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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

民芸

2013-09-30 20:32:18 | 読書
 ボクは今まで民芸というものにまったく興味を持ってこなかった。私の住む地域の歴史を話すという仕事を引き受けたとき、少し調べたら民芸運動がここ浜松と関係があることがわかってきた。

 だから夏、柳宗悦の創建した「日本民芸館」にも行ってきた。そこには、素朴でありながらも美しいものが、決して自己主張することもなく並べられていた。ボクはそこで、民芸の理念といったものを具体的に垣間見た感じがした。

 そして話すために、ボクは柳や民芸関係の文献を渉猟し、もちろんそれらを読みはじめている。そのなかに
柳の『手仕事の日本』(岩波文庫)があった。これがまた、ボクの狭い世界をより広げてくれた。民芸の世界の思想といったものが、より具体的に見えてきたのだ。そしてこの民芸が、ひょっとしたら日々の生活を豊かにすると同時に、地方の価値というものをより鮮明にしてくれるのではないかと思った。

 この本は、柳が全国をまわって、それぞれの地域の手仕事の状況を報告したものだ。民芸品は、手仕事でつくられる。民芸を訪ねるということは、手仕事の現場を見ることなのである。

 そうすると、民芸品が豊かにつくられるところは、都会の中心地ではない。地方で言えば、東北であり、北陸であり、山陰地方であり、そしてまた沖縄である。東京でいえば下町である。東京を除けば、現在過疎化したり、あるいは活気を失っているような地である。しかしそういうところこそ、実際は豊穣な文化が育っていたのだ。ボクはこの本を読みながら、民芸に注目することがとても大切なことだと思い始めた。

 民芸とは、「美に輝く日常の道具」を「民衆的工芸」として創り出されたことばだ。

 各地に根付いた手仕事は、「遠く深い伝統の上に立っている」ものではあるが、その伝統は決して閉鎖的なものではなく、「創造と発展」をもった開放的なものでなければならない。職人さんは、そうした伝統を引き継いでいる。しかしそれらをつくり出す職人さんたちは無名である。

 柳は「彼らが貧しい人々であり、作るものが普通のものであろうとも、大きな伝統の力に支えられている」、その伝統が職人さんに「仕事をさせている」のだという。「いわば品物が主で自分は従なの」だ。「彼らは品物で勝負をしているのであ」って、「もので残ろうとするので、名で残ろうとするのでは」ない、と。

 この柳の、伝統の力、名ではなくもので残る、という指摘など、とても新鮮である。

 そして「生活の中に深く美を交えることこそ大切」だという。日々の生活の中に「文化の根元」があり、「人間の真価は、その日常の暮らしの中に、もっとも正直に示される」というのも、重い言葉だ。

 そしてその美とは何か。「よき働き手であってこそよき実用品」であるから、それは「健康」であることだという。「健康」であることは、「一番自然な本然の状態である」というのだ。そして「この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であること」、「凡ての美はいつかここを目当に帰って行く」。

 実用品のなかに美を見出し、その美をとらえ、生活の中で使用していくことが、柳のいう「生活の中に美を交える」ということなのだろう。

 柳がこうした考えを持つきっけになったのは、朝鮮の民芸であった。朝鮮の民芸のなかにある美に開眼した柳が日本を振り返ったときに、日本の民芸に美を再発見したのである。

 だから柳は、「他の国のものを謗るとか侮る」ことをするのではなく、「国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません」という。

 ボクは柳をはじめとした人々の民芸運動から、多くのことを学ぶことができるような気がする。そのわくわくした気持ちを、聴講する方々に伝えられればいいと思うのだ。

多くのアクセス

2013-09-30 13:48:44 | 日記
 昨日、NHKの「日曜美術館」で、石田徹也の絵について放送した。ボクはそれをあとから録画で見たのだが、石田の絵から受けた印象や感想が、あまりにも多様であることに驚いた。石田のような絵は、確かに様々な感想をつくりだす。その意味で、きわめて創造的な絵画であるといえよう。だが、感想の中に、違和感を抱くものもあった。
 ボクは、2007年8月に、静岡県立美術館でみた石田の展覧会を忘れない。そのとき受けた印象は、今度も変わることはなかった。

 以下は、その際に記した感想である。他のブログに書いたものだが、アクセス数は6700を越えている。時代閉塞の現況を、鋭くとらえ、それをキャンバスに描いた石田の作品は、いよいよますます脚光を浴びることだろう。



 すでにこの世にいない静岡県焼津市出身の画家、1973年生まれ、2005年、踏切事故で亡くなった夭折した石田徹也(享年31歳)の展覧会を見てきた。静岡県立美術館で開かれている展覧会の名は、「石田徹也ー悲しみのキャンバス」である。

 なぜ「悲しみ」なのか?

 下記のアドレスは、石田のHPである。
 http://www.tetsuyaishida.jp/

 石田徹也の絵を最初に見たのは、NHKの新日曜美術館であった。衝撃的な絵であった。誰も思いつかないような非現実の世界が、現実の世界とつながっている。現実と非現実の世界が、画家それ自身の虚ろな眼でつながるのだ(石田の絵には、石田自身が描かれている)。もちろん絵そのものにそのつながりが描かれているのではない。画家それ自身の虚ろな眼の奥に広がる想念のなかに、そのつながりが隠されているのだ。私たち絵を見る者は、その想念のなかに入り込んでいかなければならない。
 
 石田の絵は、決して心地良いものではない。美術館のミュージアム・ショップで購入した800円のパンフレットには、4人の文が掲載されている。なかでもっとも訳が分からない文を書いていたのが、美術ジャーナリスト名古屋覚のものだ。名古屋は、31歳で死んだシューベルトの「いくつかのピアノ協奏曲の雰囲気」と石田の「絵の内容」が「重なる」とするのだ。名古屋は、シューベルトの「即興曲変ト長調」と石田の絵を織り交ぜて論じている。しかしシューベルトの音楽を想起するとき、それと石田の絵画との比較は成り立つのであろうか。

 「子孫」という作品がある。手術台の上に古い自動車が置かれ、3人の医師に囲まれている。そのボンネットからワニ(恐竜?)が首をだしている。そのワニは、生きてはいない。その前に生まれたばかりの小ワニ(といっても生きていない)が描かれ、その腹から幼児の上半身が出ている。幼児の手は、虚ろな眼の石田自身の、体の大きさから見ると不自然に大きな左手を掴んでいる。私には生まれてくること、あるいは生命の連鎖の無意味さ、翻って生の意味を自省している、そんな絵に見える。名古屋はその絵について、いとも簡単に「こうした題材がそれぞれ現実の世界の何を象徴しているか想像するのは容易だし興味深くもあるが、ここで書くのは野暮だろう」として、書かない。

 もう一つ、名古屋は「体液」という絵をあげる。名古屋の絵の説明をそのまま引用しよう。「洗面台が石田に似た男の頭と両腕で表されていて、男の悲しげな両眼から流れ出る涙が、腕の間の流しに溜まっている。その涙の池の中に力なく横たわる「生きている化石」めいた動物」。そしてその後にこう解説するのだ。「全体的にやるせない悲しさが漂うものの、同時に奇妙な明るさが画面を支配している」とし、「ここでも、男と一体化した洗面台、涙、珍しい動物・・・の象徴するものは分かりやすい」と書くが、分かったことは書いていない。自分だけで分かっているようだ。

 私は、「奇妙な明るさ」をこの絵には見ない。全体的に、石田の絵に「明るさ」はない。名古屋は、「悲惨な社会を暗示しながら明るさを失わなかった石田の絵画」とするが、果たして石田の絵に「明るさ」を見ることができるのだろうか。
 この絵で、石田は涙を流し続けている。石田の目から流れている涙は、頬を伝っている。その伝う涙に切れ目はない。何を悲しんで流しているのかはわからない。しかし石田は、その涙を流してしまわずに、涙を溜めている。そしてその涙で、三葉虫のような奇怪な動物を育てているようなのだ。絵全体からは「明るさ」ではなく、どうしようもない悲しさが、どうしようもないものをつくり出し、それを成長させてしまうほどの深い悲しみなのである。その深い悲しみをひたすら自分自身のものにし、自分自身で支えようとしているのだ。洗面台に一体化して組まれている石田の両手が、まさに涙を支えているのだ。

名古屋は、最後にこう記している。シューベルトの死因は腸チフスとされているが、「風俗通い」による梅毒によるものだとし、「悲しい死に様まで、シューベルトと石田は似ている」と。 踏切事故で亡くなった石田と、そうした死に方をしたシューベルトと「似ている」のだろうか。名古屋は、「芸術が時代も文化も超える人間の魂の声だと感じられるのは、こうしたことを考えるときだ」と末尾に記すが、「こうしたこと」とは何を指すのだろうか。
 *このパンフレットは、専門的に絵画をみる眼をもったひとばかりが買い求めるものではない。私もそうした眼をもっていない。だからもっとわかりやすい内容で書いていただきたいと思う。なお他の方々の文章は、読んでいて納得できる内容であった。

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 石田の絵には、現代文明の病理をシンボリックに描いたものがある。「社長の傘の下」(社長がまわす傘に、メリーゴーランドのように社員が「廻されている」)、「燃料補給のような食事」(ファスト・フード店で、三人の店員から三人のスーツを着ている会社員がガソリン・インジェクターから食事を補給されている)、「囚人」(校舎のなかにはめこまれている石田自身、校舎の窓や屋上から監視する男たち、校庭にじっとたち続けている子どもたち)など。石田は、ベン・シャーンのような画家になりたいと言っていたという。ベン・シャーンは社会派の画家である。そのような考え方から描いた絵なのだろうか。文明に対する直感的な違和感を、キャンバスに描いた、そんな絵だ。

 違和感というのは、石田の場合、現代文明だけではなさそうだ。現代文明だけでなく、石田を取りまくあらゆるもの、あらゆる事象が石田を疎外しているという「現実」。まわりと折り合いがつかない、折り合いがつかないのはなぜかを見つめずに、その状況をそのまま絵で表現する。だから絵は、非現実なのである。そしてまた絵の中に描かれる石田の眼は、常に虚ろなのである。

 2004年頃に描かれたものを見る。無題の絵。夜、机に向かう石田。机には何も書かれていないキャンバス、机の上の絵の具箱には絵の具はない。背後に二人の男が立っている。
先ほどの「体液」も2004年頃の作品だ。2004年頃に描かれた絵は、生に対して閉塞的なものが多い。「制圧」という絵は、携帯電話が、石田徹也という肝臓を病む男の顔にのめりこんでいる。顔面は血だらけだ。「再生」は、題が「再生」であるにもかかわらず、患者のプレートをつけた石田徹也が点滴を受けている。この眼は虚ろではなく、何かを見つめている。「再生」が指すのは、石田本人ではなく簡易ベッドの下に描かれた雛のことをさすのではないか。「堕胎」はベッドの上に横たわる下着姿の女性。その脇にいる石田。ベッドの下には川が流れている。黒い赤ん坊の死体らしきものがある。 

石田の死は、「自死」ではなかったのか。石田の周囲のありとあらゆるものが、石田を疎外し、石田を押し潰していく。2004年頃の絵には、それに抗するものが描かれていない。
 2002年頃までの絵には、絵と石田自身には距離がある。石田と、書こうとする対象がある。つまり絵は、石田が主体となって描いているのである。しかし2004年頃の絵には、石田自身が絵の中にがっちりと捉えられ、しかもその絵には生への意志が感じられない。石田は、絵を描く主体ではなくなり、生への意志を失った絵のなかに塗り込められてしまっているのだ。
 別の言い方をする。石田はほとんどの絵の中に、非現実の石田自身を描いている。しかし石田は、2004年頃、自らが描いた絵の中の非現実の石田自身に、吸い込まれてしまったのである。
 石田は、非現実の世界に飛翔していった?!
 

支配層がめざすもの

2013-09-30 13:38:34 | 読書
 いつでも、どこでも支配層が望む民衆像は変わらない。支配層の意のままに動く民衆、支配層に何の疑いもなく付き従う民衆・・・

 その姿が、ここにある。『東京新聞』のコラムから。筆者は、浜松市出身である。


じっと動かぬ北朝鮮の民衆

2013年9月23日

 北朝鮮を訪れ、建国記念日の九月九日に平壌市内で軍事パレードを見た。民兵組織の労農赤衛隊。足をまっすぐに伸ばし、前に大きくけり出して行進する。隊列は直線を引いたように乱れがなかった。
 もっと驚いたのは、行進が始まる前の様子だった。数万人の群衆が会場の金日成(キムイルソン)広場を埋め尽くした。両手に花飾りを持って掲げ、直立したまま一時間近くも動かないのだ。スタンドの私の席から七百~八百メートルほど離れていたが、群衆が持つ花飾りで、一面、ピンクの花畑のようだった。一人一人が集団と完全に一体化していた。
 五百人ほどの軍楽隊は開始五分前に、楽器を構えてぴたりと静止した。管楽器は吹き口に唇を当て、打楽器もすぐ鳴らせるよう手を浮かしたまま。チョウが顔の近くに飛んできても、じっとしている。パレード開始が遅れ、楽隊員たちは十五分近くも「用意」の姿勢を保った。
 この人たちは「一センチたりとも動くな」と命令されたら、ずっと守るのではないか。北朝鮮の案内人は「学生のころから集団行動を訓練するから、そんなに苦痛ではないですよ」と言うのだが。
 首都平壌では高層アパートや公園、レジャー施設の建設が進み、乗用車が増え市民の服装も随分明るくなった。軍事パレードで誇示した一致団結と忍耐を、経済建設にこそ生かしたらと思う。 (山本勇二)