歴史とドラマをめぐる冒険

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本能寺の変・もし織田信忠が生き残っていたら。

2021-03-31 | 織田信長
織田信忠は織田信長の嫡男で「本能寺の変」で亡くなりました。25歳でした。母は生駒吉乃とされてきましたが、異説もあるようです。

彼は既に織田家の家督を譲られていました。岐阜城主です。天下人としては織田信長が権力を握っていましたが、岐阜城主としての織田家は既に信忠のものでした。

「愚か者」という逸話はありません。それどころか武田家を滅ぼしたのは彼です。武田は裏切りによって自壊していった感もありますが、とにかくその時の大将は信忠です。普通以上の才能を持っていたと考えていいと思います。

そこで「織田信忠が生き残っていたら織田家の天下は続いていた」という説になっていきます。織田家は、まだ「全国制覇」はしていませんが。

本能寺「光秀突発的単独犯行説」が出るのは「たまたま織田信忠が京都にいた」からです。この時の京都滞在は比較的急な決定でした。だから「信長を殺すだけではだめだ。信忠も殺さないといけない。しかし信忠の京都滞在を予想はできなかったはずだ。たまたま信忠が京都にいたから、光秀は突発的に行動したのだろう」となります。目の前に「天下人と後継者が無防備でいる」ことが、光秀の心を動かしたというわけです。

「単独犯行」に異を唱える気はありません。しかし「信忠死亡が必須」だったかについては多少意見が分かれるところです。

例えば池上裕子さんは2012年の信長伝記(大変話題となり、支持者が多い本です)で、信長の欠点を中心にして伝記を書きました。伝記なのに容赦なしです。その中で信長はあまりに自分に決定権を集中しすぎた。ワンマンにも限度があるだろというようなことを書いています。そして「信忠では難しい」とします。政治システムを整えなかった信長は、絶対的な力で家臣を統率した。しかし信忠にその絶対的な力は期待できない。と、していたと思います(ややうろ覚えです)

その他にも多くはないですが「信忠が生きていても重臣を統率できない」と指摘する方は何人かいます。

徳川秀忠は徳川の「二代目」です。優秀な人ですが、それでも徳川家康は「誰が継いでも成り立つシステム」を考えました、重臣らによる集団運営システムです。それに対して、豊臣秀吉は「なんらかの理由」で、システムを構築できませんでした。二代目の秀頼はシステムの上に座ることはできなかったのです。信忠もシステムの上に乗ることは難しかったと考えられています。システムがないのか、本能寺の変で多くが死んだためシステムが崩壊したのか、それは考えるべき点ではありますが。

明智光秀も「信忠死亡が必須」とは考えていなかったのではないか。その傍証となるのは「信忠襲撃の遅れ」です。逃げられる可能性があったし、実際、現場にいた織田有楽は逃げ延びています。

信忠が京都を逃げ延びたとします。西に向かうと大坂です。そこには丹羽長秀と織田信孝の軍がいます。兵が逃げて兵数は減っていましたが、一応軍がいます。ここで兵を募ると、摂津の領主たちが参加する可能性があります。1万ぐらいには回復したかも知れません。東に向かうと伊勢、安土です。次男の信雄がいます。兵はあまり持っていなかったようで、信雄は光秀討伐軍に参加していません。そのまま岐阜に向かうということになるのでしょうか。

摂津に行き、兵を募っているうちに羽柴秀吉が到着する。すると自然と大将は信忠になります。史実として三男信孝は大将になれませんでしたが、信忠は織田家当主ですから格が違います。

そのまま織田権力の継続。とりあえずはそうなるでしょう。しかし強大な主君におさえつけれていた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、これらの「くせ者」を信忠が信長なしに統率できるのか。少なくとも、織田家の家督を実質的に継いだ織田信雄は統率できませんでした。といって殺されることもなく、大名を続けますが、小田原攻めのあと改易です。ただししぶとく織田の血脈は残します。

「織田信忠が生き残っていたら豊臣政権はなかった」、、、一概にそうは言えないと考える学者さん。多くはないが存在します。

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