歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・感想

2021-02-07 | 麒麟がくる

1,光秀はどうやって麒麟を呼ぶのか。

信長を殺すこと、で、です。これに尽きます。信長では太平の世は来なかったという考えに基づいています。本能寺の後は、作中ではほとんど描かれません。私はどうやって「光秀が麒麟を呼ぶことにするのだろう」とずっと考え続けていたのですが「信長を殺せば自然とそうなる」ということでしょうか。史実的にもそれなりの整合性はあります。今は信長と秀吉の「連続」より「違い」を見る学説が多いからです。信長では太平の世は来なかった、、、とにかく信長を殺すことが平和への第一歩、、、信長ファンとしては悔しいですが、まったくの荒唐無稽ではありません。

2,帰蝶はどうなるのか。

わかりません。登場しません。岐阜で自決などせず、生きて生きて生き延びてほしいと思います。史実的にはわかりませんが、生きたという傍証はあります。確定した説ではありません。

3,十兵衛は亡くなるのか。天海となるのか。

わかりません。亡くなりはしません。天海にもなったとも明確には分かりません。生きているとも、死んだとも解釈できます。視聴者がどう想像してもいい、という仕組みになっています。

4,信長はどうして本能寺で「嬉しそうに戦う」のか。

信長、生き生きとしていました。相手が十兵衛だからです。また「これでやっと長く眠れる」という思いもあるようです。信長らしい立派な最期でありました。肩に矢がささる、銃で撃たれて、最期を迎える。フロイスの叙述にそっくりです。あまり矢を使わず、基本やり、なぎなたで戦う点もフロイス「日本史」の叙述通りです。

それにしてもノッブ(信長、初めてノッブと書きました)、強い。寝巻なのに、重武装に兵士を滅多斬りです。まったく文句も言わず「わしを焼き尽くせ」。
信長が抱えていた苦悩、自己破壊への憧憬が分かり、信長ファンとしては思わず涙です。実に素晴らしい「本能寺」でした。「国盗り物語」と並びました。
日本ドラマで表現された「すべての本能寺」を見ていると思いますが(実際は少しは抜けている)、高橋英樹版「国盗り物語」と並んで史上もっとも素晴らしい本能寺です。

5,史実との整合性はどうなったか。

それなりに保たれています。でもそういうドラマではないのです。「人間と人間の感情を描く」ドラマであって、史実を描くドラマではないのです。私もその点で間違っていて、「史実じゃない」と文句を沢山書いてきました。

6,黒幕は誰か

いません。が、一番そそのかしたのは「帝」です。でも最後は自信満々に「見守るだけぞ」と宣言します。「さすがバランスのとれた帝、武士なんて手のひらで思うがまま」と捉えるか「ちょっと待ってよ。あんだけ唆したのに」ととるか、それも視聴者次第です。私は後者です。「見守るだけなら、けしかけてはいけない」でしょう。まあでも最後は納得できる正親町帝でした。

7,秀吉に本能寺の変を知らせたのは誰か。

細川藤孝が「予想段階」で知らせています。光秀につかないどころか、秀吉に「準備しろ」と伝えます。秀吉は喜びます。「明智殿やればいい」とも言います。
秀吉も藤孝も、帝も、、、みんな「ずるい大人」なのです。その中で、信長と光秀のみが「大人にならない純粋な永遠のこども」です。
細川藤孝は十兵衛の遺志を継ぐため、生き残った説、見事にはずれました。

8,この作品の評価はどうなるのか。

真っ二つに分かれると思います。すでに「みんなの感想」では「史実を改変しすぎ、ファンタジー大河説」も出ています。私は「よくやった。この終わり方しかなかった」と思っています。「いいところも悪いところもあるが、いいところのほうがずっと多かった」と思います。けなす人がいても「それは自由」です。自分にとってどういう作品か、だけが大切だと思っています。私だって史実との違いはずっと文句を言ってきました。でも終わりよければすべてよしです。史実よりハッピーエンドが今の時代には必要です。幕末近代は歴史の改変は許せませんが、すべては400年前の出来事です。

勝海舟
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我にあずからず、我に関せずと存じそうろう。各人へお示しござ候うとも、毛頭、異存これ無くそうろう」。ほめるけなす、は他人のことです。

9、光秀はどうなるのか。

馬に乗って走りっていきます。これは大河「風と雲と虹と」へのオマージュです。「小次郎将門は死なない」とされました。「十兵衛光秀は死なない」がこのドラマの結末です。「風と雲と虹と」では最後に民衆が将門の「駒音、馬の音」だけを聞きます。そして言います。「やっぱり将門様は生きていた」。「麒麟がくる」の場合、最後に光秀の影を見るのは「お駒」です。
どうしてお駒はお駒なのか。「最後に光秀の駒音を見るもの」だからだと思います。私の二日前の予想は、このブログの一つ前にありますが、それだけは「当たり」ました。

個人的には本当に楽しませてもらったし、本能寺の信長は見事だったし、もう文句はありません。あとは時間をかけて、また考察を進めたいと思います。十兵衛光秀は死なないし、「どうする家康」はあるし、麒麟がくるも「さらに深く見ないといけないし」、信長光秀問題は永遠に終わりません。


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