goo blog サービス終了のお知らせ 

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】村上春樹『国境の南、太陽の西』

2013-01-08 21:22:12 | 日記
 Hさんが推薦したので読み始めた。村上作品は、ずっと前に『ノルウェイの森』を読んだ。そのとき、こう思った。たとえていえば、海は広く深いのに、この小説は波の動きだけを描いていると。だからその後、村上作品は一切読まなかった。

 そしてこの本、これは浅くはなかった。この本のなかには、フムフムと思うような箇所がいくつかあったが、その中でも次の箇所が気に入った。

 「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」(201頁)

 人生を生きていると、様々なことを体験して、その体験は歴史となって過去へと飛び去っていく。飛び去った過去は、もう過去でしかない。

 しかし時に、過去と密接につながる事象が、自らの現前に立ち現れてくることがある。しかし、それはもう昔のままではなく、今のことなのだ。今のことであるということは、今その事象について決断しなければならないことなのであって、過去そのものではない。

 この小説は、小学校の頃近所に住んでいた少女と仲良くしていた主人公が、長ずるにつれて少女とは別の人生を生き、そして別の女性との安定した日常の生活を営んでいた。そこへ、あの少女が出現したのだ。もちろんその少女は、主人公と同じ年齢で出現する。

 そのもと少女は、不思議な女性で、どのような生活をしているのか、まったくわからない。秘密のベールに包まれている。そのベールは小説の最後まで取り去られることはない。そのベールの背後には、生活がない、つまり生がない状態を暗示しているように思われた。

 だがそのもと少女は、主人公の意識、生活を大いに揺さぶる。主人公は、今の日常生活ではなく、もと少女との別の生(いや、もと少女は生がない状態だから、ひょっとしたら死の世界?)を選ぼうとする。だが、その決断の直後、もと少女は姿を消してしまう。おそらく永遠に主人公の前には現れてこないだろう。

 主人公は、もと少女と再会する以前の日常生活そのものではないが、もとの生活に、最終的には戻っていく。

 主人公は、日常生活に埋没して生きているわけではない。何ものかを渇望しながら生きているようなのだ。そのような渇望を持つ人の前に、別の生が提示される時、彼は動揺し、今の日常生活とはまた別の生を生きたくなる。

 ボクは、主人公のその感情がわかるのだ。そしてボクはこの小説を読んでいて、主人公が最終的にもとの日常に戻っていく姿ではなく、もと少女とのある意味での「心中」、あるいは今の日常生活を壊しての別の生を生きさせるべきだと、実は思った。

 「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」というもと少女のことばに、ボクは賛意を表する。人生とは、そういう「ある種のものごと」により敷き詰められているからだ。

 残念ながら時間軸は一方向だ。戻りたいと思っても、戻れない。だから無数の悔恨を背負いながら、あるいはときに振り返りながら生きていかざるを得ない。そして時に、その「ある種のものごと」に突入したいという願望を持ちながら。

野蛮な時代

2013-01-08 08:28:56 | 日記
 野蛮だというのは、人間が路上で生活していても、その状況を放置していて、平気でいるからだ。人間は路上で生きる存在なのか。

 ボクは寒い寒いと言いながら、石油ストーブをつけ、電気カーペットの上にいる。しかし、路上では、自らの肉体で寒さをしのがなければならない。眠れないから、寒いから、歩く。そういう状況を放置していていられることを考えると、やはり人間は野蛮なのだ。

 その野蛮さが、各所で現れている。たとえば最近出版された『検証尖閣問題』(岩波書店)の前書きに、編者の孫崎享氏は、こう記す。

 孫崎氏は「朝まで生テレビ」に出演したそうだ。出演中、彼への非難が集中したという。そして番組最後、アンケートがなされた。「尖閣諸島を守ることを最優先する」と「日中関係を促進する」という二者択一だ。この文言にも、意図的なものを感じるが、その結果は前者が8割を占めたという。

 「私は愕然とした。この番組は右翼的傾向の強い視聴者が多いという。しかし、大きな世論の動きと無関係ではないであろう」

 私はここにも「野蛮」を見る。

 そして孫崎氏は、こう述べる。

 「私は、尖閣問題は今、非常に危険な状況にあると見ている。」 

 「私は今こそ、尖閣問題で日中双方が軍事紛争を避けるために、真剣に考える時にきていると思う。」

 私は孫崎氏の主張に同意する。孫崎氏の主張は、日中関係はじめ日米関係を含めた外交に関する認識、あるいは戦後の政治や外交の歴史、現在の経済問題などを総合的に考えた上で、上記の結論に至っている。きわめて理性的な議論である。本来、理性的な議論がマスメディアや政治のレベルでは主張されなければならない。

 ところが、最近のそれらの主張は『中日新聞』紙上では見かけるものの、そのほかの場面では威勢のいい主張が幅をきかし、インターネット上の2チャンネルなどでは言葉それ自体もそれこそ野蛮な、いや口汚いといったほうがよいようなことばをつかった無責任な「放言」が貼り付けられている。

 日本では、理性的な議論が後景に追いやられ、政治家を始めマスメディアも無責任な放言を繰り返している。だが彼らは安全なところで叫んでいるが、まさに「前線」で中国との緊張関係の矢面に立っている海上保安庁の人びとは、どうなのだろう。

 尖閣は、日中の間で「棚上げ」の状態のまま、日本が支配権を行使していた。それでよかったのではないか。日本経済は、この問題を介して、大きな損失を被っている。総合的に考えて、日中関係は平和で友好的であるべきだ。

 21世紀は理性が支配する世紀ではなく、野蛮が支配する世紀になるのだろうか。理性は、学ぶことによってこそ、鍛えられる。書籍が売れず、テレビはバカ番組ばかり流し、マスメディアは無責任な放言を繰り返す。

 その結果、もっとも被害を受けるのは、庶民である。野蛮は他のものを攻撃しているように見せて、実は自国の庶民を苦しめるのだ。庶民は、賢くならなければならない。