歴史とドラマをめぐる冒険

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足利義昭追放後の織田信長、足利義尋のことなど

2020-06-13 | 麒麟がくる
織田信長が室町幕府の存続を「それでも望んでいた」か。それなりに難しい問題だと思います。面白い問題だとも思います。武将には「戦略」があります。平気で嘘もつきます。どこまでが戦略で、どこからが嘘・真実なのか。もしかしたら信長本人だってその明瞭な境目がなかったかも知れません。

結果として分かっている信長の行動は「鞆幕府は存続したとしても、京都において存続はさせなかった」ということです。1573年の足利義昭追放の時、その子足利義尋を人質にとっています。人質じゃないかも知れない。将軍候補かも知れない。でも結局は将軍としてたてなかった。立てるつもりがあったかという問題は先述の戦略問題があるので分かりません。立てようと思えば立てることもできたかも知れない。でも立てなかった。その「信長の実際の行動」が全てです。足利義尋さんは興福寺の大僧正として生を終えたようです。

昨日、谷口克広さんの「織田信長の外交」って本を読んでいました。義昭さん追放後すぐに、毛利と織田の間で「義昭の帰京」に関する交渉がありました。足利義尋さんについては本書では触れていません。

「毛利家文書」などによれば、秀吉が担当していた。日乗が毛利側で担当したようです。で、信長も一旦は帰京を承諾した。1573年7月の追放後すぐのことです。

信長は足利幕府を数年は存続しようとしていた可能性があります。しかし義昭自身が帰京を承諾しなかった。「信長のいない京都ならいい」と谷口さんは書いています。

しかしなお交渉は続くのですね。同じ1573年のことです。秀吉、安国寺恵瓊、日乗らによって。

かなり詳細な文章が「吉川家文書」に残されているようです。

ここでも信長・秀吉は帰京を承諾しているのです。しかし「義昭が信長に人質を要求」します。あきれた秀吉は「将軍は行方知れずになったようだ。と信長様に報告しておく。さっさとどこへなりとも行かれるとよろしかろう」と宣言して、大坂に帰ってしまいます。

信長はこのことを伊達輝宗に「紀州の熊野あたりに流れ落ちているのだろう」と書状を送ります。、、と谷口さんは書いています。

義昭が条件をつけずに帰京していたら、足利幕府は京都で数年存続した可能性があったわけです。しかし信長には人質を出してまで存続させる気も必要もなかった、ということになります。谷口さんの文章では「冷たくつきはなした意識」。義昭さんの息子の足利義尋さんは出家して、僧となったようです。

「どうしても信長は足利幕府を存続させたかったことにしたい」ならそう解釈することは可能でしょう。「したかったかどうか」の問題です。解釈するのは自由です。人の心はわかりませんが、解釈するのは面白いし、推論も楽しい。

信長は室町幕府を京都においては存続させなかったのです。だから「存続させない」という意識、気持ちは必ず存在します。実際にそう行動しているからです。一方「存続させたかったけど、できなかった、しなかった」という場合は「推論」になります。根拠としては脆弱です。脆弱な根拠を持って、実際の事実を否定するかの如き論法を組み立てる、それは室町権威に対するイデオロギーが先行した論法で、科学的とは言い難いでしょう。

信長が室町幕府システムをどう考えていたか。色んな人が色んなことを言ってます。私は日本史のド素人で、「学会の多数が」とか「学会の大勢が」とかには幻惑されません。信長論のように意見が対立する問題に関しては「多数決の論理」はさほどの意味はない。基本的には多数派は合っています。しかし戦国期に関してはそうはならない。もちろん私は「教科書はやはり間違っていた派」でもありません。ほぼ間違ってないと思ってます。でも、とにかく自分の頭で考えたいと思っている人間です。あくまで楽しい趣味として。

私はこのブログで何回か書いてますが、織田信長のことを「朝から晩まで改革を考えていた伝統無視の革命児」なんていう気は全くないのです。そんな人間いるわけない。みんな「現実とのおりあい」の中で思考して生きています。

ただ実際の行動としては義昭さんを帰京させることもなかったし、その子を将軍として擁立することもなかった。「しなかった」のです。それが全てだと私はそう考えます。

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