今日7月16日は、父の誕生日でした。
存命なら、90歳になっていたはずでした。
最後に父と会ったのは、1997年の秋。
《 参: ハナちゃんだより (24) 》
もうすぐ2歳になるムスメを初めて見せに、4年半ぶりに里帰りしたのです。
そのわずか7ヶ月後、二度目の脳溢血に倒れた父は、67歳の誕生日を目前に、帰らぬ人となりました。
《 参: ハナちゃんだより (32) 》
前年にムスメを父に見せておけて、本当に良かった・・・。
父は福島県の農家の六男坊として、昭和6年に生まれました。
終戦時は14歳。農家は兄夫婦が継いでいたし、田舎にいても仕事がなかったので、東京に出てきて
印刷工場に職を得、夢中で働いたそうです。
私には想像もつかないような、厳しい時代だったことでしょう。
共通の知り合いから話がきて、同じく福島県出身の母を紹介され、昭和31年に結婚。
武蔵村山市の会社の敷地内にある借家で、新婚生活を始めました。
昭和35年に兄が、37年に私が誕生。
子煩悩な父は本当に喜んで、すすんで子供の世話をしてくれたそうです。
写真を撮るのは主に父でしたから、父自身が写っている写真はあまりなく、これは貴重な一枚です。
村山貯水池。背景に見える第一取水塔は、1925年――今から100年近く前に建てられたものだったんですね。
本当に本当に、良い父でした。
子供の神様がいるとしたら、父はまさにその生き仏じゃないか?と思えるような。
優しくて、いつも子供たち――兄と私――のことを真先に考えてくれて、でも必要なときには厳しくて。
母が奮発してイチゴを買ってきたりすると、父は「俺はいいから子供たちにやれ」と言ったそうです。
すき焼きをしても、父は兄と私がまずお腹いっぱい肉を食べるよう配慮したそう。
(お父さん、覚えてなくてゴメン! )
貧しい農家生まれの父は、子供の頃本を読んでいると、父親(私の祖父)に
「農家の倅(せがれ)に教育など要らん!」と叩かれ、本を取り上げられたそうです。
進学などもちろん叶わず、中卒で上京。働きながら定時制高校を卒業しました。
父はなかなか達筆だったんですよね。
身内贔屓かもしれませんが、希望通り進学できていたら、かなりの成績を修めたのでは?と私は思っています。
結婚して家庭をもったから、大学進学は夢に終わってしまいましたが。
父は兄と私には、「勉強しろ!」と叱ったことはありませんでした。
「勉強しなさい。勉強するのは自分のためなのだから。」という言い方をしました。
でも私は勉強嫌いで努力嫌いで・・・
一般教養なんて習いたくないし受験勉強も嫌だからと、大学は受験せず、当時流行していた専門学校に流れてしまって・・・
本当にごめんなさい、お父さん!
父の父親(私の祖父)は、私が2歳か3歳の頃に亡くなってしまったので、私の記憶にはまったく残っていません。
父の母親(私の祖母)と相次いで、脳溢血で亡くなったそうです。揃って、60代で。
夜お酒を買いに子供を走らせ、毎晩晩酌し、子供が本を読んでいると叩いて叱る・・・
そんな祖父でしたが、父は、心根が優しかったんですね。
父親に「ラジオが欲しい」と言われて、鈍行列車で6時間(8時間だったかも)かけて、
東京から故郷に持参したそうです。
両親と妹を東京に招いて、鎌倉見物をしたこともありました。
本当に優しい人でした。
父がしてくれた昔話で、ひとつ覚えているのがあります。
父が住んでいた村に、目の見えない少年がいました。
少年の父親は、「この役立たずが!」と少年に、日常的に殴る蹴るの暴力をふるっていました。
身を守るすべもなく、歯を食いしばって耐えるしかない少年。
月日は流れ、少年は成人し、いっぽう父親は、加齢して弱くなりました。
ある日、私の父は、目撃したそうです。
木に縛り付けられた父親の腕を、ペンチでねじり上げている目の見えない男性の姿を。
その形相はまさに鬼そのもので、子供だった父は震え上がりました。
そのとき(人には決して辛く当たってはいけない。常に優しく接するようにしよう)と心に誓ったそうです。
昭和前期の農村に育った父には、興味深い話がたくさんあったことでしょう。
もっと話を聞いておかなかったことが、本当に悔やまれます。
私が子供のとき、近所にアル中の父親がいました。
奥さんがパートで生計を支えていましたが、やがて2人の息子を連れて、家を出ていきました。
高校を卒業した息子さんたちは真面目に働き、そのうちの一人は大工の見習いになったのですが、
熱心な仕事ぶりが気に入られて棟梁の娘さんと結婚されたそうです。
そんなことを風の噂に聞いたときは、すごく嬉しかったです。
家庭って、子供にとっては、初めて接する社会の最小単位ですよね。
どの子も同じように、優しい両親と、必ずしも裕福ではなくとも温かい家庭で育っている。
と、子供だった私は思い込んでいました。
成長するにつれそうではないとわかったとき、私はあの両親の元に生まれて本当に幸運だったと思いました。
お父さん。
怠け者の私は大した成果もなく人生を終わりそうだけど、勉強したくてもできなかったお父さんの思いは、
一代おいて、ハナが受け継いでくれたみたいです。
一生懸命勉強して、自分で選んだ道に進んで、毎日頑張っています。
だから、それでご勘弁ね!
私が最後に両親と過ごしたお正月は、1992年。
その翌月に、英国遊学に出発しました。
無鉄砲で、思慮が浅くて、強がってるけど実は小心者で・・・
こんな私が身に余るような幸せに恵まれたのは、父が守ってくれているからだと信じています。
父に食べ物の好みが似ているから、食事に気をつけるようになったし、体重も血圧もちゃんと管理しています。
59歳にして常用薬はないし、大きな病気も怪我も、ギックリ腰すらしたことないって、かなり健康な方ですよね。
やっぱり、父が、守ってくれているのでしょう。
90歳という節目のお誕生日なのに、お墓参りに行けなくてごめんなさい。
自由に渡航できるようになったら、必ず行きます。約束ね!
お父さん、90歳、おめでとう。
そして、心から、ありがとう。
昔も今も、ずっと変わらず大好き。
もし生まれ変われるとしたら、またお父さんの子供になれますように・・・!
お父様の誕生日だったのですね。私の父親もこの1年で認知症の症状
が進んでしまい、デイサービスの利用を残りの家族で考えています。
お父様のお話、身につまされますね。身内であれ、ひと様であれ酷いことを
してはいけませんね。自分をふりかえって大いに反省した私でした。
私は3年前に母に会いに行きましたが、認知症のため私のことも忘れていましたし、会話もまったく成り立ちませんでした。
悲しいけれど、仕方のないことですよね・・・。
私は今になって、父にいろんな話を聞いておけばよかったととても後悔しています。
YAYOIさんは、今のうちにできるだけお父様とお話しておいてくださいね。
将来心のよりどころとなるような良い思い出が、たくさんできますように。