ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(15) アウシュヴィッツⅡビルケナウ (前編)

2013-09-12 19:40:22 | 2013年6月のクラクフ

6月7日(金)の観光の続きです。

 

アウシュヴィッツⅡビルケナウは、後方に森をひかえた広大な野原にありました。

タクシーは出入口の向かって左側手前にある小さな駐車場まで行って私を降ろしてくれましたが、全体を見たかったので道路を少し歩いて引き返しました。

右手に見える人々は、大型バスで着いた人々と思われます。大型バスを含む一般用の駐車場は、そちらの方角にありました。

囚人たちに“死の門”と呼ばれた有名な鉄道引き込み線です。東を向いています。真上には監視塔。

 

入口近くに立つ案内板の向かって左はポーランド語、右が英語でした。英語のにはこう書かれていました。

"In the years 1940-1941 German occupants expelled the Poles - inhabitants of the villages: Brzezinka Harmeze Plawy Bor Rajsko Klucznikowice Babice Broszkowice and from Zasole District of Oswiecim

 Germans founded the death camp Auschwitz-Birkenau and its economic and industrial base on the site of the demolished or taken buildings

 On the 60th anniversary of those tragic events / The public of the town and the commune of Oswiecim / 22 April 2001"

“1940年と1941年に、侵攻してきたドイツ人は、ブジェジンカ・ハルメルジェ・プワヴィ・ボール・ラインスコ・クルッチニコヴィツェ・バビツェ・ブロシュコヴィツェの村々と、オシフィエンチムのザソレ地区のポーランド人住民を追放した

 ドイツ人は、取り壊されたり奪い取ったりした建物を利用して、アウシュヴィッツ‐ビルケナウ絶滅収容所とその経済・産業拠点を築いた

 この悲劇的な出来事の60周年を記念して / オシフィエンチム市民 / 2001年4月22日”

 

あまりにも有名な、絶滅収容所への入口。

右手には、のどかな風景に不釣合いなことこの上ない監視塔と鉄条網のフェンスが、どこまでも続いていました(下左)。

閉鎖されていた鉄道線路部を、外から見たところ(下右)。訪問者は、上の写真の左手に見える吹き抜け通路から出入りします。

 

アウシュヴィッツⅡビルケナウには、ガイドツアーはありません。解放当時のまま保護された収容所の施設を、個人で見て回ります。

敷地内に入ってすぐ左手にあった、施設の案内図(下左)。 右手には、2つの写真と説明板が(下右)。

"Immediately after getting off the train, the Jews were ordered to line up into two columns, one of women and children and the other of men.  Each column was subjected to 'selections' by SS doctors and medical orderlies, there and then on the ramp: the strong and the healthy were separated from the old, the sick, and children.  People selected as fit for work were sent to the camp.  The others, usually 70 to 75 per cent of a transport, were sent to be murdered in the gas chambers.  Photos taken by the SS, 1944"

“貨車を降りるやいなや、ユダヤ人たちは二列に並ばされた。ひとつは女性と子供、もうひとつは男性の列だった。それぞれがナチ親衛隊の医者やその助手の『選別』にかけられた。強く健康な者は老人や病人や子供から分けられた。『労働可』とされた人々は、キャンプに送られた。通常70%から75%の人々が、殺害されるためガス室に送られた。 写真は1944年に親衛隊員が撮影”

 

線路の右手には、鉄条網の向こうに木造のバラックが残っています。

鉄条網に掲げられた案内板。左は“このフェンスに沿って走る排水用の溝を掘らされている囚人たち。1942年か1943年の撮影”、右は“キャンプのこの部分のバラックは木造。ほとんどのバラックは、レンガ造りの煙突しか残っていない。写真は1943年か1944年の撮影”とありました。

 

最初のバラックと、説明版。収容所敷地内の前面(東側)の端近くに一列に並ぶこれらのバラックは、木造部分が残っていました。これらのバラックの後方は、鉄条網でその向こうに連なるバラックからは隔絶されていました。

これらのバラックは隔離棟として使われ、新たに到着した囚人は、ここで伝染病の有無を調べられるのみならず、規則への絶対服従をたたき込まれたそうです。

 

バラックの内部。奥にはトイレがありました。                         プライバシーなど皆無。囚人は朝晩の二度だけ、一斉にトイレを使用することを強制されました。

  

壁の鉄輪(下左)にご注目。これらの建築材は、本来は厩舎用だったので、手綱を結ぶための鉄輪がついているのです。三段ベッドが残っているバラックもありました。

 

“死の門”を振り返ったところ。                                  敷地の正面に沿って、木造バラックが続きます。

 

暖房設備らしきものが残るバラックもありましたが、バラックの大きさに不釣合いに小さなものでした。冬は-20℃まで気温が下がるというこの土地。凍死した囚人も多かったことでしょう。

バラック内にあった説明板によると、これら木造のバラックは、本来はドイツ軍の軍馬用だったもの。ひとつにつき52頭の馬を収容するよう設計されたそれぞれのバラックに、少なくとも400人の囚人が詰め込まれました。これらの写真は、アウシュヴィッツ解放後の記録用に撮影されたようです。

  

一列に並ぶ隔離棟バラックの背後には鉄条網のフェンスがあり、その向こうにはレンガ造りの煙突のみを残したバラックの名残りが広がっていました。

広大な土地にぽつぽつと残った煙突。まるで墓標のようでした。

“死の門”を振り返ると、かなり遠くなっていました。                   溝と鉄条網の塀の向こうは自由な世界です。あちら側に立つことを、皆どれほど焦がれたことか・・・

 

“死の門”に戻り、次は埃っぽい道を奥(西)に向かって歩きました。下は、内側から見た“死の門”。

右手(北側)の風景。

鉄条網のフェンスの支柱とレンガ造りの煙突が林立しています。

左手(南側)、前面(東側)近くの風景。

振り返って見た“死の門”。

途中に囚人たちの移送に使われた貨車が、一台だけ保存されていました。

白い花束と、石が供えられていました。そういえば、オスカー・シンドラーの墓にも石が載せられていましたっけ。これ、きっとユダヤ人には、鎮魂のような意味があるのでしょうね。

 

貨車の先で左(南)に折れる道があり、その先にはレンガ造りのバラックが並んでいました(下左)。

そちらへの入口近くにあった説明版によると、ナチ親衛隊の医師は『選別』の過程において、新たに到着した囚人たちを「健康で働ける」者たちと、「まっすぐガス室送り」にする者たちとに分けたそうです。

「すぐにガス室送り」とされたユダヤ人たちは、奥(西側)にあるガス室へと、この道を追い立てられて行きました。

 

ナチ兵たちに“選別”されるユダヤ人たち、1944年撮影(下左)。                門をくぐって、レンガ造りのバラックに向かいました。

 

 

≪ つづく ≫

 

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