浜名史学

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大杉栄らの墓前祭

2023-09-09 19:11:52 | 近現代史

 1923年、関東大震災の混乱のなか、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人が、東京憲兵隊によって虐殺された。2023年、虐殺事件を振り返り、大杉、野枝の生き方や思想を考えるための集会が各地で行われる。

 静岡には、大杉らの墓があり、断続的に墓前祭が執り行われてきた。2013年からは毎年9月に開催してきた。今年は9月16日、11時から沓谷霊園で墓前祭、午後2時から静岡労政会館で、大杉豊さん(栄の弟である勇の子)による講演会が開かれる。

 他の地域で開催される集会などは、100年ということから単発的に行われるものであるが、静岡の墓前祭は、長い歴史がある。

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 1923年9月16日、東京憲兵隊本部で虐殺された大杉らの遺体は、菰で包まれ、さらに縄で縛られて同本部構内の廃井戸に投げ込まれた。18日、『報知新聞』夕刊が、憲兵隊により大杉らが拉致されたことを報じ、翌19日、大杉勇が憲兵隊司令部に赴くも門前払いを受ける。その日、閣議で後藤新平内相が警察情報をもとに、大杉らが拉致された件を報告、山本権兵衛首相は田中義一陸軍大臣に調査を求めた。その結果、虐殺が明らかとなり、甘粕正彦らが拘引される。そして20日、廃井戸から遺体が引き上げられ剖検が行われた。

 遺体は25日、幌付きの軍用貨物自動車で落合火葬場へ、27日払暁荼毘に付される。10月2日、分骨された遺骨とともに、大杉らの遺児が福岡に向かう(16日葬儀が執り行われた)。12月16日、谷中斎場での葬儀が、当日朝右翼団体大化会によって遺骨が奪われたため、遺骨のないままで営まれた。25日、遺骨が警視庁に返された。しかし、難波大助による虎の門事件が起き、また遺骨強奪事件の証拠品とされたことから、遺族への遺骨返還が実現しなかった。

 1924年5月17日、警視庁から遺骨が返還された。同月25日、静岡市の沓谷霊園に大杉ら3人、そして弟の大杉伸の遺骨が埋葬され、1925年7月13日、墓碑が建立された。

 静岡に大杉らの墓があるのは、大杉の父・大杉東(あずま)の墓が清水の鉄舟寺にあったから。当初、鉄舟寺、次いで真福寺に埋葬する計画があったが、いずれも反対に遭い、静岡市の共同墓地となった。静岡市在住の大杉栄の妹柴田菊夫妻(夫は柴田勝造)の尽力によるものであった。     

   2013年以降、私たちは、墓前祭に引き続く追悼講演集会で、いろいろなテーマをとりあげてきた。過去の墓前祭では主に大杉栄がテーマとして扱われてきた。しかしもっと視野を広げてこの事件を捉えるべきだと考え、大杉事件が広く世界に伝えられたこと、伊藤野枝の闘いや思想のこと、1923年の大震災時には大杉らだけではなく、朝鮮人・中国人、そして平沢計七(友愛会の活動家、浜松の鉄道工場で働いていたこともある)も虐殺されていることから、そうした虐殺事件をも視野に入れること、そして現在のアナーキズム思想と、毎年テーマを変えてきた。

 とにかくこの事件は、現在の視点から、全体的にとらえ直すことが求められていると思う。というのも、1990年代以降、歴史否認の妄説が、雑誌、SNSなどで繰り返し報じられ、震災時の朝鮮人虐殺についてはそれを否定するものまで現れた。そしてそれが今、行政にも反映してきている。

 地道な事実究明の努力が、歴史的事実として確認され、人びとの共通認識とされてきたにもかかわらず、妄説がそれを覆そうとしている。そういう時代に、私たちは生きている。

 そんな時代だからこそ、大杉栄の思想、野枝の闘いの軌跡を、私たちは振り返る必要がある。

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