んでしまった話は有名ですね。


「しのぶれど」は、欲しいバラの一つなのですが、
相手を犠牲にするのは好みません(笑)
バラの美しい季節です♪
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