歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。
今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。

佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のもと、公家・武家・寺社という3つの支配勢力が「対立をしながらもゆるく統合し、相互補完なども行っていた」とするわけです。それにしても「ゆるい統合」って、それって「分散」なんじゃないでしょうか?まあ権門体制論自体はかなり観念的な理論ですので、あまり深く研究されたようには思えないのですが「ゆるい国家的統合」「相互補完」という「結論」というか「言葉」が、特に京都大学方面の学者さんには好まれます。私は「権門体制論」ではなく「相互補完論」だと思っています。「はじめに相互補完ありき」という感じがします。なんでもかんでも「相互補完」。相互補完原理主義だと思えて仕方ないのです。それで黒田俊雄さんの「原文」を読んだのですが、やはり「相互補完」は権門体制論の「主題」ではないと思います。

とはいえ「統合か、それとも権力の分散か」は、中世や室町、戦国、江戸、そして現代を見る上で重要です。「権力の地方分散」「地方分権」は現代政治の問題でもあります。

日本史というのは律令国家ができた段階から、地方は国造に「まかせた」傾向が強く、その意味で、ずっと「権力が分散」している状態だったと考えられます。「室町幕府は中央集権がなっておらず、だらしない」と私はずっと考えてきました。でも「地方分権が常態」だったのですから、律令国家、王朝国家、鎌倉幕府、室町幕府における「権力の分散」は特にオカシイことでもないと思うようになっています。むしろ「天下統一」の方が異常であり、江戸幕府が「おかしい」のかも。まして近代・現代政府なんて「日本史の常態」からすると、異常過ぎる中央集権国家なのかも知れません。

律令国家は、大和政権が唐と戦って負けて、唐が攻めてくるという危機感のもと、各地の豪族が連合して作りました。近代国家ができたのは帝国主義の時代で、アヘン戦争を見た為政者たちが、このままでは日本は欧米の植民地になる、という危機感を持ち、その危機感を基礎として作られました。

しかし中世には、というか日本史には比較的「外圧」が少なく、結局「唐は攻めてこなかった」わけだし「欧米も日本を植民地にするうまみ」はあまり感じていなかったようです。でも「外国が攻めてくる」という危機感というか不安が、「国家的なもの」の建設の契機になるという法則はどうやら存在すると言っていいでしょう。しかし聖徳太子の時代から、鎌倉中期に至るまで、結局外圧らしい外圧は「ない」わけです。そして「モンゴル襲来」が起きます。それは「得宗専制」という中央集権の強化はもたらしましたが、そんなに大規模な戦闘を経ずに、形上は「勝って」しまいます。その後できた室町幕府などは「明」とせっせと勘合符貿易して仲良しです。結局、日本史には外圧らしい外圧がなかったわけで、そのせいで日本には「強い中央集権」が育ちませんでした。これは「幸福な歴史」だと思います。江戸幕府は秀吉の「唐入り」の後です。ただし、どこまで「外圧」(明が攻めてくる)意識があったかは、分かりません。

結論を書くと「日本史とは権力分散の歴史」が正しいと私は思います。しかしそれが「二つの国家」かというと、違います。「国家とは権力集中の総体」ですから、私の考えでは「二つの国家とも言えない、二つのゆるい権力体」があったのではないかと考えています。もちろん「奇説」であることは承知しています。

そこで「承久の乱」の問題となるのです。あれは「なんだった」のでしょうか。

京都の後鳥羽には「日本は一つ」「朝廷が正統国家」という天皇家家長としての自負はあったでしょう。しかし現実をちょっと見れば「ずっと地方は国司や在庁官人に丸投げ」の状態だったわけです。いまさら「強烈な中央集権国家」を作ろうと思うでしょうか。いや「作れる」と思うでしょうか。思うはずがない。もっとも「ゆるい中央集権国家」なら可能性はあるか。そこは今後考えます。

彼は非凡な才能を持っていたとされます。和歌や芸術に優れ、刀まで打てたという伝説があります。「おれはできる」と思ったでしょう。しかし「天下統一」的な夢想を抱くとは「優秀な人物なら」考えられないことです。優秀な人物なら、ちょっと現実分析すれば「不可能」とわかるはずです。そもそも権力の分散状態が「常態」だったわけですから。

とするなら「西国は朝廷を中心にゆるく連合し、東国は幕府を中心にゆるく統合していればいい」と考えたはずです。形式上は「幕府は、朝廷に従います」と言ってきているのだから、「面目」もすでに十分たっているわけです。「朝廷が日本の国家だ」と言っても嘘ではないのです。幕府が「私たちは朝廷の侍大将」と言っているのだから、実力が朝廷と匹敵していても、上回っていても、別にいいわけです。もちろん現実を完全に無視して「公家一統」のイデオロギーに完全に囚われた後醍醐のような人物なら話は違ってきます。でもあそこまで変わった人ではなかったように思われます。

そもそも「幕府あっての朝廷」です。「朝廷の根幹である荘園公領制の守護神」こそ幕府だからです。幕府も武士もいなくなったら、税金が入ってきません。

そのために「源実朝に箔をつける」ことが、後鳥羽にとって重要だったわけです。彼は実朝を可愛がり、せっせと官位を上げました。最終的には「右大臣」にまで昇進します。鎌倉御家人にとって大事なのは「鎌倉殿」であり、「右大臣」は「箔」でしょうが、「鎌倉殿は官職ではない」から授与できません。右大臣ならできます。

ところがその肝心の源頼朝が暗殺される。さて困った。幕府がなくなってしまう。荘園公領制が崩れてしまう。そこで彼は「幕府討伐」または「北条義時討伐」の命令を出します。

これがいかにも分かりません。なんでそんな馬鹿なことをする必要があったのか。そしてこれが説明できないと、私の上記の「奇説」は根底からひっくり返ります。まあ「もともとひっくり返って」いるのでいいのですけれど、、、、。

実は、こういう仮説、珍説を考えることで私は自分の歴史理解を深めたいと考えているのです。私の奇妙な「仮説」「奇説」が成り立つか。そのこと自体は本当はどうでもいいのです。さて後鳥羽の意図が説明つくか。それは今後考えてみたいと思っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿