【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ゼカリヤ書13章

2021年01月04日 07時52分03秒 | 小預言書
ゼカリヤ書13章 主は私の神
おはようございます。イエスもまたこの箇所をメシヤ預言として明確に引用しています。イエス及び初代教会の動きを重ねて読む時に、よく理解できる内容です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.悔い改めと聖め
 ザカリヤ書9章からの後半は、本来、当時の時代の人々への預言でありながら、メシヤ預言が散りばめられた今日的な預言として読んでいくことが可能で、そのように読む時に、また理解が深まります。つまり1節の、開かれたきよめの泉は、前章の12:10と無関係ではありません。いわゆる悔い改めの嘆きに基づき、罪と汚れのきよめが起こることを言っています。ヨハネは、既に、このザカリヤ書を引用して、イエスの十字架の死について語っていますが(ヨハネ19:37)、この泉は、明らかに、イエスが注がれる永遠のいのちの恵みを語るものでしょう(ヨハネ7:38)。ペンテコステの祭りの際に、ペテロは、すべての人々がイエスを十字架につけたことを認め、悔い改めるように勧め、聖霊が与えられ、大いなる聖めが起こった歴史的出来事に重ねられるものです(使徒2:38)。
 ゼカリヤは言います。2節、その聖めは偶像崇拝から解放だ、と。迷信的、呪術的信仰から解放されて、健康的な信仰へと引き上げられるのです。たとえば、ある預言者は、自らの偽りを悔い改め、もはやさも自分が預言者であるような装いをして人を騙すようなことはしなくなります(4節)。しかし、偽預言者の印は消し難く(1列王18:28)、体の打ち傷を見つけられて問われると、自分はそんな仕事はしていなかったし(5節)、この傷は友につけられたものだと苦しい言い訳をするようになります(6節)。つまり、聖霊の恵みが注がれた新しい時代においては、偽預言者は一掃されるのです。ここは、魔術を行っていた者たちが書物を焼き捨てたエペソでの悔い改めを思い起こすところです(使徒19:19)。
2.散らされる
さて、7節は、キリストによって引用されたメシヤ預言です(マタイ26:31、マルコ14:27)。キリストを打った剣は、弟子たちを散らす結果になりました。ただ、この7節が、どうして前章の10節、突き刺した者と結びつくのかはよくわかりません。イエスの解釈をよしとするまででしょう。しかしイエスの解釈に沿うなら、8節は、使徒の働きに記録された、初期キリスト者の迫害に重ねて読み理解できるところです。エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こった時に、使徒たち以外の者はみな、エルサレムの外へと散らされ、彼らは悩みの炉で試されたのです(使徒8:1)。つまり、散らされることが起こるが、残される者もあるということなのです。これは、AD70年のローマ将軍ティトウスによるエルサレムの破壊とユダヤ人の迫害、さらには、未来的な試練と取る説もありますが、大切なのは、「銀を練るように彼らを練り、金を試すように彼らを試す」(9節)とあるように、神の聖めの目的にかなった試練が、キリスト者を襲ったと理解すべきところです。後にヨハネは、黙示録でこのイメージを用いて、終末の災いを解き明かしているようです。しかしそれは、恐怖を与えるためではなく、希望を与えるため、真の信仰に立つ残される者が守られることを示すためです。「主は私の神」と告白する者として今日も歩ませていただきましょう。

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