純粋に歴史学の話である。ドラマの話はほぼない。
「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。
時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。
国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。
国衆史観によれば、戦国の最小社会単位は「村」であり、人々は「村」に所属することで生存可能であった。「村」も自立的傾向が強い集団である。武装もしていた。決して弱い民などではない。いくつかの村の集合体が「領域」である。国衆と「村」の関係は、互恵的関係とされる。「村」は国衆に税を納める。その代わり国衆は村を守る。村の平和を守る権力こそ「国衆権力」とされる。「村」の敵は「村」である。この村の間の紛争を収めることが国衆の主な義務であった。
国衆は自立的存在だが、近隣に他の戦国大名の「連合体」があった場合、武力的には相対的に弱い立場となる。そこで国衆は他の戦国大名と連合することで「別の連合体」を形成する。それは契約に近い関係で、ここでも互恵的関係が成立していたとされる。つまり国衆は戦国大名の軍事的動員に応じる。その代わり戦国大名は国衆および国衆が治める村の「平和」を守る義務を負った。この義務が果たせない場合、契約は無効となり、国衆が「他の大名連合」に属するのを阻止することはできなかった。
徳川家康は岡崎に入城した時はまだ三河を平定しておらず、国衆だったとされる。彼は国衆として「今川連合」に属して、「織田連合」と戦っていた。今川と織田の境界に位置していたからである。このような境界では「今川連合の村」と「織田連合の村」の紛争が絶えなかった。その背後には飢餓があった。村の紛争を収めるのは国衆の役割であり、松平は織田と戦って「村の平和を守る」義務を負っていた。織田側も「織田連合の村」を守る義務を負っていた。しかし織田という大名との闘いは松平にとっては不利であった。国衆だからである。従ってそれは今川と織田との戦争に直結する「はず」であった。しかし今川は多方面で戦っており、松平に割く余力がなかった。ここで今川と松平の「契約」は無効になる。そして松平は「織田連合」に属することで、領域、「村」の「平和」を守った。
さて、この考えは合理的だろうか。私にはいろいろ疑問がある。まずイメージだけで書くなら「あまりにも調和的」である。「権力とは平和を守るもの」とされる。警官がいれば秩序は守られるから、権力に平和をもたらす側面はあるだろう。しかしそれだけが権力の特性だろうか。「国衆」は「いい権力」であり、「村」との合意に基づいて平和を守っているのだろうか。
唯物史観的歴史学は権力を基本的には「良くないもの」とする「傾向」があった。そして「民」を善とする傾向もあった。しかしそれはあくまで「傾向」であり、権力=悪という単純な二分法をとっていない。唯物史観に対抗して、唯物史観を無効化することに努めた国衆史観は、権力を「基本的に良いもの」と考えている。戦争は「村=民」が起こすとも考えているようである。それは正しいのであろうか。
A・戦国大名が戦を起こして民が巻き込まれた。
B・村と村が紛争を起こして、民が紛争を起こして、国衆や戦国大名が巻き込まれた。
Bが国衆史観の歴史観なのであろうか。だとするとただ民の位置を「入れ替えただけ」の図式的思考に思えて仕方ないのである。
私に答えはない。ただ「権門体制論」(黒田俊雄のオリジナル理論ではなく、現代の亜流権門体制論)と同じ、予定調和的歴史観に見えて仕方ないのである。「鎌倉殿の13人」は武士の本質、権力の本質を「暴力」と考えていた。一般には暴力の対極に「法治国家」があるとされる。しかしそれは正しいであろうか。種を明かせばこれは私の考えではない。村井良介さんが「戦国大名論」で投げかけている「法と暴力は対極にあるのか」「合意の背景に暴力的優位性の差は存在しないのか」「暴力が露わでなくとも。潜在的に暴力(強制力)がない法に実効性はあるのか」という問いをパクっているだけである。しかもちゃんとパクれているかも分からない、しかしパクるとは一種の同意であって、私もまたそう思うのである。
繰り返すが私にまだ回答はない。ただ国衆史観(私の上記のまとめに間違いは多いだろうが、私は上記のように理解した)をそのまま受け入れることは、私個人に関して言えば、保留せざるを得ないのである。
「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。
時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。
国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。
国衆史観によれば、戦国の最小社会単位は「村」であり、人々は「村」に所属することで生存可能であった。「村」も自立的傾向が強い集団である。武装もしていた。決して弱い民などではない。いくつかの村の集合体が「領域」である。国衆と「村」の関係は、互恵的関係とされる。「村」は国衆に税を納める。その代わり国衆は村を守る。村の平和を守る権力こそ「国衆権力」とされる。「村」の敵は「村」である。この村の間の紛争を収めることが国衆の主な義務であった。
国衆は自立的存在だが、近隣に他の戦国大名の「連合体」があった場合、武力的には相対的に弱い立場となる。そこで国衆は他の戦国大名と連合することで「別の連合体」を形成する。それは契約に近い関係で、ここでも互恵的関係が成立していたとされる。つまり国衆は戦国大名の軍事的動員に応じる。その代わり戦国大名は国衆および国衆が治める村の「平和」を守る義務を負った。この義務が果たせない場合、契約は無効となり、国衆が「他の大名連合」に属するのを阻止することはできなかった。
徳川家康は岡崎に入城した時はまだ三河を平定しておらず、国衆だったとされる。彼は国衆として「今川連合」に属して、「織田連合」と戦っていた。今川と織田の境界に位置していたからである。このような境界では「今川連合の村」と「織田連合の村」の紛争が絶えなかった。その背後には飢餓があった。村の紛争を収めるのは国衆の役割であり、松平は織田と戦って「村の平和を守る」義務を負っていた。織田側も「織田連合の村」を守る義務を負っていた。しかし織田という大名との闘いは松平にとっては不利であった。国衆だからである。従ってそれは今川と織田との戦争に直結する「はず」であった。しかし今川は多方面で戦っており、松平に割く余力がなかった。ここで今川と松平の「契約」は無効になる。そして松平は「織田連合」に属することで、領域、「村」の「平和」を守った。
さて、この考えは合理的だろうか。私にはいろいろ疑問がある。まずイメージだけで書くなら「あまりにも調和的」である。「権力とは平和を守るもの」とされる。警官がいれば秩序は守られるから、権力に平和をもたらす側面はあるだろう。しかしそれだけが権力の特性だろうか。「国衆」は「いい権力」であり、「村」との合意に基づいて平和を守っているのだろうか。
唯物史観的歴史学は権力を基本的には「良くないもの」とする「傾向」があった。そして「民」を善とする傾向もあった。しかしそれはあくまで「傾向」であり、権力=悪という単純な二分法をとっていない。唯物史観に対抗して、唯物史観を無効化することに努めた国衆史観は、権力を「基本的に良いもの」と考えている。戦争は「村=民」が起こすとも考えているようである。それは正しいのであろうか。
A・戦国大名が戦を起こして民が巻き込まれた。
B・村と村が紛争を起こして、民が紛争を起こして、国衆や戦国大名が巻き込まれた。
Bが国衆史観の歴史観なのであろうか。だとするとただ民の位置を「入れ替えただけ」の図式的思考に思えて仕方ないのである。
私に答えはない。ただ「権門体制論」(黒田俊雄のオリジナル理論ではなく、現代の亜流権門体制論)と同じ、予定調和的歴史観に見えて仕方ないのである。「鎌倉殿の13人」は武士の本質、権力の本質を「暴力」と考えていた。一般には暴力の対極に「法治国家」があるとされる。しかしそれは正しいであろうか。種を明かせばこれは私の考えではない。村井良介さんが「戦国大名論」で投げかけている「法と暴力は対極にあるのか」「合意の背景に暴力的優位性の差は存在しないのか」「暴力が露わでなくとも。潜在的に暴力(強制力)がない法に実効性はあるのか」という問いをパクっているだけである。しかもちゃんとパクれているかも分からない、しかしパクるとは一種の同意であって、私もまたそう思うのである。
繰り返すが私にまだ回答はない。ただ国衆史観(私の上記のまとめに間違いは多いだろうが、私は上記のように理解した)をそのまま受け入れることは、私個人に関して言えば、保留せざるを得ないのである。
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