ボクは、他人が書いた文を修正するということを、長年やっている。今も、お礼の電話があった。
自らの意思や主張を伝えるための手段として、文章というものがある。そう文章を規定すると、文章は他人が読んで理解できるものでなければならない。
しかし、皆が皆、そういう文章を書けるわけではない。自分では他人は理解できるはずだと思い込んでいるが、実際はそうではない文章を平気で書く人がいる。他人が読んで理解できないということに思いがいかないのである。
そういう文章をなおすときには、その人が書いた文章の趣旨を理解して、基本的には全面的に書き直してしまう。その人が主張したいことを、わかりやすく書き直すのだ。驚くことは、こういう人は、文章を書き直してしまっても、直されていることにほとんど気がつかない。
あるいは、主張が明確ではあるが、それをひとつのまとまった文にできないという場合もある。そういう場合は、箇条書きで主張したいことを書いてもらう。それをもとに、その主張に関連することを、本などで調べる。何かを書こうとするときは、書こうとすることについてある程度の知識をもっていないと、絶対に書けない。
そして、その知識をもとに、いかなる順序でそれらを並べていったら良いのかを考える。その際には、論理性が求められる。他人に理解してもらうためには、順序というものがとても大事だ。その順序というものは、内容によって異なる。あるときは最初に結論をもってきて、そのあとに説明を加えていく、あるときはきわめて具体的な事項をあげて、徐々に結論に向かって積み上げていく・・・・
どういう順序で書いていくかは、どう書けば説得力ある文になるか、という視点で考えていく。その場合、その文を読むのはどういう人か、あるいはどういう人に聞かせるか、ということが重要である。ボクは、書いていくとき、読む人のこと、あるいは聞く人のことを思い浮かべる。
たとえば、議員さんに聞かせるときには、議場を想定する。そして、その議場に座っている議員は、ほとんど何も考えてない、知識もない人たちだ。そういう人たちを啓発する文にする。心の底で、「あんたたち、少しは考えなさいよ」という気持ちで書く。
直してあげても、ボクの名はでない。全くの黒子である。しかし、感謝の言葉を聞くだけで、ボクは満足する。
少し付け足すと、最初に持ってこられる文に、誤字が多いと、ボクはしらける。誤字をまったくなくすことは、ボクだってできない。しかし、あまりに不用意な誤字、こんな誤字は普通絶対にしないというような誤字があると、これはダメだと思うことがある。誤字も知性のうちなのだ。
自らの意思や主張を伝えるための手段として、文章というものがある。そう文章を規定すると、文章は他人が読んで理解できるものでなければならない。
しかし、皆が皆、そういう文章を書けるわけではない。自分では他人は理解できるはずだと思い込んでいるが、実際はそうではない文章を平気で書く人がいる。他人が読んで理解できないということに思いがいかないのである。
そういう文章をなおすときには、その人が書いた文章の趣旨を理解して、基本的には全面的に書き直してしまう。その人が主張したいことを、わかりやすく書き直すのだ。驚くことは、こういう人は、文章を書き直してしまっても、直されていることにほとんど気がつかない。
あるいは、主張が明確ではあるが、それをひとつのまとまった文にできないという場合もある。そういう場合は、箇条書きで主張したいことを書いてもらう。それをもとに、その主張に関連することを、本などで調べる。何かを書こうとするときは、書こうとすることについてある程度の知識をもっていないと、絶対に書けない。
そして、その知識をもとに、いかなる順序でそれらを並べていったら良いのかを考える。その際には、論理性が求められる。他人に理解してもらうためには、順序というものがとても大事だ。その順序というものは、内容によって異なる。あるときは最初に結論をもってきて、そのあとに説明を加えていく、あるときはきわめて具体的な事項をあげて、徐々に結論に向かって積み上げていく・・・・
どういう順序で書いていくかは、どう書けば説得力ある文になるか、という視点で考えていく。その場合、その文を読むのはどういう人か、あるいはどういう人に聞かせるか、ということが重要である。ボクは、書いていくとき、読む人のこと、あるいは聞く人のことを思い浮かべる。
たとえば、議員さんに聞かせるときには、議場を想定する。そして、その議場に座っている議員は、ほとんど何も考えてない、知識もない人たちだ。そういう人たちを啓発する文にする。心の底で、「あんたたち、少しは考えなさいよ」という気持ちで書く。
直してあげても、ボクの名はでない。全くの黒子である。しかし、感謝の言葉を聞くだけで、ボクは満足する。
少し付け足すと、最初に持ってこられる文に、誤字が多いと、ボクはしらける。誤字をまったくなくすことは、ボクだってできない。しかし、あまりに不用意な誤字、こんな誤字は普通絶対にしないというような誤字があると、これはダメだと思うことがある。誤字も知性のうちなのだ。