Hさんが推薦したので読み始めた。村上作品は、ずっと前に『ノルウェイの森』を読んだ。そのとき、こう思った。たとえていえば、海は広く深いのに、この小説は波の動きだけを描いていると。だからその後、村上作品は一切読まなかった。
そしてこの本、これは浅くはなかった。この本のなかには、フムフムと思うような箇所がいくつかあったが、その中でも次の箇所が気に入った。
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」(201頁)
人生を生きていると、様々なことを体験して、その体験は歴史となって過去へと飛び去っていく。飛び去った過去は、もう過去でしかない。
しかし時に、過去と密接につながる事象が、自らの現前に立ち現れてくることがある。しかし、それはもう昔のままではなく、今のことなのだ。今のことであるということは、今その事象について決断しなければならないことなのであって、過去そのものではない。
この小説は、小学校の頃近所に住んでいた少女と仲良くしていた主人公が、長ずるにつれて少女とは別の人生を生き、そして別の女性との安定した日常の生活を営んでいた。そこへ、あの少女が出現したのだ。もちろんその少女は、主人公と同じ年齢で出現する。
そのもと少女は、不思議な女性で、どのような生活をしているのか、まったくわからない。秘密のベールに包まれている。そのベールは小説の最後まで取り去られることはない。そのベールの背後には、生活がない、つまり生がない状態を暗示しているように思われた。
だがそのもと少女は、主人公の意識、生活を大いに揺さぶる。主人公は、今の日常生活ではなく、もと少女との別の生(いや、もと少女は生がない状態だから、ひょっとしたら死の世界?)を選ぼうとする。だが、その決断の直後、もと少女は姿を消してしまう。おそらく永遠に主人公の前には現れてこないだろう。
主人公は、もと少女と再会する以前の日常生活そのものではないが、もとの生活に、最終的には戻っていく。
主人公は、日常生活に埋没して生きているわけではない。何ものかを渇望しながら生きているようなのだ。そのような渇望を持つ人の前に、別の生が提示される時、彼は動揺し、今の日常生活とはまた別の生を生きたくなる。
ボクは、主人公のその感情がわかるのだ。そしてボクはこの小説を読んでいて、主人公が最終的にもとの日常に戻っていく姿ではなく、もと少女とのある意味での「心中」、あるいは今の日常生活を壊しての別の生を生きさせるべきだと、実は思った。
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」というもと少女のことばに、ボクは賛意を表する。人生とは、そういう「ある種のものごと」により敷き詰められているからだ。
残念ながら時間軸は一方向だ。戻りたいと思っても、戻れない。だから無数の悔恨を背負いながら、あるいはときに振り返りながら生きていかざるを得ない。そして時に、その「ある種のものごと」に突入したいという願望を持ちながら。
そしてこの本、これは浅くはなかった。この本のなかには、フムフムと思うような箇所がいくつかあったが、その中でも次の箇所が気に入った。
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」(201頁)
人生を生きていると、様々なことを体験して、その体験は歴史となって過去へと飛び去っていく。飛び去った過去は、もう過去でしかない。
しかし時に、過去と密接につながる事象が、自らの現前に立ち現れてくることがある。しかし、それはもう昔のままではなく、今のことなのだ。今のことであるということは、今その事象について決断しなければならないことなのであって、過去そのものではない。
この小説は、小学校の頃近所に住んでいた少女と仲良くしていた主人公が、長ずるにつれて少女とは別の人生を生き、そして別の女性との安定した日常の生活を営んでいた。そこへ、あの少女が出現したのだ。もちろんその少女は、主人公と同じ年齢で出現する。
そのもと少女は、不思議な女性で、どのような生活をしているのか、まったくわからない。秘密のベールに包まれている。そのベールは小説の最後まで取り去られることはない。そのベールの背後には、生活がない、つまり生がない状態を暗示しているように思われた。
だがそのもと少女は、主人公の意識、生活を大いに揺さぶる。主人公は、今の日常生活ではなく、もと少女との別の生(いや、もと少女は生がない状態だから、ひょっとしたら死の世界?)を選ぼうとする。だが、その決断の直後、もと少女は姿を消してしまう。おそらく永遠に主人公の前には現れてこないだろう。
主人公は、もと少女と再会する以前の日常生活そのものではないが、もとの生活に、最終的には戻っていく。
主人公は、日常生活に埋没して生きているわけではない。何ものかを渇望しながら生きているようなのだ。そのような渇望を持つ人の前に、別の生が提示される時、彼は動揺し、今の日常生活とはまた別の生を生きたくなる。
ボクは、主人公のその感情がわかるのだ。そしてボクはこの小説を読んでいて、主人公が最終的にもとの日常に戻っていく姿ではなく、もと少女とのある意味での「心中」、あるいは今の日常生活を壊しての別の生を生きさせるべきだと、実は思った。
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは、一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」というもと少女のことばに、ボクは賛意を表する。人生とは、そういう「ある種のものごと」により敷き詰められているからだ。
残念ながら時間軸は一方向だ。戻りたいと思っても、戻れない。だから無数の悔恨を背負いながら、あるいはときに振り返りながら生きていかざるを得ない。そして時に、その「ある種のものごと」に突入したいという願望を持ちながら。