歴史とドラマをめぐる冒険

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天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

2022-12-04 | 麒麟がくる
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。

誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。

私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。

それでもこだわるとすると

・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。
・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したのか。中世の言葉である。
・言葉には「広義と狭義」がある。
・言葉が「新しい意味を獲得」したとしても、「古い意味」(古義)は残る。ヤバイは今でも「危険」という意味を持っている。「危険なほど素晴らしい」と両立する形で意味を保っている。

2014年あたりからの「信長は普通の人だブーム」の中で「天下布武」の「解釈変更」が行われましたが、定説にはほど遠い現状です。素人が考えても「言葉遊び、ただの解釈変更」に過ぎないことは歴然としているからです。

織田信長の発行文章を読むと、なるほど「天下を畿内の意味で使っている用法」は多くあります。特に上洛以前、直後ですね。信長だって上洛以前から「日本全土を統治してやるぜ」なんて考えていません。
その意味では「天下布武」はただのスローガンであり、「あれは看板に過ぎないから」と信長に聞けばそう答えるでしょう。

ただ信長も後期になると「天下を自らの支配地域の意味、または将来自分が統治すべき支配地域の意味」として使っていきます。「天下の概念が変化する」というより、狭義に重きを置いていたものが、広義に重きを置くようになります。もともと畿内、日本という両義性を持った言葉です。

信長の支配地域は日本の半分程度ですが、将来支配しようと頭で思っている領土には「九州、東北、四国」が加わります。となると晩年における信長の「天下」とは「初期の畿内ではなく、日本全土」ということになるのです。

江戸時代、天下はいうまでもなく「日本全土」でした。もし仮に、信長以前においてそれが畿内だったとしても、30年の間に意味は「広義」に重点が徐々に移行し、「日本全土を指すようになった」、その変化を推進したのは信長、秀吉、家康ということになるでしょう。「天下は天下の天下なり」、家康の言葉かどうか分かりませんが、江戸期には存在した言葉のようです。「畿内は畿内の畿内なり」ではありません。天下の意味は信長の時代から「天下人の支配領域の拡大に伴ってだんだんと広義で使われるように変化していった」。そう考えるのが合理的です。

信長は「自分の支配領域を全て天下と呼び、将来支配を狙っている領域も天下と呼び」ました。と私は思っているのですが、最近、信長を考えていないので、なんとか検証してみたいと思っています。

芸人の永野の「クワバタオハラがおったらそこは大阪や」というギャグをご存じでしょうか。あれに着想を得て書きました。「信長が支配していたらそこが天下や」「徳川が支配していたらそこが天下や」ということになります。

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