歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・第十八回・「越前へ」・感想

2020-05-17 | 麒麟がくる
はぁー、光秀は信長に勝てないな、という回でした。ドラマの話ですよ。最後に信長が全部持って行ってしまった。それにしても冒頭で伊呂波大夫のかぶっている髪の「巻物」みたいのはなんなのだろう。あれじゃあ雨をしのげそうもないけどな。ミーシャがよく巻いてそうなやつだ。

1、信勝の暗殺

信長は柴田勝家に弟、信勝の二度目の謀反を告げられるわけですが、殺す気は最初はありません。で、帰蝶が「会え」とそそのかします。信勝はトコトコと「毒入り清涼水」を持ってやってきます。信長の迫力ある演技がなければ「なんで毒入り清涼飲料水やねん、信長が死んでも、結局信長の部下に信勝は殺されるやん」と突っ込むところですが、そういうツッコミを許さない緊迫感がありました。

信勝が持参の飲料水を飲まないのを見た信長は、そこで初めて殺すことを決心するという設定です。泣きながらです。ただ悲しくて泣いているのか、涙の意味がわかりません。この「わかりません」というのは「文学的だ」という意味です。色々と解釈可能です。信勝との決別、背後にいる母との決別、運命への怒り、母から解放される嬉しさ、悲しさ。帰蝶の持つ修羅心への悲しみ。などなど。

あとは信長はほぼ「飲め、自分で飲め」としか言いません。やっぱ信長は大スターだなと感じます。むろん染谷くんの高度な演技もあります。でも彼が「信長であること」がその演技をさらに大きく見せています。実に迫力あるシーンでした。信勝、木村了さんも最初はへらへらしてましたが、段々凄みのある演技になっていきます。

染谷くんの乾いた語り口と乾いた目(泣くけど)、そこからの激情的セリフ回し、とてもいいと思います。

これをやられたら越前に落ち延びて、ささやかな誇りと共に清貧の暮らしをしようとしている「美しい光秀夫婦」などは勝てるわけがない。いつ光秀に「凄み」が出てくるのでしょう。

多少、冷静に解釈をすると、この「麒麟の信長」は「いつもの信長の行動」を積極的・主体的にはやらないという設定です。「やむなくやった」「仕方なくやった」「我慢したけど限度があった」というパターンが採用されています。最近の信長論(わたしは不満ですが)がそういうことになっているのです。「天下統一戦さえ仕方なくやった」なんてことが堂々と言われて、「そうだそうだ」と同調する人も少なくありません。同調圧力の存在を感じます。比叡山の焼き討ちも「仕方なく」、足利義昭追放も「仕方なく」、一向一揆せん滅も「仕方なく」、でもなぜか「四国攻め」だけは「仕方なくではない」というのが金子さんあたりの考えです。わたしは不満ですけど、「そうだそうだ」という人は沢山います。私は勝手に「信長すごいぞ撲滅隊」と名付けています。別に私は研究者でも学者でもないのでこの「信長すごいぞ撲滅隊」と戦う気はないし、そんな力もありません。ただ素人の意見として「常識的に考えておかしーだろ、しかもただ今までの信長像を裏返しているだけだ。将軍を率いて上洛したのは信長のみ、しかも尾張半国から700万石以上だ。晩年は武田を滅ぼし、上杉もほぼ壊滅していた。統治形態が旧来と同じだから並みの大名なんてのは成立しない。もうちっとシンプルに考えてみようよ」と思うのみです。そういうこと言う学者がいないかと思ったら知る限り本郷さんぐらいです。援軍なしの孤高の戦いです。磯田さんは対応がうまくて、流行りの信長像を認めながら、それでも最終的には「すごいぞ」というところに「うまく」落とし込んでいきます。「普通の武将なのにこれをやったからすごい」とか。うまいけどズルい。あと藤田さんの立ち位置なんかも面白い。あっ、私は全くのド素人ですよ。批判されても「対抗」できませんよ。素人の「愚痴」みたいなもんです。

2、光秀

一般的には戦国武士には江戸武士的な誇りなんていう「余計なもの」「観念的なもの」はなくて、もっと現実的だと言われます。光秀だけがどうも江戸武士みたいで、やたらと誇りを口にします。どんな狙いなのか。それは最後まで見ないと分かりません。いつ見られることやら。とうとう「そもそも戦が嫌いだ」と言い出します。
金ももらわず、清貧の暮らしを選ぶようです。ユースケさんが「くれてやろうぞ」と言っているのだから、「くれるならもらってやろうぞ」ぐらいに受けてくれたほうが、人としての度量の大きさを感じるような気がしました。

光秀が「刀を振るシーン」があって、そこは流石でした。刀を振っているだけなのに「魅了して」くれます。カッコいいことはカッコいいのですが、まだ覚醒してない感じです。いやこのまま誇り高く生き、誇り高く滅んでいくのかもしれません。それでも、作品全体がとても面白いので、特に文句はありません。それにやっぱりなんか魅力的な男です。なんでだろう。

最近の大河の主人公は「あまり誇り高くはない」からかな。ちょっと分かりません。光秀の誇り高さはかなり古典的で、そういう古典的な点がむしろ新しさを感じさせるのかも知れません。

3、ユースケサンタマリアの朝倉義景

大河「太平記」の片岡鶴太郎、北条高時を思い出しました。同じ脚本家です。着ている服の配色も似ています。
鶴ちゃん高時、バカ殿ながら「単なるバカ」じゃないのです。己の運命というものを知っている。切腹のシーンなどは実に迫力がありました。
「父貞時は公平な執権であった、それで頭の悪いわれも公平に執権となり、くたくたになり、母上に頭が上がらず、長崎に頭が上がらず、はてさて、公平とは疲れるものよ」なんてセリフは実に味わいがありました。

バカ殿の凄みです。ユースケもそんな感じになっていく予感がします。しかも彼は今川義元と同じ「太守」で、越前は大国です。ユーモアの中に凄みを見せてくれそうな気がしました。
下人に床を拭かせるシーンがでてきます。ほんの数秒。「もうちょっとえぐるように拭こうか、このまま、ここまでな」というシーン。意味が分かりませんでしたが、光秀の座っていた場所を拭かせたというご意見をいただきました。そうですね。ああそうだ。身分感覚なのか、潔癖症なのか。まあ録画でみると完全にアドリブ調です。「えぐるように」なんて脚本家が書くのかなー。いい感じの朝倉義景です。

4、お駒ちゃん

私はお駒ちゃんが麒麟を呼ぶと思っているのです。そういう不思議な力を持っているということでなく、英雄+民衆が麒麟を呼ぶ。その民衆がお駒ちゃん。
そうするとお駒ちゃんにはもっと光秀を「そそのかして」欲しいのですね。「あなたは麒麟を呼ぶ人です」ぐらい言ってほしい。その点がちょっと不満かな。
門脇麦さんは、綺麗だけど個性的な顔で、右目と左目の大きさがだいぶ違う。北川景子さんのような正統派の美人ではないかも知れない。でもなんとも魅力があります。
高周波のような高い声がちょっと気にはなりますが、ウザイとかイラっととか、そういう感情は1ミリも湧きません。魅力的です。これじゃあ菊丸ですが。

帰蝶が随分と悪女的になりすぎ、煕子は良妻賢母の域を出ない。お駒ちゃんは溌剌としていい感じです。だからもうちょっと光秀の人生に、麒麟を呼ぶことに、コミットしてほしい。そんな気がします。

あー中断するのがもったいない。

織田信長の「天下布武」をなんとなく考える

2020-05-17 | 麒麟がくる
信長の天下布武という印章については、

①武は七徳の武を意味しており、武力ということではない
②天下は畿内を意味しており、日本全土ではない

とでも書いておけば、優等生的解答ということになるのでしょう。

でも違いますね。根本的な考え方がおかしいと思うのです。

①「なんで印鑑通りに行動しないといけないのでしょうか」。
②その前に、各地の武将が「七徳の武だな」とか思ったのでしょうか。全ての大名にそんな教養があったのか。

まあ②はどうでもいいのです。問題は①です。言葉の解釈は色々ありますが、「印章をもとにして信長の行動とか戦略を説明しても意味ないだろう」と思うのです。

もしこの印鑑を北条氏政が使っていたとしましょう。誰も本気とは思わないはずです。「まあ、そのぐらいの気概で関東を治めようということだろう」となるはずです。「印鑑通りに行動しなかった」と責める人間はあまりいないはずです。また「天下を狙っていた」と考える人もあまりいないでしょう。

信長の場合、「そもそも日本全土を統一しようとはしていなかった」と「したい人々」がいるのですね。そういう人にとってはこの「天下布武」は「とっても邪魔」なんです。

だから色々と意味を「こねくり回して」、なんとか「天下統一という意味じゃないのだよ」としたいわけです。

他の武将の印章がほとんど問題にされないのに、信長の「天下布武だけ」が、一種の熱情をもって「めんどくさい解釈」をされるのはその為です。
印章なんてどうでもいいのです。天下には畿内という意味も日本という意味もあるのでしょう。それはいい。重視すべきは「信長の実際の行動」です。